緊急依頼と【黒騎士】

 翌朝。

 寝台の上で目覚めた彼女は、広い部屋の中に誰もいないことを確認してから身を起こし、その白い裸身を大きく伸ばした。

「……よく眠れました。この宿を紹介してくれた組合の職員さんに感謝ですね。後でお礼を言いに行きましょう」

 彼女にこの宿を紹介した職員──昨日【黒騎士】と対応した女性職員──が聞けば、涙を浮かべて首を横に振ることだろうが、生憎と女性職員のそんな心境には全く気づいていない。

 紹介されたのは、この町でも最上級の宿。さすが最上級だけあって上質の羽毛布団が使われた寝台から抜け出し、木戸の隙間から僅かに洩れる朝日にうっすらと照らされる部屋の中、その裸身を全て露にした。

 呪いのせいであの黒い騎士甲冑以外の「着る物」は一切身につけられないが、布団や毛布のような「衣類」ではないものにまで呪いの効果は及ばないようだ。

 とはいえ、日常生活で毛布やシーツを身に纏っただけで生活するわけにもいかない。彼女は、自分の身を縛る呪いを一刻も早く解呪したいと切に思う。

「今のところ、私の呪いを祓う手掛かりはありませんが……【黄金の賢者】様の弟子であるというライナス殿なら、呪いを祓う手掛かりを見つけてくださるかもしれませんね」

 一糸纏わぬ自分の身体を見下ろしながら、これから会いに行く予定の賢者に僅かな期待を寄せる。

 いや、「一糸纏わぬ」は実は正解ではない。彼女の白い裸身の中、一点だけ正反対の「黒」が存在した。

 それは、左手の薬指の根元。そこに、黒い指輪が存在した。獅子によく似た魔獣の頭部をあしらった、どことなく禍々しい雰囲気を放つ指輪だ。

 彼女はその指輪を見つめ、小さく溜め息を吐くと共に「鍵なる言葉」を口にする。

「〈閉門せよ。難攻不落なる黒き砦〉」

 「鍵なる言葉」に反応し、黒い指輪から何かが溢れ出す。そして一瞬後には、それまで広い部屋の中にいた全裸の美女に代わり、禍々しい漆黒の全身鎧を纏った巨漢が現れた。

「いくら誰もいない部屋の中とはいえ、いつまでも裸でいるわけにもいかんからな。さて、もうしばらくすると朝食も運ばれてくるだろう。それまでゆっくりとさせてもらおうか」

 誰に聞かせるわけでもなく、そう呟いた彼女……いや、【黒騎士】ジルガは、鎧を着込んだまま寝台へと腰を下ろした。



 宿屋で出された朝食──最上級の宿屋だけあって、すこぶる美味かった──を部屋の中で一人食べ終えた【黒騎士】は、勇者組合バーレン支部を目指してバーレンの町を歩く。

 がっしょんがっしょんと全身鎧を高らかに鳴らしながら歩く。町の人々はその音に反応して何気なく顔を向け、そして【黒騎士】の姿を目にすると弾かれるようにその視線を逸らす。

 中にはまるで悪魔にでも遭遇したかのように、慌ててその場から逃げ出していく者もいれば、恐怖のあまり腰を抜かしてその場に座り込んでしまう者もいる

 だが、当の【黒騎士】はそれらを気にすることもなく歩いていく。

 どこへ行ってもその地の住民らに道を空けられたり逃げ出されたりするので、最初の頃はともかく今ではすっかり慣れてしまったのだ。

 そうして、勇者組合バーレン支部に到着して扉を潜った【黒騎士】は、組合の中に漂う昨日とはどこか違う雰囲気にすぐ気づいた。

「あっ!! く、【黒騎士】さんっ!!」

 昨日彼女と対応した女性職員が、昨日とは正反対の嬉しそうな顔でその名前を呼んだ。

「どうやら、何かあったようだな。この雰囲気……おそらくは急を要する依頼の類か?」

 勇者組合バーレン支部の中を支配するこの雰囲気に、【黒騎士】は覚えがあった。これまでに何度か体験したこの独特の雰囲気は、何らかの緊急依頼が勇者組合に寄せられたのだろう。

「もしや……この付近に竜が巣を構えたのか?」

「ち、違いますよぅっ!! 竜じゃなくて陸亀ですっ!!」

「むぅ……竜ではないのか……」

 どこか嬉しそうだった【黒騎士】の声が、一気に残念そうなものへと変化した。

 竜はその性質上、巣に莫大な財宝を蓄える。その中には、稀少な神器が含まれている場合もある。

 【黒騎士】は、そんな神器の中に呪いを祓うようなものがないかと期待したのだ。だが、どうやら今回は竜ではなく亀のようだった。

「だが、竜ほどではないものの、陸亀は確かに危険だな」

「そうなんですっ!! このままだとこの町が危険なんですよぅ!!」

 緊急性と危険性ゆえか、昨日のような恐れを全く見せることなく、女性職員は【黒騎士】に食い下がる。

「今、この町の組合には陸亀を討伐できるような勇者はいないんです……【黒騎士】さん以外には」

 じっと真摯な視線を向ける女性職員に、【黒騎士】は何も言わずに頷いた。

「【黒騎士】さん……っ!!」

「ああ、私に任せておけ」

 それだけ言い残した【黒騎士】は踵を返して先程潜ったばかりの扉に向かう。

 その漆黒の背中を、勇者組合の中にいた者は全員見つめた。

 昨日とは違う、期待の籠った視線で。



「【黒騎士】の旦那」

 バーレンの町の外へと向かう【黒騎士】の背中に、聞き覚えのない声がかかった。

「誰だ?」

 振り返った【黒騎士】の視線の先には、一人の男性。

 年齢は三十代と二十代の境目ぐらいだろうか。ほっそりとした長身の身体を、使い込んだ革鎧が包んでいる。

 腰には小剣を佩き、背には弓。腰の後ろには矢筒を装備しているところから、この男性もまた、組合の勇者の一人なのだろう。

「旦那、陸亀を倒しに行くのはいいが、問題の陸亀がどこにいるか知っているのかい?」

「む? 言われてみれば、詳しい情報を聞いて来なかったな」

 その場のノリと勢いで勇者組合を後にした【黒騎士】だが、今更ながらに陸亀に関する詳しい話を聞いていないことを思い出した。

 どうやら、この男性はその辺りを支援するため、勇者組合から派遣されてきたようだ。

「俺はザッシュってモンだ。組合での階位は三桁だが、斥候としての技術ならちょいと自信があるぜ? 今回、俺は陸亀とは直接戦いはしないが、それ以外で旦那を支援することになった。ま、戦い以外は任せてくれ」

「うむ、それは心強い。私もある程度は斥候の真似ごともできるが、当然本職には及ばないからな。期待させてもらう」

「じゃあ……早速だが、行くとしますかね。ところで、旦那は陸亀に関する知識は?」

「陸亀ならよく知っているぞ。これまでに何頭か仕留めたこともあるしな」

「そいつは心強えな……って、おい! もしかして、一人で陸亀を倒したって言うんじゃ……」

「無論、一人で倒したが?」

 何気なく言う【黒騎士】に、ザッシュの口元が引き攣る。

「組合の勇者でも、階位二桁が数人から十数人で倒すのが普通って言われる陸亀を一人でか……陸亀とこの旦那、どっちが化け物なのやら……」

 呆れているのか感心しているのか。何とも言えない複雑な表情を浮かべるザッシュだった。



 バーレンの町から徒歩で半日ほどの距離に、とある森林地帯がある。

 緑の木々が生い茂る広大な森林地帯で、バーレンとその近郊で暮らす者たちにとっては、様々な恵みをもたらしてくれる場所だ。

 だが、同時に危険な獣や魔獣の棲み処でもあるため、森林地帯の外縁部ぐらいにしか人の手は及んでいない。

 そんな森林地帯に、べきべきという大きな破壊音が響いていた。

 巨大で強靭な口が、太い木の幹を一齧りで噛み砕き、そのまま咀嚼して嚥下する。

 かと思えば、その口から灰色の何かが飛び出し、木々が倒れる音に驚いて逃げようとした鹿を素早く捕え、そのまま口へと戻ると哀れな獲物を丸呑みにする。

 巨大な体を支える太く短く強靭な四肢。申し訳程度に存在する小さな尻尾。そして、胴体からにゅっと伸びる頭部には、強靭であり鋭い嘴のような器官を有する顎がある。三対六個の眼は赤く光り、周囲に手頃な獲物はいないかとぐりぐりと蠢いていた。

 まるで一軒の家が動いているかのような巨体。その背中は岩のようにごつごつとしており、所々に苔が生えていた。

「…………あれが陸亀ですかい……。な、なんて化け物だ……」

 森の中をのっしのっしと我が物顔で歩く怪物──陸亀を、ザッシュは顔色を蒼白にして呆然と眺めた。

 だが。

「ふむ……思ったより小さいな。どうやら、まだ若い個体のようだ」

「あ、あれで小さい……っ!?」

 それまで蒼白だった顔にぎょっとした表情を浮かべ、ザッシュは傍らに立つ巨漢を見上げた。

「以前に見た陸亀は、あれよりも二回り以上大きかったからな。以前の陸亀に比べれば、あの個体はかなり相手にしやすかろう」

「…………やっぱり、どっちが化け物なのか分かんねえや……」

 陸亀とは、天災にも等しい魔獣である。

 食性は雑食で、肉だろうが草木だろうが、時には岩や土さえ食う悪食であり、しかもその巨体に見合う量を常に食べるため、陸亀が一体現れれば周囲の地形が変わるとまで言われる、まさに天災と呼ぶに相応しい存在なのだ。

 亀だけあって、その防御力は極めて高い。鋼よりも数倍は強固な甲羅は言うに及ばず、そこから伸びる四肢もまた強靭な鱗に覆われていて、並みの剣や槍、矢などは容易く弾き返してしまう。

 弱点と思しき頭部は高く、馬に乗った騎士でも得物を届かせるのが難しく、それ以外に弱点らしい弱点はほぼない恐るべき魔獣なのである。あえて挙げるとすれば、動きが遅いことが思いつく限りの弱点だろうか。

 そんな陸亀を討伐するには、五百人規模の軍隊を用いるか、組合の勇者の中でも上位者──階位二桁前半以上──が数人から数十人で、ようやく可能と言われている。

 そんな陸亀に対して、【黒騎士】は相手にしやすいと言う。これを聞けば、ザッシュでなくとも我が耳を疑うであろう。

「ほ、本当に旦那一人であのデカブツを倒せると……?」

「もちろんだ。なんせ、陸亀には大きな弱点があるからな」

「り、陸亀に弱点……そ、そんなもの聞いたこともねえぜ?」

「見ての通り、陸亀は巨体だ。だが、その巨体に比して四肢は短い。そこが弱点なのだ」

 あっさりとそう言う【黒騎士】に、ザッシュはますます分からないといった表情を浮かべる。

「い、一体どういう意味だ……?」

「簡単なことだ。ひっくり返してしまえばいい」

 と、【黒騎士】は何とも簡単そうに言い切った。


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