5-1

「……血液毒かなんか、塗ってやがったなァ」


 苦々し気な表情を浮かべて、ジガバチが言った。アゲハが渡したハンカチでぎゅっと刺された腕をきつく結ぶと、ゆらゆらと立ち上がった。額とこめかみに大量の汗をかいている。顔色も悪い。

 万万が一のことを想定して、血液凝固毒を塗っておいたのだ。そこら辺のヘビからとれる、血液が固まる仕組みを阻害する、と言った単純な毒だ。


「……す、すみません。だって――」


「あァ、いいって。別に責めてねーよ……」


 自分の行いが、とても申し訳なく、そして恥ずかしかった。謝り、言い訳しようとするのをすかさず制す彼を見て、信じてよかったと思った。

 すると、「ん!」と言って右手を差し出してきた。意図が分からず、キョトンとする。


「なんかあんだろ? 止血剤とか」


 それを聞いて、ギクッとした。「あのぉ、それが……」と言葉を紡ぎだす。このようなことを言うこと自体、今のこの状況下では情けなさ過ぎた。つまるところ、止血剤など用意していなかったのである。


「一番想定してなかった形で終結したので……」


「無いのか?」


 彼女は黙って、コクコクと頷いた。


「……マジかァ」


 絶望したように、ジガバチは項垂れる。そしてその拍子にフラッと状態が揺れた。アゲハはギョッとして体を支える。


「大丈夫ですか!?」


「頭が痛ェ……。あンだけイキった手前、お前に何とかしてくれなんて情けねーことは言わねェから、ちょっと肩貸してくれ」


 度重なる、戦闘とそれによる怪我と疲労は限界を超えていたのだろう。これまでにないほどに弱っていた。時間がない。きっと、後始末にやってくるだろう。

 ここのところ、アゲハは妙に聞き分けが良すぎた。それは、最初から逃がすことは決めていたからだった。立ち回り方は全く考えていなかったし、想定外のことが多すぎて、準備を全くしていなかったのは良くなかった。


「頑張りましょう。二人で!」


 何とか元気付けようと、彼女は明るく声を掛けた。実に絶望的な状態だが、今は一人じゃない。何とかなるのではないか、という気持ちが強かった。

 逃げる、あるいは闘うという選択肢はありえなかった。頼りになるジガバチがこの状態では、強硬手段で打破するのは難しい。やはり、二人でいることの価値を見出し、提示するしかなかった。ハイエナは損得勘定で動く男だからだ。


「……来るのか?」


 いやな予感がして、パッと扉に目をやり、身を固めた。

 ジガバチが彼女を自分の背後に押し込むのと、ハイエナが入ってくるのはほぼ同時だった。


「しくじったな? アゲハ。いや、それとも……」


 ハイエナは入って来るや否やアゲハをきつく睨む。胸にキリっと針が刺さるような痛みが走った。そして、何かを言いかけ、途中で閉口する。

 すると、突然顔を手で押さえると震えだした。手の隙間から垣間見える、ハイエナの歪んだ顔を見てアゲハはぞっとした。笑っているのだ。それも、口が裂けるほど、顔が歪むほど、笑っていた。

 あの均整の取れた美しい顔が、ぐちゃぐちゃだった。「クッ、クハハハハ……」と、悪魔のような高笑い声が、廃工場の鉄筋に当たって反響する。


「本当に、タフな奴らだなあ!! なぜだ!? 一体どうしたらこういった状況が生まれるというんだ!?」


 彼は叫んだ。もはや慟哭だった。本当に、本当に可笑しく仕方がないといった具合に笑っていた。腹を抑えながら笑う姿は、いつもの微笑や一笑を付す程度の彼から想像できないほどだった。

 アゲハはあまりの異様さに、本当に今度こそ失禁するか失神しそうだった。こんなに恐怖で震えたのは、ジガバチに初めて会った時くらいだ。いや、それを越す恐怖と対峙しているかもしれない。

 二人の間合いに入っているジガバチはどう思っているのだろうか。


「本来なら二つの選択肢しかなかったはずだ。アゲハが死ぬか、ジガバチ、貴様が死ぬかだ。それでも、俺はよく予想を立てた方だ。なぜなら、俺という庇護下の元でアゲハが貴様を逃がすというシナリオも考えていたからだ」


 そう言いながら、ハイエナはジガバチの胸倉をゆっくりと掴んだ。ジガバチは抵抗する力すらなかった。肩で息をして、黙って掴まれたままだ。冷や冷やした。これで一発でも拳を受けたら、死んでしまうのではないかと思った。


「それなのにこれは、どういう状況なんだ? そのどれとも違う。知りたい、なぜだ」


「……何でそんなん、一々説明しなきゃなんねーんだよ……。頭、……湧いちまったのかァ?」


 だが、祈りは届かず、鉄拳は飛んできた。もろに顔面にパンチを食らうのが恐ろしいほどここから見えた。もう一度拳を構えた時、ジガバチは蹴り返した。だが、むなしく空を切るだけだった。

 掴まれた手が離れると、おぼつかない足取りで掴み掛かろうとする。

 いつもは一方的な暴行を甘んじて受け流すジガバチだったが、今日に限っては違った。きっと後ろにアゲハがいたからだろう。

 考えろ、考えろ……アゲハは自分を奮い立たせたが、頭が真っ白になる。こんなにも人は極限の状況になると、何も考えられなくなるのだろうか。

 ジガバチが蹴り倒され、受け身も取れずにズサッと音を立ててコンクリートの上に打ち捨てられる。そして、ハイエナが十八番のワイヤーを両手に構えた時、もう彼女は前に飛び出していた。

 真っ白な頭の中のまま、泣きながら土下座をした。冷たい床に頭をつけて、見逃してあげてくださいと叫んだ。ジリジリと全身を焦がすような“悪意”に苛まれる。あの真っ赤な地獄の業火のような瞳が怖くて顔は上げられない。

 こんな感情に訴える手が、通用するわけがないことな重々承知している。だが、それほどまでに事態はひっ迫しているのだ。

 だが無情にも、ハイエナは黙ってアゲハの襟を掴むとポンっと放り投げる。まるで道端のごみを蹴りどかすような仕草だった。尻もちをついて、「うっ」と呻く。


「アゲハ……。もう……俺を、庇わなくていい。……俺は結構、丈夫だ」


 蚊の鳴くような声が聞こえる。そして、立ち上がろうとしている。

 歯牙にもかけない様子で、ハイエナは胴体に蹴りを食らわす。なおも顔を上げる彼の口から、ドロリと血が零れ落ちた。

 このまま死ぬだろうな、という最悪の結末がぼんやりと頭をかすめる。

 ジガバチの家は楽しかった。見たこともない器具がたくさん置いてあった。好きな分野の本も、たくさんあった。彼は全部の器具の使い方が分かっていたし、何でも使わせてくれた。意外にも丁寧な手つきで、安全対策はマニュアル通りにやっていたのも面白かった。

 ふと、オオゼリの研究論文の一端を思い出す。エデナゾシンの拮抗剤、せっかくあそこまで完成していたのに、もう作れないのだろうか。彼がいなければ当然作れないだろう。

 いや、待てよ? その手があったか! と、アゲハの脳裏に稲妻が走った。

 次の瞬間、アゲハはパッと顔を上げる。とどめを刺そうとジガバチの元に向かうハイエナの背後に、針を投げた。二本の針が、背中に突き刺さる。


「偉く強気だな、アゲハ。友達ができて、よほど嬉しいらしい」


 ばっと恐ろしい形相で、ハイエナが睨んだ。美しい口元が嗤っている。それなのに、真っ赤な瞳は全く笑っていなかった。まさに瞳で殺す、といった具合である。

 だが今度はアゲハも笑っていた。憶測も含むが、ほとんどは確信がある事実に気付いたからだ。


「アナタはエデナゾシンの被験者ですね。そして、ヤブイヌさんの救ってもらった。だから逆らえないんだ。逃亡の幇助(ほうじょ)かあるいは――」


「それがどうした? ヤブイヌに泣きつくのか?」


 得意げに自分の推理をひけらかすが、途中で遮られる。構わない。ここまではただの推測だったからだ。だが、目を細めて凄む彼の姿を見るに、中(あた)らずと雖(いえど)も遠からずと言った具合だろう。


「薬というのは不思議な化学物質です。過剰な摂取は毒薬となり、適正な量は治療薬となります。そこで私はいろいろと考えました。エデナゾシンの副作用についてです」


 あの日、オオゼリの遺した実験の日誌、論文、考察の数々を思い出す。もちろん被験者はジガバチである。


「ハイエナさんは一見一貫性のある正確に見えますが、矛盾があります。人の心を掌握し、言動を予測することに長けています。それなのに、感情の機微をわざわざ言語化して処理しようとする一面がある。つまり、感情を持っているのにも関わらず、その認知と自覚が下手なんです。もしかして、失感情症(アレキシサイミア)なのではありませんか?」


 言い終わる間にどんどんと彼の表情が、固まっていくのが目に見て取れる。その形相の変化に、アゲハはだんだんと怖くなる。

 だが、間違いないはずだ。二度、三度と、なぜだ? と感情を問う場面に出会った。そして初めて会った夜、彼は殺気立つ自分に驚いていた。極めつけは今回のこの反応である。


「……何が言いたい」


「ジガバチのお母さんのラボに行きました。長期的にエデナゾシンを過剰服用すると、一部の被験者に失感情症の症状が見られたそうです。エデン計画の責任者でエデナゾシンの開発者でもある彼女は、拮抗剤を作っていました。しかも、完成間際だった。私一人では到底無理です。でも、彼ならきっと、拮抗剤を作ることができます! そうすれば、ハイエナさんの疑問の答えが見つかるはずです!! 」


 そう言った時、ハイエナはカっと真っ赤な瞳をむき出しにし、驚きの表情を浮かべた。そうだ、やはりこれは知らなかったのだ。何でも知っているハイエナも、ジガバチに会わなければ、絶対に気付かなかったことだからだ。アンティーターの外で、この事実を握っているのはオオゼリだけだっただろう。


「人の言動は支配できても、心の奥底まで完全に支配することはできません。だから拮抗剤をあそこまで作ることができるんです。それがあれば、心の病気が治せます。保衛官も、無力化できるかもしれません」


 アゲハはあの夜と、同じことを言って見せた。だが、あの時とは違う気持ちで彼女は言った。今度こそ、これは人心掌握術で人を支配するハイエナに宣戦布告をした。

 でも、アゲハたちが勝てば、ハイエナの心が救われるという何とも皮肉めいた構図である。

 フン、とハイエナがせせら笑った。“悪意”が解けていく。そして、煙のように消えていった。


「じゃあ、証明してみろ」


 そう言い放ったハイエナは、アゲハの額を小突いた。あの夜と同じように。

 そして何とも言い難い美しい笑みを浮かべたのである。今まで見たことのないような彼の花の顔(かんばせ)に、額の痛みも忘れてうっとりと見つめてしまう。

 見すぎたことにハッとして気付いたアゲハは、「はい!」と照れくささをごまかすように元気よく返事をした。


「いいか、拾(ひろ)い飼(が)いするのはこれで最後だぞ」


「わかりました。ありがとうございます!」


 ジガバチを肩に担ぐと、「帰るぞ」といつものように言った。アゲハはジガバチの背中に手を当て、「ありがとうございます」と思わずお礼を言った。

 いつの間にか雨はやみ、月夜が広がっていた。

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