4-5

 両手いっぱいに食材を抱え込みながら、アゲハは腹の虫を鳴らす。さらに、ハイエナは、好きだろう? と言って、チルドカレーの袋をチラつかせてくる始末だった。石造りの彫像のように美しい顔を、これでもかというほど意地悪く歪めて、笑っていた。

 しかし、ハイエナがあまりにも優しすぎる。こういうことは、何か悪いことが起こる予兆であることをアゲハは知っていた。

 アゲハはハイエナがいなかったここ一週間程度の話を、細かく説明した。だが、ジガバチの個人的な話はしなかった。

 一通り話を聞き終えると、彼は鋭い目をさらに尖らせて言った。“悪意”が襲ってきた。やはり、来たかとそのあとにくる言葉に身構えた。


「ショウジョウの一件のあと、ジガバチを殺せ。お前は少なからず、信頼されている。今のお前なら容易いだろう」


 バチバチと電気を当てられているような“悪意”とともに、ジガバチの死刑宣告がなされた。ヤママユの一件で、アゲハの取り扱い方を学んだのだろう。今度はもう逃れられないように、と、暈(ぼか)さず、はっきりと宣告をしてきた。

 ジガバチにほんの少しだけ起きた小さな変化を、彼はきっと知らない。いや、しかし、それを知ったとしても同じことかもしれない。だが、少なくともアゲハにとってジガバチの存在は、以前とは違うものになっていた。言葉にうまく説明できないが、確実に何かが芽生えていた。

 エデナゾシンの拮抗剤の研究資料を見たとき、二人なら作れるのではないか? という愚かな考えがよぎった。いつしか、アゲハは彼が離れていくのは惜しいと思うまでになっていたのである。


「そんなこと――」


「お前、何か勘違いしていないか? 仲良しごっこで、お前の知りたいことには辿り着けない。それにヤツはあまりにも知り過ぎた。狡猾で、用心深いヤツのことだ。いつこちらの寝首を搔かれるか分からない。最初に殺されるのはお前だぞ、アゲハ」


 言い淀んだ言葉を遮ると、ハイエナはその“悪意”をさらに募らせて捲し立てた。痛みと恐怖に、汗がにじみ出た。仲良しごっこ、それが図星だったことが、なおさら、悲しかった。ジガバチは、母の思い通りになるのは嫌だと言った。何者にも支配されないとも言った。このまま行動を共にしていけば、我々に支配された挙句、母親の思惑通りになってしまうのだ。

 それはどちらも彼の本意にそぐわないことである。どこかでぶつかり合うことになるのは、火を見るよりも明らかだった。


「少し、考えさせてください。結論は当日出します」


「好きにしろ。出来ないなら俺がやるだけだ」


 アゲハは嘘を言った。答えなんて、もうとっくに出ていた。だが、今度はただ徒(いたずら)に時間を稼いでいるわけではなかった。











 そしてついに、決戦の日がやってきた。ジガバチはいつか見た、あの薬瓶を内ポケットに忍ばせた。アトロピンである。あくまで対称的治療でしかないが、サリンの拮抗剤としても使われているものだ。ウシアブという新たなスワームの構成員を生け捕りにするのに使うのだそうだ。


「自分の分は、ちゃんとあるんですか?」


 ジガバチに神経に作用する薬は効かない、とはいってもやはり劇薬を使うとなると、何となく心配になったのだ。サリンは普通の人ならば、たった数滴を皮膚に垂らしただけで死に至らしめるほどの劇薬である。


「あたりめーだろ? 俺はなァ、女犯す時ですら避妊具つけるくれエには用心深いんだ」


 そういって、下卑た笑い声を出す。アゲハは鼻に皺を寄せると、「そういうとこなんですよ……」とつぶやいていた。思わず心の声が漏れた彼女は、ヤバい! といった具合に両手で口を覆った。


「あァ?」


 当然何のことかさっぱりな彼は、不審そうな目つきで睨み上げたのだった。



 その日は、まるでジガバチの思いを汲んだのではないかと思うほどの天気だった。豪雨である。


「……ザコの羽虫共が群れやがって」


 賭場となっている廃ビルにつくと、人の気配の多さに盛大に舌打ちをかました。狭い箱の中に、人々がぎちぎちに詰まっているようだった。だが、それでこそ、ジガバチの毒は効力を発揮する。

 正面の自動ドアを跨ぐと、目の前がコロシアムである。ドアの外から上を見上げれば、吹き抜けになっていて二階、三階と続いているのが見える。手すりが陥落しそうなほど、人が犇(ひし)めき合っていた。タバコ、ヤク、酒、女を片手に、ステージを見下ろしている。

 ざっと百人程度はいるだろう。多いが、予想の範疇だった。ジガバチは娼婦から貰ったターゲットの写真をもう一度思い出しながら、確認をする。そこら辺にいやしないか、とあたりを見渡した。

 しかし、当然のことながら見つけることはできなかった。


『……準備完了っとー』


『こっちも準備、完了』


 一歩踏み出したとき、ジィン……、という鈍い音が鼓膜のすぐそばで鳴る。そして、ナナホシの声が聞こえた。さも他人事、といった調子である。それに、ホウジャクの声が続く。ホウジャクは一足早く会場に観客として潜入していた。サリンが外に拡散しないようにするため、窓とドアの内側にとある細工をしたのだ。

 準備ができた、ということは、もう外で待機しているのだろう。まだ、彼には手伝ってもらいたい仕事はいくつもある。

 ジガバチがドアから入るとすぐに、ガタイのいいスキンヘッドの男が脇から出てきた。二メートルある、自分と同じぐらいの背丈である。真冬というのにタンクトップ一枚である。それほどここは熱気に包まれているのだろう。

 しかしその胸板部分の布は、はち切れんばかりだ。右腕にはびっしりと何か細かい目でタトゥーが彫られている。目を凝らすと、それはミチミチに描かれた蛆虫(ウジムシ)だった。まるで今にも蠢(うごめ)きそうなそのタトゥーに、眉を歪ます。


「お前、“青い光が導くのは”?」


「……“アポトーシス”」


 その蛆虫男の問いかけに、ジガバチは淀みなく答えた。合言葉である。

 小さな羽虫たちは、光に集まる光走性を持つ。しかし、青色光によって死ぬのはその中でもショウジョウバエの仲間だけだ。この賭博の胴元がショウジョウであると知らなければ、入れない。コロシアムは観客も演者も、完全招待制、というわけだ。

 しかしジガバチにとって、ボスが誰であるかは問題じゃない。ウシアブの間者以外は皆殺しにする予定だからだ。

 蛆虫男は返答を聞くと、彼を中に入れた。


「お前がジガバチか。思ったより、でかいな。見るからに喧嘩が強そうだ」


 品定めをするように目で嘗め回すと、デカブツはカッカッと笑った。

 ジガバチは答えなかった。喧嘩賭博(けんか)も別に好きではなかったからだ。ただ、買春(うり)よりも幾分かマシだ、といった程度である。

 喧嘩賭博はフェアな闘いだ。武器は無し、降参も無し。蹂躙した側が闘志を失くすか、蹂躙された側が死ぬまで続く。体格と、センスと、そして根性だけがものを言う世界だ。

 確実に、そして安全に、相手を殺したいジガバチには合わない。だから逃げ出したのだ。それにも関わらず、なぜ賭場に戻ってきたのか? と問われれば、明確な答えはきっとない。自分がやることで、アゲハがやらなくてよくなった。その選択肢があったから、それを選んだ。きっと、それだけのことなのだ。

 ジガバチは上着のポケットに手を突っ込むと、奥に向かって歩き出した。すると、斜め後ろからカツカツとヒールが床を打つ音が追いかけて来た。

 この香水の匂い、スカウトをかけて来た娼婦だった。


「お兄さん来てくれたのねぇ」


 そう言うと、親し気にジガバチの腰に右手を回す。そして、ワンレンのストレートな黒髪を艶美な仕草でかきあげると、続けた。


「ゲームはノックアウト方式。アナタたち二人は一番遠い山だから、二回勝てば当たるわね」


「ああ、殺してやるよ」


 彼女の言葉にニヤリと口元を歪ませると、「全員なァ……」と続けた言葉は腹の底に沈めた。


「ふふふ……。アナタとのセックス最高過ぎて、思い出すだけでゾクゾクしちゃう。頑張ってね」


 彼女は婀娜(あだ)っぽい笑い声を残し、手をひらひらさせながらジガバチの元を離れた。ペロッと出した形の整った舌には、成虫(ハエ)のタトゥーが翅(はね)を広げていた。

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