一章 どうしようもなく息吹き始まるぼくたちの季節②

   *


 翌日の放課後、僕は化学準備室で一緒くたにされた分厚い資料集を淡々と年度別に分けていた。

 何も昨日のことを失念しているわけではない。

 檜垣は僕が選ばれたと言った。

 そして自分で考えろとも。

 僕は一晩中考えていたのだ。

 檜垣の言わんとしてる意味を。彼女が意図してる真実を。

 ひたすらの熟考の末、僕は唯一の結論に逢着した。

 その答えを確かめるため、僕はこうやってひとり、校庭に飛び交う部活動の華やかな歓声を聞きながら、粛々と作業をこなしているのだった。

 授業中に檜垣に聞くという選択肢もあるにはあった。

 だが、あの意地悪そうな檜垣のことだ。教室で問い詰めたところで、おそらく知らんふりをされて、僕が周りから変な目で見られるというオチになる。そんなのは容易に想像がつく。そんな悶々とした気持ちで手を動かしていると、扉がガラッと開き、檜垣が姿を見せた。

 彼女は机に鞄を置くと言った。

「どう? 心は固まったかしら。自分がどんな状況にいるのか、もう分かってきたでしょう?」

 僕は不敵にフフフ、と微笑んで見せる。

「どうしたの、発作?」

「僕なりに考えてみたんだ。昨日檜垣に言われたことをな。それで分かったよ。お前の言ってる意味がな、それは――」

 僕は彼女を指差し、言い放った。

「嫌がらせだ!」

「な、なんですって……」

 口に手を当てる檜垣に僕は推論を述べ立てる。

「檜垣は何らかの理由に僕に恨みを抱いていた。僕の何気ない仕草や動作に思うところがあったのだろう。そのためお前は僕に報復を考えた。化学係という二人きりのシチュエーションを利用して、僕をまんまとトリックに嵌めようとしたんだ。その挙げ句があの影法師だ。戦隊モノの敵役の着ぐるみかなにかを借りてきたのだろう。僕をその魔術に引き込むには充分だったよ。あんなの夕方に見れば、誰だって驚く。周到な準備と山場の盛り上げ方、いやあ大したものだよ。マジシャン檜垣。そしてお前は最後に仕返しの締めくくりとして、こうして僕の反応を待っている。この一連のことは、『自分で考えなさい』に対する僕の謝罪で幕を閉じる予定だったわけだ。けれど、僕はそれを見破った! どうだ、図星なんじゃないのか?」

 檜垣の唖然とする表情を前に、僕は胸を張った。

 ……どうだ! 裏をかいてやったぞ!

 胸の中で僕はガッツポーズしてみせる。

 檜垣は表情筋を硬直させたまま、言葉を継いだ。

「もしかして、堤くんって馬鹿なの?」

「おっと。悪あがきは格好悪いぜ。率直に負けを認めたらどうだ?」

「そうね。まさかここまでとは思いもしなかったわ……」

 彼女は歎息をついた。

「そうだろ? ここまで先読みされるとはゆめゆめ思わなかったことだろう」

「仕方ないわね」

 檜垣はつかつかと僕の前に歩み寄ると、

「現実を見なさい。堤くん」

 言い捨てるやいなや彼女は固めた右拳で僕の腹めがけ、正拳突きを繰りだした。

「くっ……は……」

 当然受け身など取れるはずもない。僕は腹部を抑えて、屈みこんだ。

「お前、なにを考えてるんだ……!」

 呻く僕の襟元を檜垣はつかみ起こして揺さぶった。

「それはこっちの台詞よ! どうして現実を認めないの? あなたは選ばれたのよ! 堤くんには大勢の戦士たちの命運がかかっているのよ!」

 耳元で放たれる檜垣の叫びがキンキンと脳内に響き渡る。

 呼吸困難に陥りそうになりながらも、僕はなんとか彼女の手を離した。

 襟を正しながら僕は訊ねる。

「な、なんだよ。それ……」

「私はあなたを試したのよ。その結果として堤くんは見事、潜在的な意志を発動した。君は無意識であれ、ちゃんと答えてくれたのよ」

「試した、だと? ……それは僕が、嫌がらせにどう反応するか試したわけじゃないんだよな」

「そんなわけないじゃない」

 檜垣の瞳を覗き込むと、彼女はいたって真剣なようだった。

「私は堤くんをサポートする義務があるの。だからあなたも早くその腐りきった懐疑心を解きなさい」

「そんなこと言われてもな……」

 彼女は強情な幼子を宥めるように肩を竦めた。

「じゃあ証拠を見せてあげるわ」

 そう言うと、檜垣は昨日してみせたように躊躇なく僕の右手を握った。

 脳内を走る鈍い痛みを感じ、僕は目を瞑った。

 痛みが遠くに引き上げ、瞼を上げると変わることなく檜垣はそばにいた。

 僕は離された右手をまじまじと見つめると、彼女に訊ねた。

「証拠って?」

「ほら」

 彼女は壁の一角にかかった時計を指し示した。時計の針は五時五分を差している。

「時計がどうかしたのか」

「まあ見てなさいよ」

 檜垣は僕に告げると、窓を開けて外を眺めだした。

 無言が空間を埋め尽くす。

 僕はどうしようもないので、丸椅子に座って頬杖を突きながら、時計を見やることにした。

 一分が経ち、二分が経つ。

 やがてカップラーメンができるほどの時間が経つ。

 僕は痺れを切らして窓辺に佇む檜垣を振り返った。

「おい、なにが見てなさいよだ! なにも起こんないじゃないか!」

「堤くん、本当に見てたの?」

 髪をさらりと揺らし、こちらを見た檜垣はやれやれといった風に呟いた。

「……時計」

「ああ?」

「何分経ったの?」

「何分ってそりゃあ――」

 僕は進んだはずの時間を答えようとして、パッと時計盤に視線を投じたが、そこで文句を詰まらせた。

 時計の針は、相変わらず五時五分を差していたのだ。

「あれ? さっきも確か五時五分だったよな。三分は経ったと思ったのに……」

「三分経ったっていうのは堤くんの体感であって、実際の時間の経過とは何の関係もないのよ」

「ど、どういうことだ?」

 事態が飲みこめない僕に、彼女はなんとはなしに告げる。

「ここでは時間が停まっているのよ。ほら、こっち来てグラウンドを見てみなさい」

 檜垣は手招きをして僕を窓辺へと誘った。窓から外を眺めてみると、まだ太陽が照っているというのに校庭には人っ子ひとりの姿もなかった。不気味な沈黙がグラウンド上を支配している。

「そんな……あり得ない。さっきまでちゃんと掛け声が聞こえていたのに」

 檜垣は僕の隣でぼそっと囁いた。

「分かった? これが証拠よ。今の私たちは普通の世界線とは違うところにいるの」

「つまりは異世界ってことか? そんなこと言ってグラウンドの人間をお前が直前に帰らせたりしたんじゃないだろうな?」

「気になるなら、職員室にでも覗いてくればいいじゃない。どんな生徒であっても先生たちをこの時間に全員帰すことなんてできないわ」

 檜垣の態度には微塵の揺るぎも見受けられなかった。これ以上みっともない反論を重ねることはできなそうだった。僕は首を振って、観念したことを表明した。

「分かった。認めるよ。しかしなあ、異世界って言われても……。そもそもなんで僕が普通じゃない世界線に入り込めてるんだ?」

「それはあなたが選ばれたからよ」

「それはもう聞いたって」

 僕は窓辺から離れて、椅子に座った。

「それで? ここはどんな世界なんだ。見かけはほとんど変わっていないようだけど」

 檜垣は背を窓枠にもたれさせ、僕を見た。

「そう感じるのも無理ないわ。ここは現実の写像のようなものだから」

「写像?」

「正確には現実がこの世界の写像なんだけどね。ここがオリジナルなのよ。その意味で私たちはこの世界を原界オリジンって呼んでいるのよ。日常世界である現世界リアルのオリジナル、それがこの原界なの。堤くん、バベルの塔の話はしたよね?」

「あ、ああ……うん。結晶とか意志とかの話だろ?」

「そう。結晶は人の意志を映し出す媒介物質って話。かつて人はそれを一か所に集めようとした。けれど怒った神はそれを離散させた。それによって結晶は各地に離れ離れになったってわけね。そのことから導かれることは、結晶は一人にひとつずつ備えつけられたものではない、ということ。すなわち、選ばれた者しか結晶を手にすることはできないのよ。そして結晶に選ばれたののみが、現世界から位相の断絶を乗り越えて、原界に至ることができる。堤くんがもし体内に結晶の磁場が展開されず、適性が皆無だったのなら、原界に来た時点でバラバラにされてるわ」

「要するに、僕にはその結晶があるわけなのか?」

「知らなかったかもしれないけどね」

 与太話だと思ったバベルの塔の話がまさかここで繋がってくるとは思いもしなかった。

 僕はそこでふと気がついた。

「ってことは檜垣も結晶を持ってるってことなのか?」

「もちろん」

 檜垣は頷くと、寄りかかっていた窓からからだを離して、両腕を宙空に差し出した。

 こちらにむけられた二つの手のひらの間に包み込まれるようにして、仄かに光が灯り始めた。それは、透き通るような緑色の光だった。

「私は緑色の結晶、橄欖石ペリドットの所有者なの」

 彼女はそう言うと、腕を前に伸ばし左手の腹で右手の甲を軽く抑え、両の親指の先を合わせるようにして、三角形の隙間ができるようにした。

「見ててね」

 彼女が軽く右目を閉じた。固唾を飲む僕の前で、その変化はすぐに表れた。

 その三角形の隙間に淡い緑色の球体が見えるようになってきたのだ。周りの空気の粒子が渦巻いて、一極集中し、その密度を高めているように見えた。また、それは緑色に見えるのだが、染色や塗布されたものというよりは、蛍や稲妻のような内から溢れる自然的な発光に感じられる。彼女は目を開いた。

「ね。簡単でしょ。こうすることもできるわ」

 次に彼女が両腕をそのままゆっくり左右に離したが、驚くことにその球体はそのまま浮かび続け落ちることはなかった。彼女はそれを右手でつかんで手のひらに乗っけた。

 すると緑の球体は素直にコロンと転がった。

 常軌を逸した、あまりにも突飛な現象に僕は感心した。

「すごいな……それが結晶の力か」

「固体にも気体にもなるし、やろうと思えば液体にもなるわ。私の意志を取り出しているから、私の思う通りに性質を変化できるのよ。すぐに堤君にもできるようになるわ。ところで、昨日堤くんは煙みたいな怪物に囲まれてたでしょう?」

「そうだ。あれはいったい何だったんだ? ……っていうか、見てたなら助けろよ」

「堤くんに能力があるかどうか見てたんだから仕方ないじゃない。もし何かあったらすぐに飛び出すつもりだったし。それはいいとして、あの煙とも影ともつかない姿をしてたのはガイストの一種よ。ガイストは分かりやすく言えば人工霊ね」

「人工霊? それって――」

「そう、その語感から分かると思うけど、元はこの私たちがいる現世界リアルで死んだ人の霊魂なの。でも霊魂そのものではないわ。それは『凝りこごり』って言うんだけど」

「なに?」

凝りこごり、よ。魂が集合していく現象ね。生前に現世界に思い残したり、世俗への執念が強すぎると、人の魂は完全に浄化されることはなく原界にその存在を留めるのよ。そうした魂は別の似た魂を互いに呼び寄せて、合成したり集合したりすることがあるの。粘土のようにくっついちゃうのね。それがガイストよ。で、それが原界だと可視化されるってわけ。つまりね、ガイストは見えなくても現世界リアルにもいるの。見えないけれど存在している。知覚できないけれど、そこにいる。ときにそれは昔からの伝承にもある通り、怪物として妖怪として怨霊として現世界の人々に悪影響を与えてきたの。いえ、伝承として取り上げられてるのはその中でもトップクラスに強いものたちなんでしょうけどね、人々に解釈されるほどなんだから。例えば、心霊スポットや合わせ鏡、事故物件なんかに特別なオーラを感じる人たちっているでしょう? そうしたところにはガイストが現れていると見ていいわ。結晶を宿していなくとも、原界の引力を感じることだけなら結構多くの人ができるみたいだから。ほかにも、神奈備かんなびと呼ばれる古い森や、常世郷を見た沖合、急峻な岩場に突如として現れる滝なんかに立ち会ったとき、からだをそのまま鷲づかみにされるような不思議な感覚が訪れることがあるって言うでしょ? あれは神性ディヴィニティって言って、現象としてあれも同じようなものなの。厳密には凝りと神性ディヴィニティは別の系列なんだけど、いずれにしても重要なことは、原界でのみ可視化されるそれらは、しかしながら現世界に一定の影響を与えているということよ。それらは現世界の裏の側面。ほとんどの凝りは、裏側から現世界を突き崩そうと蠢いてる悪性因子、絶対悪と言ってもいいものなのよ」

 絶対悪、という言葉に強調が置かれる。

「結晶は私たち自身の意志を映し出し、増幅することでガイストを浄化する力を齎してくれるの。だから選ばれた私たちはガイストの存在を許しはしない。不条理な存在である凝りを除去する掃除婦が私たちの使命。ガイストを殺して、殲滅して、浄化することが選ばれた私たちの存在意義であり、自己証明になるの」

 僕は両腕を組んで、唸った。

「信じがたい話ではあるが、現にそれを見せつけられちゃあな……」

「だけど堤くんはまだ完全ではないわ」

「完全ではないというと?」

「まだ堤くんには色がないの。緑、白、黒、赤、青、あなたはまだ自分の意志の色を知らないはずよ」

「色?」

 思い出してみれば、ガイストに襲われて、それを突っ切ったときも僕は目をキツく閉じたままだったような気がする。

「意志の発現には、先達による洗礼が必要なの。それによって初めて結晶は本来の輝きを得ることができる」

 こちらを見つめる檜垣の視線の意図を汲み取り、僕は頷いた。

「今更、何言ったって遅いんだろうな」

「物分かりがよくて助かるわ」

 彼女は僕の前に立つと、僕の額に人差し指を当てた。

 そして声を顰めて、僕にそっと囁きだした。

「瞼をおろして、肩の力を抜いて。すぐにあなたは夢に落ちるわ。深い深い、誰も知らないところへ、あなたは降りていく。安心して。そこはあなたのよく知ってる場所だから」

 頭が締めつけられる感じがして、エレベーターが急降下するときのような重圧がからだに圧し掛かった。

 気がつけば僕は、とある家の居間にいた。

 畳みの敷かれた和室の部屋だ。

 周りには年季の入った箪笥や仏壇が置かれ、障子からは陽の光が透けている。畳のすぐそばには今まで遊んでいたのか、幼児が喜ぶようなミニカーやおはじきが散らばっていた。

 ここは僕の部屋ではなかったが、不思議とどこか馴染みのあるものだった。

 僕は立ち上がると、仏壇を覗き込んでみた。

 線香の匂いが強くなる。

 遺影はないが、中央に設置された位牌には金で代々の名字が刻み込まれている。

「千代田家の墓……?」

 位牌には確かにそう記されている。

「もしかして……」

 僕は再び辺りを見回した。

「……そうか……とするとここは……!」

 僕は今いる場所がどこだか思い到った。

 千代田家は僕の母方の家系である。この和室は僕が幼い頃によく連れてこられた祖父母の家の一室だったのだ。幼稚園に入る以前、共働きの僕の両親はしばしば僕をここに預けていった。おぼろげで、断片的ではあるが当時の感覚は覚えていた。一日中、僕はこの家で過ごしていたのだ。もう何年も立ち寄ってはいなかったが、紛れもなくここは僕のよく知っている場所であった。

 落ち着いた僕は、外はどうなっているかと障子の方を見やると、障子窓の下に置かれたちゃぶ台に小さな箱がいくつも置かれているのに目がとまった。

 近づいてみると、白い厚紙で包まれた真四角の箱が七つ、等間隔で置かれている。

「この中から一つを選べってことか」

 僕はちゃぶ台の前に正座して、じっと箱を観察した。

 前列に三つ、後列に四つ、どれにも違いはないように見える。

 僕はすうっと息を吸うと後列の左から二番目を手に取った。

 それをつかむと箱の外面を為していた紙がぐにゃりと曲がり、ほどけるようにして僕の手の内にひらいた。

 ひらく紙片の中心に姿を現したのは、堅そうなひとつの石だった。

 まるで夜に溶け込むような青さのその結晶を、僕は見つめた。

 脳内がどんどんクリアになっていく感じがした。

 僕には、なぜかその結晶の名前が分かった。それは忘れていたこの部屋を思い出すような、紙に水が染み込んでいくような自然さで、僕にはその結晶のことが分かったのである。

 僕は、自分の中に眠った何かに呼びかけるようにして、それを呟く。

「……灰簾石タンザナイト

 僕の口から言葉が発せられると、結晶は強い輝きを放ち始めた。

 その青い光は辺りを照らし、部屋中を満たし、ついにはすべてを覆い隠した。

 僕の頭は空っぽになり、しめつけられる感覚がからだを侵す。

 意識がはっきりして、目を開くと、そこはもう畳も仏壇もない、元の化学準備室だった。

「あ、気がついたのね」

 窓から外を眺めていた檜垣がこちらを振り返った。僕はどうやら気絶していたようだ。

「どう、分かった?」

「ああ。ちゃんとわかったよ。昔から知っているような気さえした」

「みんなそう言うわ。でも辿り着けてよかったわ」

 檜垣は安心したように言うと、表情を引き締めて僕に向き直った。

「じゃあ、さっそくやってみようか。意志は結晶に通すことで、浄化作用を持つ意志ピュイサンスとなるの。結晶はもう心と同期しただろうから、意志を展開するだけで自動的に結晶を媒介させたことになるわ」

「どうすりゃいいんだ?」

 僕は彼女の指示通り両腕を伸ばして、真似をして三角形を作った。檜垣が後ろに回って、僕の手を揃えるのを手伝ってくれる。揺れた髪が僕の首筋をくすぐった。

「まずは目を閉じて、心を落ち着かせて」

 僕は彼女の言う通りにしてゆっくり深呼吸をした。

「それで循環する血液の音を聞くように耳を澄ませて、指先に神経を集中するの」

 ゆっくりと檜垣の言葉を頭で反芻し、心を努めて無心にする。できなかったらどうしようという不安の色を消していく。

 それはあたかも眠りに就くときの脳の運動のように。

 空間把握も時間把握も差し置いて、指先の実感だけに神経の照準を合わせていく。

 からだの外側の全てを忘れ、体内のリズムをひたすら繰り返す。

 ひとつひとつ、丁寧に。すこしずつ、慎重に。

 ――突然、彼女が嬉しそうな声を上げた。

「堤くん、できてるよ!」

 ドキッとしてすぐに目を開けると、何も起きてないようだった。目の前で檜垣は不服そうに言った。

「あぁー、もう消えちゃったよ。動揺したらダメだよー。消えちゃうから」

「そんなこと言ったって」

 僕は文句をぼやきつつ、少なくとも自分にも確かにその意志の力が宿っていることに安堵した。

「じゃあさ、今度は目を開けながらやってみてよ」

 檜垣はやや興奮がちに提案した。

 僕は頷いた。手の先を合わせて、心を落ち着かせ、そこに全身の集中を向ける。

 すると、数秒しないままに僕の手の先にはひかりが灯りだした。零れそうな、薄く青い光だ。細かな粒子が渦巻いて僕の手の先に集まってきてる。気持ちを揺り動かさないように、そのまま目線を逸らさず集中を強めると、輪郭がぼやけていた青い光はその輪郭の揺れ幅を弱め、球体に少し近づいた。さっきの檜垣のに及ばないのはどう見ても明らかだが、僕だってできることはできるのだ。耳元で聞こえる鼓動が加速する。ここまで来たら出来るところまでやってやろうじゃないか。

 そのままぐっと目に力を入れて集中力を高めると、その光体は寄り集まるようにぐぐっと固く、しっかりとした球体の輪郭をつくっていった。

 もう少しだ……もう少しだけ。

 綺麗な形になるように、完全なものに近づくように、僕は願った。

 かなり光球が形になり始めたとき、視界の色が接触不良みたいにチカチカと乱れ始めた。ここでやめるわけにはもちろんいかない。すぐにでも意志は分散してしまうだろう。

 まだ、やれる――。

 そのまま意志を強め続けていると、不意に視界が白黒になった。僕は、全身の力が入らなくなってしまい、前のめりに倒れた。

 球体はコツンと床に跳ね返って果敢なく消えた。

「だ、大丈夫?」

 檜垣は僕の、痺れて力が入らなくなった左手を両手で握った。僕は薄らぐ意識の中で微笑んでみたがうまくできたかどうかは定かではない。目を開けると景色が揺れて、気持ち悪くなる。檜垣が何かを叫んでいるのは口の動きで分かったが、僕は目を瞑った。

「…………」

 意識は混沌とした流れの中に沈み落ち、音は何一つ聞こえてはこなかった。思考回路は沈黙していた。ただただ底に落ちていく感覚がした。

「…………」

 次第に暗闇の中で僕の周りが振動しているのが分かる。

 それは、脈打つ鼓動の音。

 それを包みこむ柔らかい感触。胎内の夢へと落ち込んでいくようだった。海底へ沈んでいくような思いを、強い呼び声が受けとめた。

「……みくん! 起きて!」

 なにかが聞こえた。

「堤くん!」

 僕は瞼を押し上げて目を開いた。天井が視界に映り、その真ん中には僕を見下ろす檜垣がいた。授業中の居眠りから覚めたみたいに、聴覚と視覚と肌の感覚が一気にからだに蘇ってくる。

「あれ?」

「うわあ。良かったー」

「気い、失ってたのか」

 うんうん、と頷く彼女。

「まあ珍しいことではないんだけどね、慣れてないのに急に意志を使い過ぎちゃうと、からだがその変化に追いつかなくなるからね」

「そっか、気をつけないと。……って!」

 頭の下にあったのが、檜垣の膝であることに気づいて僕は飛び起きた。

「ご、ごめん!」

 僕が謝ると、彼女は笑顔のまま言った。

「それじゃあ次もやってみようか」

 仮死状態から回復した僕は半笑いを浮かべた。

「……本当にやっていけるんだろうか」

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