新たな影と真相 ─ 4

「旭さん!」

「駄目だ橘さん、危ない!」

 悲鳴を上げた時子が、反射的に窓へと駆ける。制止しようと将之が伸ばした手は、一瞬の差で間に合わなかった。

 二人の声に蠅が振り返る。妙に長い触角が、赤い目が――何かに気付いたように、ごろりと動いた。

 時子の方へ。

 蠅が跳躍した。と、将之が思った時には二人の隙間に身体を捻じ込むように出現している。動きが早すぎて、目と頭では追えるのに身体が追い付かない。

 だが、蠅は将之には目もくれなかった。

「は……」

 複眼に映し出されたのは、恐怖で硬直する時子だ。

 正面。割れ残った窓ガラスと蠅の複眼が合わせ鏡となり、時子の青ざめた顔を無数に見せつける。

 将之の背筋を嫌な予感が駆け上がった。幸い、蠅はこちらに背を向けている。いや、そんなことを考える前に身体が動いていた。

「このっ!」

 端末を抱えたまま、将之は翅の生え際へと手を伸ばす。奏のような技術は無いが、強引に押さえ込こめたならば。

 薄くて硬い膜のような感触。確かに掴んだ。

 と、思った時には景色がぐるりと反転する。腰の一振りだけで払い落とされたのだ。流れる視界の中の蠅は、こちらに一瞥すらくれていない。

 ちくしょう、と思う間も無く背中に強い衝撃を感じて息が詰まる。ガシャガシャン、と金属片がぶち撒けられる音が間近で響いた。床を見ると、大小さまざまな道具が散らばっている。どうやら作業台に突っ込んだようだった。

 なんとか身を起こすと、蠅はその場から動いていなかった。だが、その触角には既に準備が整った光が激しく明滅している。揺れる触角が示すのは、将之と真反対。真円近くまで見開かれた時子の目が、蠅を見上げた。

 青白い光が、一人と一匹の間に奔る。

 だが、それは蠅の触覚からではない。

『シャーッ!』

 時子と蠅の間に飛び込んできた光の正体は、背中の針を残らず逆立てたハリネズミだった。

 目を瞠る将之の前で、時子を守るようにハリネズミは正面から蠅と対峙する。

「お前」

 時子もまた、驚きも露わに目の前の小さい生き物を見つめていた。

 甲高い声で、さらにハリネズミが鳴く。蠅の触覚が、鬱陶しそうに下方に動いた。いくら同じ電機寄生体でも、いや、だからこそ、どちらに利があるかなど一目瞭然だ。

 一瞬の膠着。

 それを破ったのは、その場にいた誰でもなかった。

 将之の耳が捉えたのは、ゴツ、という聞き慣れた靴音。ヒュンという風切り音。

 次の瞬間、外から飛来した窓枠の残骸が、肥大化した眼球もろとも蠅の頭部を押し潰していた。

 ヂヂヂ、と不満そうな音を響かせた蠅が緩慢な動作で頭をもたげる。

 へこんだ頭の隙間から漏れた明かりに照らされた先では、腕を水平に振り切ったまま蠅を睨みつける奏の姿があった。

 額から流れた血を乱暴に腕でぬぐった奏が、思い切り挑発的に嗤う。

「どこ見てる、お前の相手は俺だろ。その大層な目はちぎりパンか?」

 もし、敵意に指向性があれば。そしてそれを視認できる技術があれば、蠅のそれは確実に奏に向かっていただろう。

 足先だけで拾い上げた欠片を手の中で弄びながら、駄目押しとばかりに奏が冷ややかに言う。

「それとも、そこで潰してやろうか?」

 ぶるり、と蠅の巨体がさらに膨らんだように将之には見えた。

 剛毛に包まれた脚に踏みしめられた時計やショーケースの残骸が、乾いた音をたてて砕ける。ぐ、と蠅が全身に力を溜め、開放する。響く轟音。

 ハリネズミも時子も無視し、怒り狂った蠅は外へと飛び出していく。

 かろうじて無事だった窓枠やガラスは残らず吹き飛び、夜の冷たい空気が部屋を突き抜けた。

「無事ですか、怪我は?」

 呆然とへたり込む時子に、将之は急いで駆け寄る。彼を見上げる顔は蒼白だが、外傷は無さそうだ。見立て通り、時子はふるふると首を横に振った。

「私は大丈夫です。伊達さんこそ、血が」

 そういえば、頬がひりひりと痛む。鏡が見られない以上どうなっているかは自信が無かったが、腕などを見る限り軽い裂傷や打撲程度だろう。少なくとも、先ほどの奏より軽傷なことは確実だ。

「問題無い、掠り傷です。安全な場所に隠れていてください」

 まだ何か言いたそうな時子を制するように早口で言い、将之は周囲を見回す。

 幸い、欲しかったものはすぐに見つかった。手頃な長さの「それ」と端末を手にし、将之は外へと飛び出していく。

 もし、この時彼が振り向いていれば気付いただろう。

 小さくなる後ろ姿に、ハリネズミが視線を注いでいたことに。

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