2 ステップを刻むように…

 小島爽夏は、航と同じく大学3年生、違う大学に通っている為、航と会えるのは週末だけで、それも大抵は山の中だ。

 爽夏が航と初めて会ったのは高校の入学式だった。同じ中学から進学した友達と話をしていた時、遠くから射抜かれるような強い視線を感じ、振り返ると、そこに葉山航が居た。


 爽夏は、震え上がるような衝撃に襲われた。航が放つ輝きに視線は釘付けになり、一目惚れというものを、初めて体験し、希望に満ちた高校生活がスタートする。

 しかし高校生活が始まったら、航に思いを寄せている女性が、自分だけではない事を知った。男女を問わず、いつも人の輪に囲まれている航は、雲の上の存在に思えた。


 高校生活の最初の二年間は、あっという間に過ぎていった。

 最終学年になったとき、ようやくチャンスが訪れる。誰もやりたがらない学級委員に爽夏と航が、あみだくじで選ばれたのだ。

 航に思いを寄せながらも、遠くから見つめる事しかできなかった爽夏にとっては、千載一遇のチャンスだった。

 航と二人で過ごす時間が出来て、爽夏は、航の事を益々、好きになる。


 同級生の男子とは比較にならないほど大人っぽくて、親切で、何をやっても様になる航は、全てが輝いて見えた。これを切っ掛けに何かが起きてくれたらと期待した。しかし結局、何も起こらず、時間だけが過ぎていく……

 爽夏には、何かを起こそうと言う勇気も、行動力も無かった。だから、それは当然の結果だった。


 卒業式が終わった後、航とさよならの握手を交わした。その時の感触は、ずっと残っている。大きくて、温かくて、逞しい、あの瞬間の記憶が蘇ると、同時に高校時代の切ない思い出がツーンと込み上げる。だけど、そんな思いも今は無い。

 あの日…… 航と再会してから人生が変わった。

 週末毎に航と会える喜び、そして大好きなトレイルランニングを航と一緒にしているという一体感、今は満たされた時間を存分に味わっている。


 トレイルランニング(トレラン)というのは、トレイル(森林や原野、里山などにある舗装されていない道)を走る競技の事で、欧米では古くから盛んな競技だ。

 近年、日本に進出してきて、マラソンや登山の流行に伴って、競技人口は年々増えていき、今では毎週のように、日本各地で様々なレースが催されている。

 10キロ程度の手ごろなレースもあれば、100マイルという途轍もなく長いレースもある。


 爽夏がトレイルランニングを始めた切っ掛けは、大学二年の夏、ハワイへ留学した時に、現地で知り合った友人に誘われたからだった。

 中学の時は水泳部、高校では陸上部に所属していた爽夏は、どちらも県大会で上位にランクされるくらいの実力を持っていた。キャプテンに推され、全国大会まであと一歩と言うところまで進んだ事もあった。

 それなりの情熱を持って競技に取り組んでいた。だけどプールの中を泳ぎ続ける事や、トラックを周り続ける事に、やりがいを見出せなくなり、大学に入った途端、競技を離れてしまう。心のどこかで、燃焼仕切れていないモヤモヤを抱えてはいたが、競技を続行しようと言う気にはならなかった。


 そこで巡りあったのが、トレイルランニングだった。

 森の中を走り抜ける爽快感、狭いコースを走るが故に感じられるスピード、危険と隣り合わせのスリル、それに自然と一体になっていく充実感と自由な感じに、爽夏はハマった。同じコースでも、自然はいつも違った表情を見せてくれる。留学中は、ハワイ在住の仲間と、時間があれば山へ繰り出して、トレイルを駆けまわった。


 今、走っている芦ノ湖西側のコースは、爽夏と航が住んでいる湘南から車で1時間ほどで来れる手頃なコースだ。観光客が多い東側と違って、人が少なく、快適に走れる。人気のハイキングコースはハイカーが多くて、気持ちよく走る事は出来ないし、ハイカーにしてみたら、こんなスピードで狭い道を追い抜かされたら恐怖だろう。

 だから、二人は敢えて人の少ない山道を探して、走り回っているのだ。


 爽夏は腕時計に目をやり、1キロを約6分、時速10km程度で走っている事を確認した。爽夏の時計にはGPS機能が搭載されている。だから今、自分がどれくらいのスピードで走っているのかを常に把握できる。爽夏にとっては楽なペースで、このくらいなら、ふつうに会話だってできるし、鼻歌だって歌える。


 山の中に入ると木の根っこが入り組んでいたり、ガレた岩場があったり、滑りやすい斜面が現れたりするので気が抜けない。

 でも、それらをダンスを踊るような軽快なステップで切り抜ける事を爽夏は得意としている。路面状況を瞬時に把握し、どういう走り方をすれば、安全に、素早く切り抜けられかに全神経を集中する。その瞬間、頭の中から雑念は消え去り、ある意味で自由になれるのだ。


 ずっとこんなコースが続いてくれたら、どこまででも走って行けそうなのに……  

 爽夏は思った。だけど、湖西岸のハイキングコースは終わりに近づいている。この先は傾斜のきつい上り坂が始まる。斜度のきつい上り坂を爽夏は苦手にしている。男性に比べると脚筋力に劣る女性は、上り坂を苦手とする傾向が強い。


 湖畔沿いの緩やかな林道を抜けると、石畳の急登が始まる。

 ハァー、ハァーと呼吸が荒くなり始め、それと同時に体温が上昇する。

 爽夏はサンバイザーを外して、額の汗を拭った。

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