番外編

第1話 私は何も悪くない

 幼い頃から、私は友達や家族から可愛いと言われ続けて育ってきた。


「本当に可愛いよね、まるで天使みたいだわ」


「真澄っていつもお洒落だし、可愛くて羨ましいな……」


 初めは何とも思わなかった可愛い、大好きという言葉。けれどいつからか、誰かに褒められると嬉しさで胸がいっぱいになっていった。


 これからもずっと、みんなにたくさん愛されたいな。


「えへへ、ありがとう」


 でも、そんな日々はゆっくりと終わりを迎えていった。


「四年生にもなってお姫様とか、恥ずかしくないの?」


「ええか、最後に勝つのは情やで」


「くそっ……俺の前から消えろよぉ!」


 どうしてなのだろう。私は何も悪いことなんてしていないのに。


「待って、私を置いていかないでよ!」


 手を伸ばしてももう遅い。朝になればみんなが平和に暮らして、私だけが一人で生きていく世界が再び始まる。


「これだけじゃ全然満たされない。愛が……愛が足りないのよぉ!」


 私の周りが徐々に壊れ始めたのは、もしかするとあの時からだっただろうか。




それは小野市で連続殺人事件が起き、解決に向けて純と紫音が探偵として活躍する十五年程前のことだった。


「今日から四年生だね、真澄」


真澄の母、斉藤藍奈は櫛で彼女の髪を梳いていた。サラサラという音と共に、朝早くのまだはっきりしない頭に心地良い感触がする。


「ドキドキするなぁ、みんなとうまく喋れると良いんだけど」


「緊張せずにいつも通り行けば良いの。だって真澄は、私の自慢の娘なんだから」


学校に行く用意が完了し、真澄はランドセルを背負って玄関まで歩いた。


「行ってらっしゃい、頑張ってきてね!」


最後の一押しとして藍奈は真澄の頬にキスをした。小さく微笑んだ後、こちらも顔を近付けてキスを返す。


「ママ、行ってきます!」


今年で九歳になった斉藤真澄は、今日から小学校の四年生となる。彼女は藍奈に見送られ、元気に家を飛び出していった。


「よぉし……!」


 そう。これから先、彼女の身に起きてしまう悲劇のことなんてちっとも知らずに。




「葵、おはよう」


家の前に立ってこちらを待っていた幼馴染、竹田葵に声をかける。彼女は真澄とは対照的な黒髪の短髪で、度々少年と間違えられることがある。


「おはよう真澄、時間ぴったりだね」


「私は早起きしてるから遅刻とかしないよ、誰かさんとは違って」


 本当は母が起こしてくれるからだけど、真澄は見栄を張って葵にそう言った。彼女の前ではしっかりしていたいし、弱い所をあまり見せたくない。


「私たちも四年生か、あっという間だね」


そんな彼女の本音を知ってか知らずか、葵は悪戯に笑いながら真澄を見つめている。


「気付いたら中学生になってたりしてね。さぁ、早く行こう」


二人ははぐれないようにしっかりと手を繋いで学校への道を歩く。だが、真澄がほんの少しだけ前を歩いていた。




「どうか皆さん、新しい学年でできた仲間と新しい発見をしてみて下さい」 


始業式で校長先生の長い話を終えた後、四年生の教室にはクラスを振り分けるための大きな白い紙がそれぞれ貼ってあった。


「私のクラスは、えっと……」


「同じだったら良いけど、今年は流石に違うかもね」


 葵と二人で廊下を歩き回る。同じクラスだったと歓喜の声を上げる人もいれば、嫌いな先生に当たってしまったと嘆く人もいる。


 密集している同級生たちをかき分けて、自分の名前を追っていくと……


「あ、あった!」


 気付いたのはほとんど同時だったのかもしれない。真澄も葵も、同じクラスの表を指差していた。


「えへへ。何だかこういうのさ、恋人みたいだね」


「恋人……そうかなぁ?」


 葵が恥ずかしそうに顔をほんのり赤くする理由がよく分からなかった。取り敢えず荷物を持って、先生に指定された席を探って着席する。


「わーい、私一番後ろだ!」


 席順はシャッフルで決められており、葵の前に真澄が座るという形になった。彼女はその場所が気に入ったのか、楽しげにこちらの肩をツンツンとつついてくる。


「これで真澄にもちょっかいをかけ放題、最高だね」


「ちょっとやめてよ、くすぐったいでしょ?」


 こちらも負けじと身を乗り出すと、教卓に立った先生の声が聞こえてくる。


「はいみんな静かに! 座席表に書かれている席に座ってるかな?」


 体育会系の雰囲気を放つ男の先生だった。真澄たちのクラスの担任になるのは初めてで、教室中に響き渡るような元気な声で耳が少し痛い。


「それじゃあ僕の方から自己紹介を始めていきたいと思います。初めましての人も、またこの先生かと思ってる人も注目っ!」


 校長先生の長い話を聞いたばかりなのに、今度は担任からの長い自分語りが始まった。




「へえ、まだ新学年になったばかりなのにもう班活動?」


その日の夜、仕事から帰ってきた父の斉藤鼓幡と共に真澄は夕食を食べていた。


「そうだよ。まだみんなの名前も知らないのに、発表なんて全然分かんない」


 担任の先生が新学年早々クラスに向けて出した課題は、これからの目標を班でまとめて発表していくというもの。


 難しい問いかけに頭を抱えながら、真澄は真っ白なご飯を頬張る。


「目標って別に何でも良いんだろう? だったら、真澄が今一番やりたいことを言ってみたらどうだ」


「やりたいこと、そうだなぁ……」


 思い切り遊びたい、勉強や運動を頑張りたい。ありきたりな答えが一瞬だけ頭をよぎったが、そういうのは何か違う気がする。


「私はお姫様になりたい。誰よりも可愛くて、たくさん愛されるような」


 真澄は藍奈の目をじっと見つめて、何の疑いも持たずにそう言い放った。するとしばらくして、両親の笑い声が聞こえてきた。


「ふふっ、それが真澄の目標なのね」


「やっぱり真澄はいつになっても真っすぐで正直だなあ、ははっ……」


 真面目に考えて言ったことが空回りしてしまい、彼女は目を丸くして首を傾げた。


「えっ、何か変だったかな?」




「そんな気にしなくて良いじゃない、夢を持つのは大切だから」


 寝る時間になっても、結局真澄は窓の向こうを向いて考え込んでいた。


「別に気にしてなんかないもん、私は誰が何て言っても、絶対にこれで発表するんだもん……」


 電気を消してもこちらの方に振り向いてくれない。藍奈は不貞腐れてしまった彼女の頭を撫で、優しくこちらに抱き寄せた。


「どうして、真澄はお姫様になりたいって思ったのかな?」


「本やテレビで見たの。私もあんな風にもっと綺麗になったら、みんなの憧れになれると思って」


 即答だったが、声には先程のような元気が無くなっていた。暗がりで目を細めながら、真澄は藍奈に体を預ける。


「私はもっとキラキラ輝きたい、このままじゃダメなんだよ」


 静かに互いの呼吸が聞こえる。そういえば今何時だろうと真澄は辺りを見回したが、しばらくするともう良いやと思って視線を戻す。


「真澄はそのままでも良いと思うけどな。変わらなくちゃって思うより、自分を信じて進むのも」


「でも、そうしたらみんなが私のことを褒めてくれないじゃん」


 そうかなあと藍奈は小さく笑った。どうしてそんな表情をするのだろう、私は本気で言っているのに。


「私やパパはちゃんと見てるよ。真澄が頑張っている時も、困っている時もね」


 だって家族だから。藍奈に身を寄せていた真澄が、その言葉でようやく目を見開いた。


「家族か……そうだよね、ありがとう」


「あんまり遅くまで悩んでたら寝不足になっちゃうわよ。さあ、こっちにおいで」


 母と同じ布団で真澄は目を瞑った。そろそろ一人で寝ても良いだろうと何度か言ったのだが、彼女は頑なに自室では寝ようとしない。


 いつまで続くのだろう。この子が、こんなに私に甘えてくれるのは。


「おやすみなさい……」


 ほんの一瞬だけ浮かんでしまった不安を頭から振り払って、藍奈は真澄と共に眠りについた。




次の日から、発表の計画を練るためにグループを組んだ四人で集まった。


「初めまして。えっと……発表、頑張ろうね」


班は男子と女子が二人ずつ。席の区切りで男子二人が入った形となっているが、初対面なので会話も少しぎこちない。


「じゃあ、僕が班長で良いかな?」


「やってくれるの? ありがとう、本当に助かるよ」


 班長に名乗り出たのは一人の男子生徒だった。眼鏡をかけており、真面目な雰囲気はあるが少しひ弱そうな印象も持つ。


「まず僕から意見を……四年って言うともう上級生だし、何か地域のためになるボランティアとかも盛んにやるべきなんじゃないかな。後は自主勉に取り組むとか、宿題だけだとどうしても力不足だしね」


先陣を切って意見を出すと、周りの生徒たちがうんうんと頷く。


「良いと思うけど、ちょっと難しくないかな……?」


しかし、真澄の中ではあまり賢いことを言うイメージの無い葵は首を傾げていた。確かに周りを見てみると話し合いの場は賑やかで、このような意見は少し浮くかもしれない。


「そうか、ちょっと発表には合わなかったのかもね」


それならこういうのはどうかな、と班長は次々と新たな意見を出していく。


「一、ニ年を引っ張っていくような先輩になる。困っていたら助けてあげたりとか、分からないことを教えてあげたりとか。シンプルだけど大切なことだと思うんだ」


「それ凄いね、プリントに書いていこう!」


特に良かった点は前もって配られたプリントに箇条書きにしていく。それを班長たちがまとめていけば、立派な発表ができるという仕組みだ。


「みんなは他に何か意見は無いかな、どんなものでもオッケーだからさ」


葵や他の男子生徒は言葉に詰まってしまった。頭の中でイメージすることはできても、それをみんなに伝えることが厳しいのだろう。


 だったら、私がここで温めておいた意見を出して活躍する時だ。


「じゃあ、私から一つ意見を」


班長が静かに頷く。みんなから注目を浴びる、期待されるこの瞬間が一番好きだ。


「お姫様になりたい、っていうのはどうかな?」


 母の言葉を思い出しながら、真澄は力を込めてそう言った。昨日の食卓では何故か笑われてしまったが、今回こそはきっとうまくいくはず。


「えっと……お姫様?」


 だが、そんな真澄の期待はすぐに打ち砕かれることとなった。




「何それ、おっかしいの!」


班員の男子生徒が堪え切れずに笑い出した。そこから、黙って聞いていた班長や葵にも笑いが伝染してしまう。


「真澄、それはちょっと違うんじゃ……ふふっ」


「四年生にもなってお姫様とか、恥ずかしくないの?」


 嘘だ。だってママだって、夢を持つのは変じゃないって言ってくれたのに。


 真澄は笑いが巻き起こる中ただ黙って何も言わなかった。意味が分からなくて、悲しくて、悔しくて、どうしてこんなことになったのかが分からなくて。


「申し訳ないけど、これはちょっと発表とは合わないかもね」


 他は何かあるかな、と班長がみんなの意見を聞き始める。私の思いを蔑ろにして、まるで最初から無かったかのようにして。


「じゃあ、僕いきます!」


 最初は緊張していた他の生徒たちも元気そうに話し始め、段々と班全体の雰囲気が明るくなってきたように思える。


「どうしてなの……気に入らない、気に入らない」


 そんな中、真澄だけは周りに聞こえないような小さな声で何かを呟いていた。




それからの授業は退屈で、あまり耳にも頭にも残らなかった。


「さて発表は来週から行いますからね、プリントは忘れないようにして下さい!」


 先生の号令で今日の学校が終わり、みんなが一目散に帰り始めた。だが真澄はすぐに帰る気にならず、ずっと机で考え事をしている。


 すると、葵が申し訳なさそうな表情をして話しかけてきた。


「さっきはごめんね……真澄」


「何がごめんなの、適当なこと言わないでよ」


 はっきりとこちらを向いて答えてくれない。葵はそれでも、細々とした声で謝り続ける。


「真澄の夢を笑ったりしてごめんなさい。私だってまだ分からないことだらけだし、貴方がいないと何もできないのに」


「……そう」


 葵はそう言って手を差し伸べてきた。一緒に帰ろう、と優しく声をかける。


「早く行かなくちゃ、雨が降る前に」


 だが、今日はどうにも葵と二人で帰りたくはなかった。忘れようとしても、今日の地獄のような光景が頭から離れない。


「先に帰っててよ。私はまだやり残したことがあるから」


「やり残したこと……分かった。それじゃあ、また明日ね」


 葵はそれ以上踏み込んでこなかった。姿が見えなくなるまで手を振って、久しぶりに一人でとぼとぼと帰り始める彼女。


「……」


 真澄も少しだけ手を振り返した。そして、先程まで賑やかだった教室はすっかり静まり返る。




「このままじゃ、絶対に終わらせない」


 すると彼女は何かに導かれるように立ち上がり、班長が使っていた机に手を差し込んだ。教科書やノートを投げ飛ばし、強引に何かを探る。


しばらくして出てきたのは、まさに今日の授業で使ったプリントだった。


「私の夢をバカにする奴は、みんなこうしてやるんだから」


真澄の提案したものは何一つ無いその紙を、力を込めて破き始めた。二等分、四等分と破いて、散り散りになった物を更に踏みつける。


「このクラスで目立つのは私だけ、可愛がられるのも私だけ、活躍するのも、認められるのも……全部全部、私だけで十分なんだよっ!」


 発表が台無しになっても知ったことではない。原型を留めず無残な姿になったプリントを、まるで紙吹雪のように宙に投げた。


「おい、何をしてる……?」


「ん?」


 突然後ろから声が聞こえてきたので振り返った。忘れ物をしたのか、ランドセルを持った班長が表情を凍らせてそこに立っている。


 あーあ、バレないと思ったのに見つかっちゃった。


「さあ、何だろうね?」


 床に散らばる班長の私物と、雪のように積もったプリントの残骸。彼はその光景を見ると、顔色を変えてこちらに詰め寄ってきた。




「発表のためにまとめた紙なのに、どうしてこんなことを!」


班長は鋭い目付きで掴みかかろうとする。新しく作れば良いものを、正直鬱陶しいことこの上ない。


「何とか言えよっ、この!」


 人の夢を侮辱するだけではなく、まさか怒りに任せて殴りかかろうとするなんて。


 何も言わずに立ち尽くす真澄の心の中で、張りつめていた糸のようなものがプツリと音を立てて切れたような気がした。


「うるさい……本当にさ、うるさいんだけど」


「何だと?」


目の前が真っ白になった。ただこいつを振り払わないと、という本能に突き動かされ、持っていたランドセルを班長に投げつける。


「近寄らないでよ、汚い手で私に触らないで!」


相手は簡単によろめいて倒れてしまった。真澄は彼が何かする前に上に乗っかり、もう立ち上がれないように全力で殴りつける。


「私の何が気に入らないの。あんたさえいなければ、私はとっくにクラスの人気者になれたはずなのに邪魔ばっかりして!」


「ぐうっ、あ!」


 やがて班長の鼻からは血が出てきた。それでも殴るのは止めない、こいつが涙を流して私に謝るまでは絶対に。


「このいじめっ子め、あんたなんてすぐ殺してやるんだからぁ!」


 班長が何かを言った気がするが、それからの出来事はあまりよく覚えていない。




 担任の先生から急な連絡を受けた藍奈は、すぐに車を走らせて学校へと向かった。


「どうしたの、真澄!?」


 連絡ではクラスメイトと喧嘩をしてしまったと聞いたが、詳細は何も教えてくれなかった。


 果たして彼女は無事なのか、原因はそもそも何なのか、それさえも全く分からないまま廊下を必死に走っていく。


「ああ、斉藤さんのお母様ですね」


 職員室に入ると既に先生が待っていた。奥の指導室に案内されると、そこには項垂れて椅子に座る真澄の姿があった。


「グループワークの時に使ったプリントを破いてしまい、その時に班長と喧嘩になってしまったそうです。理由を聞いても答えてくれなくて……」


 グループワークとは、きっと昨日の夜に彼女が話していた班活動のことだろう。


 喧嘩、といっても真澄には目立った傷が無かった。相手方と見られる班長は顔や手足に絆創膏が貼られており、目を合わせるだけでも痛々しい。


「どうして、こんなことをしたの?」


「知らない、分かんない、言いたくないもん……」


 耳を澄まさないと聞き取れない程に小さく、そして冷たい声だった。目を合わせようとしても、まるで磁石のように彼女はそっぽを向く。


 微笑みかけても頭を撫でても、真澄は心を開こうとはしなかった。


「申し訳ございません、私がしっかりと面倒を見ていなかったばかりに」


 藍奈は行き所の無い感情を抱えながら、先生とその後ろに座っていた班長に頭を下げた。しばらく、沈黙の時間が流れる。




「ねえ、ちょっとだけお話しよっか」


 真澄を連れて帰宅した藍奈は、リビングでゆっくり彼女から事情を聞くことにした。もう日は暮れているが、今日は父の帰りが遅いためしばらくは二人きりの状態になる。


「班長の子と真澄、悪いのはどっちなの?」


「……あいつ、全部あいつのせい」


 ようやく彼女は口を開いてくれた。それはどうしてなのかな、と続けて喧嘩の原因を探る。


「私の夢をバカにしたの。四年生になってお姫様になるなんて恥ずかしいって言ったから、発表をめちゃくちゃにしてやろうと思って……」


「それでプリントを破ったの?」


 だって、と反発するように真澄は顔を上げる。必死に我慢をしていただけで、彼女の表情はもうとっくに涙で崩れていた。


「このままじゃ私が仲間外れにされてたし、みんなから褒められるためには仕方なかったの! 他の班の子や葵にも笑われちゃった……本当は私が一番目立って活躍するべきなのにぃ!」


 怒りと悲しみがぐちゃぐちゃに混じって考えがうまくまとまらない。真澄は母の目の前で、膝から崩れ落ちてしまった。


「ママだって私が活躍したらすっごく嬉しいんでしょ……だったらちゃんと笑ってよ、私を安心させて!」


 外は雨が降っていた。何もかもを洗い流して無にしてしまいそうな、煩わしくて綺麗な雨だった。


「何が正解だったの、私は何をすれば良かったの。ちゃんと教えてよ、ねえ!?」


「真澄……」


 彼女は必死の形相で、近付いてきた藍奈の両肩を掴んで揺さぶってきた。


 確かに、夢を大切にして欲しいと言ったのは紛れも無く昨日の自分だった。だがそれがこのような形になってしまうとは、まさか……


「確かに私はそう思ってる。真澄にはたくさん友達を作って欲しいし、真澄がいろんな場所で活躍してるのを見るととっても嬉しい」


 だったらどうして、と言いかける真澄を遮って彼女は話を続けていく。


「それでも他の人に自分の考えを押し付けたり、傷付けるような真似をするのは絶対にダメ。真澄だって友達にそんなことされたら……嫌だって思うでしょ?」


 一瞬だけ真澄の動きが止まった。だが、すぐに彼女は発作を起こしたかのように呼吸を荒くして叫び始める。


「そんなの違う、他の人なんかと一緒にしないでよ! 私は特別なのに、私が一番可愛いのに……!」


「ちょっと落ち着いて、真澄!?」


 これはまずい、と藍奈が暴れようとする彼女を押さえつける。それからしばらく、真澄の怒りが収まることは無かった。


「私は誰よりもキラキラ輝く、お姫様なのぉぉぉ!!」




「はぁ……困ったなあ」


 泣き疲れてすやすやと眠る真澄に優しく布団をかける。彼女が起きる気配が無いことを感じ取ると、藍奈はようやく肩の力を抜いて座り込んだ。


「最近、この子もちょっとお転婆になってきたのかな」


 真澄が少しわがままな性格なのは昔からそうだった。だが最近はその傾向が強くなっており、家の中だけではなく学校や外でも問題を起こすことが若干だが増えてきているような気がする。


 思い切って叱れば、もうそんなこともしないのだろうか。


「でも、そうすると真澄を傷付けちゃうのかも」


 子供の人格を正すのが親の役目であるのと同じく、その子供が持つ悩みを解消させるために寄り添ってあげるのもまた親の役目なのかもしれない。


 藍奈は眠る真澄の頭を撫でようとしたが、いつもよりも腕が重たかった。


「子供としっかり向き合うのって本当に難しいのね、こんなに可愛いのに……」


 そろそろこちらも布団に入ってあげよう、藍奈が椅子から立ち上がってベッドに向かった時だった。


「あら?」


 ガチャリと玄関のドアが開く音がした。恐らく残業を終わらせた鼓幡が帰ってきたのだろうが、こんな時間まで仕事とは珍しい。


「おかえりなさい、遅かったじゃない」


 彼女は足音を立てずにゆっくりと部屋を出て、早足で玄関の方まで向かった。




 一人で寝ていた真澄が目覚めたのは、それから数時間くらいは後だったのかもしれない。


「あれ、ママぁ……?」


 暗がりでしばらくは目が慣れない。だがいつもは隣にいてくれるはずの、藍奈が何故かいないということはすぐに気が付いた。


「ママ、どこにいるの?」


 廊下に出ても恐ろしい程何も聞こえない。だが手すりを掴みながら階段を下りていくと、徐々に二人の話し声が聞こえてくる。


 いや、それはよく見ると話ではなく喧嘩に近かった。


「はっきり言ってよ、こんな時間まで遊びに行っていたの!?」


 母の藍奈がリビングで叫んでおり、何かを叩きつけるような音が聞こえてきた。真澄は見つからないようにドアの陰に隠れ、その様子を静かに眺める。


 彼女に叱られていたのは、残業で遅くに帰ってきたはずの鼓幡だった。


「どこへ行こうとお前には関係無いだろ、使ったのは俺の金なんだから!」


「俺の金って……今まで数百万も借金をして、みんなに迷惑をかけてたのはどこの誰よ!?」


 二人の怒りは留まるところを知らなかった。だがそれ以上に、彼らが喋っていることが全く理解できずに真澄は凍り付いた。


 借金とは一体何のことなのだろう、それにパパは何をしていたのだろう。


「またその話か。どうせ済んだことなんだし、いちいち掘り返して騒ぐのはやめてくれよ!」


 ここから動くべきなのか、それとも見なかった振りをして部屋に戻るべきなのか。頭の中で今目にしている光景がぐるぐる回り始めて、思考が止まり始める。


「ふざけないでよ! そうやってまた何度もしつこく借金をして、真澄の将来を壊してもしょうがなかったで済ませる気なの!?」


「あ……あのっ」


 だが、これ以上二人が言い争うのを見たくなかった。堪え切れずに真澄がリビングに入ると、今まで怒っていた両親の表情が一変する。


「真澄? ごめんなさい、起きちゃったのね」


 笑顔でこちらを見つめながら歩み寄ってくる藍奈、同じく笑みを浮かべてそれを見守る鼓幡。


 いつも真澄が見る二人の姿だった。だが、先程見た幻のような光景を思い浮かべると背筋に悪寒が走ってしまう。


「さ、早く部屋に戻りましょう」


 今まで疑いもしなかった自分の平和な家族像に、深く不快な亀裂が走ったような気がした。




真澄は敢えてそのことには触れずに週末を過ごし、あっという間に月曜日になった。


「ただいま」


「あっ、おかえり……真澄」


学校から帰ってきた真澄はいつもより少しだけ重い足取りで階段を上り、夜になるまでに宿題を済ませることにした。


「はぁ……」


 言葉にはうまく表すことができないのだが、真澄は学校でも家でも誰かと喋る時に若干のぎこちなさを覚えるようになってしまった。


 何だか人と人とのかかわりに靄がかかったような感覚。本当の気持ちがすっかり隠されて、相手が何を考えているのかが分からなくなってくる。


「嘘つき。私はただ、みんなに愛して欲しいだけなのに」


 ノートに書きこむ手が止まる。退屈そうに足を前後に揺らした後、頬杖をついて目を閉じる。


「つまんないの」


 何をするにも褒められていたあの頃が懐かしい。お世辞でも綺麗、可愛いと言われただけで、以前の自分は嬉しくて有頂天になっていた。


 今もそうだけど……ちょっと違う。本当の気持ちが欲しい、偽物なんて要らない。


「真澄、おやつでも食べない?」


「……うん、今下りるね」


 リビングの方から母の声が聞こえてくる。宿題を途中で中断し、お菓子の良い匂いを嗅ぎ取った真澄は椅子から立ち上がった。




 異変が起きたのは、それから夜の七時辺りになった頃だった。


「あれ、パパ遅いね」


「そうね。いつもならこの時間に帰ってくるはずだけど」


 二人はリビングで座りながら鼓幡の帰りを待っていたのだが、いつまで経っても玄関先は静まり返ったままだった。


「もしかしたら急な残業なのかもね……あっ」


 言いかけて真澄はふと口をつぐんだ。もしかすると今日も、という疑念が心の中に浮かぶ。


「きっと帰ってくるよね、パパだったら」


「もちろんよ。ご飯でも炊いて待っておきましょう」


藍奈はキッチンに向かって作業を始めた。気を紛らわすためなのか、本当に彼のことを信じているのかは分からない。


「何だったんだろうな、先週のは」


掠れるように出てきた小さな声は、大きな蛇口の音にかき消されてしまった。


 すると突然、片隅に置いてあった電話が鳴り響いた。真澄が何か動き始めるよりも先に、素早くタオルで手を拭いた藍奈が受話器を手に取る。


「はいもしもし、斉藤です」


 何を話しているのだろう。こちらからでは相手すら分からなかったが、みるみるうちに彼女の表情が曇り始めた。


「ええ、はい……」


 ため息には驚きと悲しみが入り混じっているような気がした。真澄は何か、嫌な予感を感じ取る。


「分かりました、私もすぐに向かいます」


「ママ……誰からの電話だったの?」


 受話器を下ろすのと共に彼女は聞いた。藍奈はしばらく気が動転している様子だったが、口をもごもごしながらこう伝える。


「あのね、落ち着いて聞いて欲しいの。急なことで本当に申し訳ないけど、まさかこんな……」


 一体何のことなの、と真澄が聞く前に藍奈が話を続ける。


「パパが帰宅途中、交通事故に遭ったって」


 声が出ない、衝撃的な事実に眩暈がし始めた。小さかった亀裂が徐々に広がっていき、幸せだった家庭が崩れていく。




 続く

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