4-3

「お前、ここにきてどんぐらい経つ」


 地下に続く隠し階段を降りると、まるで異世界のような空間が広がっていた。下手な化学系研究室よりよっぽど設備が整っている。

 アゲハは不思議の国に入り込んだアリスのように、歩き回っていると、唐突に話しかけられた。


「三週間経たないくらいですかね」


「精神的に変わったことあるか?」


 彼女はその質問の意図が掴めず、そわそわと歩く足を止めた。ちょうど目の前には試薬庫のようなものが設置されている。数千、いや万単位の試薬が所蔵できそうなものだ。 

 ぼーっと試薬庫を見ながら考え込んでいたアゲハに、ジガバチは続ける。


「例えば、突然殺人衝動に駆られたり、イライラしたり、暴力的になったり……、とかな」

 

 あたっているだろう? と言わんばかりの彼の口ぶりにアゲハは驚く。


「……全部ですけど」


「メタボリックシステムについて教えてやるよ」


 答えるとすぐに、ククっと笑うとジガバチはそう言った。

 教えてください! と懇願するようにコクコクと首を縦に振る。そして、とあることに気付いた。

 「あ、これ……」と、思わず呟く。それから指をさした。その先には≪双子葉製薬≫と書いてあるロゴがある。主要の設備や小さな備品までにそのロゴが入っていたのだ。


「『あなたの人生を最適化、双子葉製薬!』ってやつですよね!」


 アゲハは毎日のように見聞きしていたキャッチフレーズの口調を真似て、パッと振り返る。このCМに出てくるアンドロイドが可愛いことで有名になり、一時期クラスメイト達と真似をするのが流行ったのを思い出す。

 

「は? 頭打ったか?」


 眉間にしわを寄せると、ゲテ物を見るような目つきでこちらを見た。アゲハはすっかり忘れていたのだ。ジガバチはアンティーター出身ではないということを。

 急に気まずくなり、顔を背けるようにして設備の続きを見て回った。うろうろとしながら、会話を続ける。


「ジガバチのお母さんは、双子葉製薬で働いてたんですか?」


「というか、この双子葉製薬こそがメタボリックシステムの正体だぜ」


 双子葉製薬は、アンティーターの製薬業界で筆頭の企業だった。国からの補助も相当に受けているだろうし、中枢部に大きな研究施設が建てられていた。集約政治を行うアンティーターのことだ。国とズブズブな関係でもおかしくはないだろう、そう思った。


「そして俺の母親オオゼリは、EDEN(エデン)計画の発案者だった」


 聞きなれない言葉の羅列に、首をかしげる。そんなアゲハと目を合わせると、ジガバチは続ける。


「エデン計画の表向きの大義は都市の安全だ。犯罪率を限りなくゼロパーセントに近付け、理想の安全社会を作るというモンだ。町の警護に当たる保衛官や、市民の個人情報を管理するカーディアックシステムとかがそれの一部だなァ」


 アゲハは、いつの間にか部屋を端から端まで歩いてしまったようだ。そして、作業用の机に寄っかかる。胸の内の暴れ馬を抑えるように、軽く腕を組んだ


「けどそんなモン、建前だ。本当の狙いは市民を薬漬けにしてマインドコントロールすることにあった」


 ジガバチは同じトーンで、ゆっくりと話しを続けた。

 もうアンティーターがどんだけ非人道的な気味の悪い都市か、というのは散々分かったことだった。今更驚くこともない。アゲハはそれを通り越して、遠い昔のカルト教団の話を聞いているような気分になった。


「お前の精神に変化が起きた理由は、そのエデン計画の要になるedenazocine(エデナゾシン)の薬効が切れたからだ」


「初めて聞きました」


「だろーなァ。三大システムの関係者しか知らねェだろ」


 口を真一文字に結んで、アゲハは考えた。思い当たることがいくつもあった。

 例えばアンティーターの壁を見ると、心がざわついて怖かった。壁の向こうは死の匂いがプンプンした。しかし、実際はどうであろうか? こうして普通に生きているし、たくさんの人たちが暮らしている。そして、ここには文明すらも広がっているのだ。


「エデナゾシンは、成分にナノマシンが含まれてる。それがAIとビッグデータの最適化によって、それが人体に働きかけて適切なタイミングで適切なホルモンを分泌させることで市民を支配するって仕組みだ。ナノマシンは二週間前後で排出される。それに、効力を発揮するにはかなりの量が必要になる。持続させるには大量に、継続して投与されなきゃなんねェ」


「まさか……」


「お前らが飲み食いするモン、全部に入ってんぜェ。水道にばら撒かれてっからな」


 唖然とするアゲハに向かって、ジガバチは含み笑いをすると話を続けた。


「そもそも、エデナゾシンは、保衛官のマインドコントロールに使うために開発されたモンなんだ。保衛官を急遽、人に置き換えないといけなくなったからな」


「ヒューマノイドが製造禁止になったからですよね」


「そうだ」


 ヒューマノイドロボットはロボット工学の躍進により、人間にあまりに近くなりすぎたそうだ。それが製造の禁止された原因だと授業で習った。ロボット法などの法整備も追いつかず、ヒューマノイドの権利が危ぶまれたのだ。

 これは数十年前に愛玩動物が飼育禁止になった動きと似ているものだった。


「だからオオゼリは当初、市民にエデナゾシンを撒くことに反対だった。内部告発しようとしてたみたいだぜ。けど、失敗。すべての濡れ衣を着させられて追放されたってわけだ」



「……ジガバチが背負わされていた贖罪が、何なのか分かりました」


「母親を殺したこと、何の後悔もしちゃいねェ。ぜってーにアイツの尻拭いなんかしねーし、俺は俺の人生を生きる。何モンにも支配させねェ」


 勝手に背負わされた使命、運命を知り、ぽつりと呟いた。そんな彼女に対し、ジガバチは吐き捨てるように言った。

 アゲハは思わず俯いて閉口した。罪悪感が芽生えたのだ。この男は生まれ落ちた時から、その人生を母親によって支配されていた。だが、洗脳を自ら解き、母親を殺した。やっと自由をつかみ取ったジガバチの翅(はね)を毟(むし)り取ったのは、アゲハだったのだ。

 そして、その翅は自分が最も欲しかったものだったということに気付く。


「どうだ? さすがのお姫様も、軽蔑しちまったかア?」


 押し黙っていたアゲハを嘲笑するように、ジガバチが言った。しかし、アゲハは首を横に大きく振った。


「アナタが羨ましい。自分を突き通して、未来を切り開く、その力が私にも欲しかった」


 口からポロリと零れたこの言葉は、アゲハの本心だった。反抗するチャンスは何度もあった。助けを求めるチャンスは何度もあった。それなのに、小さな小さな違和感を見つけるたびに蓋をした。そして、見て見ぬ振りをしてしまった。


「こんな私にも、一人だけ、親友と呼べるような存在がいました。母に家を追い出されたり、家を飛び出すたびにそばにいてくれました。彼の家族も、優しくて、温かくて、いつも助けてくれました。だけど、私は何度も『助けて』っていうチャンスを逃しました」


 これは、スイバのことである。交友関係の多いスイバはきっと、アゲハなんて小さな存在は数多くある親友のうちの一人にすぎないであろう。しかし、アゲハには大きな存在だったのを思い出した。


「なんで彼がここまで気にかけてくれていたのか、謎でした。きっと、これもエデン計画の一端なんでしょう。でも、それでも、後悔しています。最後に会った日も、私は言えなかった。言うチャンスはあったのに……」


 学校側の手違いで同じクラスになったり、ましてや隣の席になったり、思惑を感じる場面はいくつかあった。極めつけは中枢部の移住の抽選が決まったことである。さらに、スイバはアゲハのピンチの時にいつも登場していた。勝手に運命の相手だと決めつけていた。

 ヒイラギ以外の味方が、アンティーターの差し金であったことに気付き、アゲハはチリチリと心が痛んだ。それでも、スイバが好きだった。

 ブレインの破壊により、ほかの市民が死んでも、もはやどうも思わないことは明白だった。しかし、心残りがあるとすれば、彼だ。最後に会って、彼だけでも逃がしたい。


「……まだ、間に合うだろ」


 まるで吐息のように、ジガバチが言葉を紡ぎだした。そう言った時のジガバチの表情は、見えなかった。



「アゲハ、お前さ、調合までの計算てできっか? 腕がもう上がらねェんだ」


 ジガバチはアゲハに言った。彼女は未だに落ち着きなく設備を見て回っている。

 ショウジョウの件で使う劇薬を作りたかったジガバチはアゲハに頼もうとした。その劇薬の製造は、その威力のわりに比較的に簡単である。素特別な設備は必要ないものだ。

 しかし、ジガバチは野戦で利き腕を大きく負傷した。出血は止まっていたが、痛みもひどく、うまく腕が動かせなかった。


「……わかりました、頑張ります」


「頼むぜ」


 アゲハは少々自信がなさそうに答えたが、ジガバチは任せることにした。

 傷を洗っていると、アゲハが決まりが悪そうに横に立った。「なんだよ」と声をかけると、持っていたタブレットを出して、指をさした。


「ここの計算ってこれで当ってますか? 何かこの後が合わなくて……」


 化学反応式を使ってモル濃度を出す計算式だ。ジガバチは上から順番に式を流し見ていき、間違いを確認していく。


「……ばーか、分母の累乗が一個足んねーだろ」


「あ、そっか……」


 それからアゲハは、何度か式があっているか見てくれと持ってきた。自分でやった方が早かった気がしたが、ジガバチは悪い気はしなかった。

 生成は自分でやることにした。ちゃっかりしているがアゲハは所詮ド素人だ。彼女に「一応これ使え」というと、マスクと防護服を着せる。そして、換気扇を回した


「お前は大人しく見てろ」


 ガラスが腐食するほどの猛毒だ。一滴皮膚に垂らせばアゲハは死ぬ。これをショウジョウを殺すために使うのだ。


「えっと……何を作っているんですか?」


 重々しい装備に、アゲハは不安そうな声を上げる。


「サリン」


「サリン!? こんなに簡単に作れるんですね」


「まァな」


 アゲハがあまりに素っ頓狂な声を出して騒ぐので、ジガバチは吹き出しそうになる。化学分野も技術の躍進が起こった。使い方次第では安全に、かつ、一瞬でこのように劇薬が作れるのだ。

 サリンを生成した後も、あれはどうやって使うのか? とかこれは何に使うのか? とアゲハは質問攻めにした。

 だが、これも悪い気はしなかった。

 あっという間に夜が更け、朝が来た。


「エデナゾシンってのはな、交配の組み合わせも支配してんだ」


 床に雑魚寝したジガバチは、天井を見上げながらポツリとつぶやく。嫌な思い出がよぎる、天井の眺めだ。しかし、今は違った面持ちで見上げている。それが不思議だった。


「俺ら闇子が生まれる組み合わせのセックスってのはさ、交配を防ぐために副作用で相当な苦痛と嫌悪感を催すはずなんだ。それなのに、なぜアイツらはヤッちまうんだろうなァ」


「本当ですね。なんで、自分の子が闇子だと分かって、産んだんでしょうか……」


 少し離れた壁際で、アゲハは答えた。そっちの方を見ると、本棚の前で、目いっぱい爪先立ちして、資料を漁っていた。

 アゲハは募る母親への疑念を払しょくしたいのだろうか、それとももう確かめる段階まで来ているのだろうか。


「知りてーのか? 母親の気持ち」


「……はい」


 ジガバチは気付けば問いかけていた。そしてそれにアゲハは答える。

 その時ジガバチは分かった。アゲハは母親と向き合いたいのだ。似ているようで、二人はまるで違っていた。そう、すべて捨てて、逃げ出した自分とは明らかに違っていたのだ。

 道中何度も言おうと思った、ある、言葉がある。それをジガバチは飲み込んだ。もう何度目になるだろうか。

 エデナゾシンの拮抗剤についての資料を食い入るように見つめているアゲハに、そんなことは到底言えなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る