酒瓶の夜空に映すは赤い譜面 中編

★★★


 「赤ガニ亭」はすぐに見つかった。メインストリートから広い車道に出るギリギリの所、赤いロブスターの絵が街灯に照らされていたんだ。「Open」と崩し字で書いてある。


「ご免下さい」


 重い硝子戸を開けると、唐辛子やスパイスの食欲をそそる香りが、酔っちまいそうなブルースの音色と共に俺を包み込んだ。いらっしゃいませー、と女給がメニューを持って出迎えた。


「えーっと、お客様、ここで呑んでいかれますか? 今は少し混んでて、お席、限られてしまうんですけど。お持ち帰りも……」

「いや、俺は構わないよ。最初から持ち帰りにしようと思ってたんでね。『赤目のサソリ』ってのがあるって聞いたんだが、そいつをつまみにウヰスキーでもと」

「えぇ? 『サソリ』とウヰスキー、ですか? 結構キツいと思うんですけど」

「いやぁ、大丈夫でしょ。俺、小さいカニとか海老とかつまみに呑むの大好きでさ」

「はぁ……」


 女給はコテンと首を傾げたが、すぐに店長に聞いてみると言い、カウンターの方に早歩きで向かって行った。少しぽっちゃりしたタレ目気味の店主が、酒を透明なグラスに注いでいるところだった。薄暗い店で、白熱電球に照らされてさ、古い映画の一場面みたいな雰囲気だった。ちっぽけなシアターでしかやらないようなやつの。


「店長ー、『サソリ』って結構強くなかったですか?」


 女給の声がにわかに静寂を破る。


「どうしたのナーちゃん」

「あそこのカッコいいふわふわパーマのお兄さん、『持ち帰ってこいつをつまみにウヰスキーと飲みたい』っていうんですよ。たぶん、ご新規の方だと思いますけど」

「あーはいはいご新規さんね……いるんだよなぁ、偶に勘違いしてくる人」


 作ったばかりの薄紅色のカクテルと、ナッツの小皿とを女給の盆に乗せて、店主は「3番テーブルに」と合図した。それから自分は徐に立ち上がると、俺の所へゆっくり歩いてきたんだ。


「お客さん、もしかして初めてでしょう、この町に来るの」

「ああ。……ここ、あんまり調べてないんだ、マスター。デカい街まで、乗り継ぎの為に寄ったのさ」

「……だよなぁ」


 店主は少し目を伏せる。


「悪いね、なんかよく調べもしないで来て」

「いやいや、仕方ないです。多いんですよねぇ、『大きい街までの中継地点』っていう認識の旅人さん」


 まぁ、立ち話もなんですし、どうぞこちらへ。ちょうどカウンターの隅の席が空き、店主は俺をそこに座らせた。キッチンから漂う香辛料の匂いが一段と強くなった。せっかくだし何か食っていきたいが、遅くなっても宿の人に悪い。


「……うちの『赤目のサソリ』はね」


 店主はグラスを拭きながら言った。


「ラム酒の名前なんですよ。うちでしか売ってない酒。地酒って言っちゃっていいんですかねぇ」


 そう聞いた時は驚いたね。だってあの名前を聞いて、酒の名前だって思わないだろ。カニとかエビの唐揚げに似たもんだと思うじゃないか。


「へぇ、そりゃ凄いや。絵本みたいな名前の酒があるもんだな」

「あはは。良いでしょう? 名前考えたの、うちの姉なんですよ。酒が大好きで、『お酒の力でみんなを幸せにしたい』ってよく言ってたもんです。ほら、これが姉と、その旦那さん」


 そういって彼は壁に飾られた額縁を指さす。古い家族写真だ。

 「姉」はすぐにわかった。中央にいる晴れ着の女性だ。垂れ目で丸顔のところがそっくりだった。その横にはやや若い顔の店主が、並んでピースサインをしている。

 芯の強そうな、眉毛のきりりとした男性が、彼女の華奢な肩を抱いていた。たぶんあれが旦那さんだな。


「姉は、旦那さんと連絡船に乗って、海を挟んだ大きな街に引っ越しました。今は醸造所をやっていてね。つくったラム酒を、ここに安く送ってくれるんです」

「なるほど、ねぇ。しかし、遺伝の力って侮れないもんだな」

「遺伝? 何の話っすか?」

「え? あーいやいや、大したことないさ。こっちの話で……」


 危ねえ危ねえ、心の声が漏れちまった。馬鹿な事考えてちゃ良くねえな。


「……それで、お姉さんはどうしてそんな浪漫チックな名前をつけたんだい? サソリが出てくる、あの童話が好きだったとか?」


 空気を誤魔化そうとして、俺はとっさに思いついた質問をする――死にゆくサソリが、他の生き物を助けて力になりたいと願い、赤く燃える星に生まれ変わったという話だ。


「あぁ、あの赤い目のサソリの絵本ね。姉、その本好きだって言ってましたよ。あとはそれに加えて、『呑んだ時の感じ』からそう言ったんだと思います」

「感じ? どういうことだ?」

「後で呑んでみればわかりますよ」


 優しいタレ目が、ふっと硝子戸の外へと視線を投げかける。黒インクを流したように暗い夜が、外の世界も、立ち並ぶ建物の中も、今やすっかり支配してしまっていた。今店を出ていったら、俺さえも髪の毛の先からとろけてインクになってしまいそうだ。


「ああ、ごめんなさいごめんなさい。ぼうっとしちゃいました。これがこの町自慢の酒『赤目のサソリ』でございます」


 芝居がかった調子で差しだされた小さな瓶には、赤いサソリの絵が描いてあった。針のついた長い尻尾で、クリーム色の満月をくるりと囲み、宙に掲げている。良いセンスだ。


「地酒ってやつは、いつも洒落た瓶やラベルを備えてるね。俺はそこが好きなんだ」


 小さな金属のトレーに代金を乗せながら、俺は言った。


「洒落てるなんて嬉しいですねぇ。――酒だけに、というわけですか」

「え?」

「あぁいやいや、なんでもないですよ、こっちの話です」


店主は慌てて首をブンブン横に振った。


「それでねお客さん、この酒にはちょっと特殊な呑み方があって……」


 店主は片手間に説明をしながら、小さなプラスチックのケースにひょいひょいと、数種類のつまみを詰めていく。出来上がったそれは俺へのサービスらしい。長い晩酌のおともに是非どうぞと、酒瓶と一緒に紙袋に入れて渡した。

 店を出る時、彼が女給に話しかけるのを聞いた。


「ナーちゃん、今夜は曇りだね」

「ですねぇ」

「でも、ちょうど旅人さんが来てくれて良かったよ。酒好きらしいから、きっとうまくできるはずだ」


 ん、「うまくできる」って?

 振り向いた時には、彼はもうメジャーカップに酒を注いで、ほかのお客のリクエストに応えている所だった。

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