002

 有馬いろりという名を聞けば、多くの人間は『ああ、あの裏高の暴走うさぎか』と思うだろう。


 裏高の人間でも他校の人間でもそれは間違いない。


 それほど名が知れ渡っているというのは、この有馬いろりが相当変わった人間であるという証拠だ。


 有馬が通れば風が吹く。

 授業が一限自習になれば、有馬が何か事を起こした。


 これらは彼女を表す比喩表現で実際に彼女がやらかしたことじゃない。


 ただ、実際彼女は授業をサボって旅行に行ってたり、運動会の日にクラス種目以外出場せずどこかに消えたり……と何かと話題に上がったりしていた。


 有馬いろりを語る上で避けて通れないのはこういう面だけじゃない。


 彼女の稀有な身体能力もだった。


 陸上部、サッカー部、野球部、バレー部、テニス部、卓球部、新体操部、バスケ部、クリケット同好会。


 以上の部活動(もしくは同好会)は、彼女が体験入部を行った体育系の部活だ。


 どれもなかなかの好成績を残し、『有馬を引き込めば県大会好成績は間違いなし』と言われるほどのオールマイティーだった。


 彼女は結局熱烈な勧誘を受けて、そのうちの陸上部に入部した。その後、短距離選手としてバチバチ成績を伸ばしていき、体育館での表彰事も珍しくなかった。


 それほどの身体能力を有しながら、本人は自由奔放で練習を抜け出すこともあったという。それでどこかで事を起こす。


 それが理由なのか分からないけれど、先週陸上部内で起こった内輪もめに紛れて部活さえ辞めてしまっていた。


 それが僕の知っている有馬いろりという少女の全部。

 これ以上知ることもないだろう、と思っていたというのに。


 ——ごくり、ごくり


「いやぁー! やっぱりコーヒーは生き返りますねぇ」


 ぷはぁ、と一杯飲み干してニコニコ顔で僕を見る。


 砂糖をスプーン十五杯、ミルクをドバっと加えた激甘コーヒーをオアシスの水みたいにごくごくと……。

 

 有馬いろり……恐ろしい子っ! 


 有馬はことりとカップをテーブルの上に置く。


 喫茶なぽれおんの入り口から最も離れた奥の角席。そこに僕と彼女は向かい合う形で座っていた。


 肘をついて彼女の豪快な飲みっぷりを見ていたのだけど、僕を見て首をちょっと傾げる。そしてアッ、と気が付いたように口元を抑えた。


「このコーヒーは私のものですからね⁉︎」


「別にとらないよ……」


「……本当ですか? その卑しい目は私のコーヒーを狙う狩人の目と見ました。有馬いろりの前で嘘は通じませんよ‼」


「つく必要もないだろ! そもそも僕はコーヒーが得意なタイプじゃないんだよ」


「ということは……圷さんはコーヒーなんて泥水俺にゃあ似合わねぇぜ! べらんめぇこんちくしょう! ってタイプですかっ」


「僕のイメージはどうしてそんな江戸っ子なんだよ……。苦みの旨味がわからないだけだ」


「なんと! この芳醇な香りと押し寄せるような砂糖の甘みのコントラストの良さが分からないなんてっ」


「その甘みはお前が鬼のように注いだ砂糖によって作り出されたものだからな? オーナー泣いてるぞ?」


「そのオーナーの涙の雫がオリジナルコーヒーの隠し味……」


「ンなワケあるか」


 にっしっしと歯を見せてにっかりと笑う。こうしてみると普通通りの、僕が噂に聞いたままの有馬いろりだ。


 高校指定のブレザーじゃなくメイド服だっていうのは異色だけど。


「あっ! 私パンケーキ食べたいです!」


 自由人か。


「すいませーんっ! 注文追加いいですかぁ!」


 手をぶんぶん振り回して大声で有馬は騒ぐ。


 子どもが初めて遊園地に来たような騒ぎようだ。


 耳をふさぎたくなるような大音量だが、ウェイトレスがくる気配はない。


 こちらを向かず別テーブルを拭いている。


 有馬はうーっと頬を膨らませて悲しそうに眉を八の字に変える。


「味はストロベリーでいいかよ」


「いえ、このスペシャルホイップバトルロワイヤルをっ」


 僕が聞いた瞬間、目をキラキラさせてガッと身を乗り出し食い気味に答える。


 こいつは相当そのヤバそうな響きのパンケーキが食いたいらしい。


 ちょっとため息をつく。


 高そうだが、このくらいの出費も時にはいいかもしれない……。


「すいません」


 僕が小さめの声でちょっと手を上げて言えば、ウェイトレスはすぐに気付いて気だるげに僕のもとにやってきた。


「この、スペシャルホイップバトルロワイヤルのパンケーキを一つ」


 ウェイトレスはかしこまりました、と機械的に述べてすぐに掃けていく。


 僕だけを見て。


 有馬には見向きもせずに。


 有馬は少ししょんぼりしながら、僅かに残ったコーヒーに更に砂糖を加えだす。寂しさを埋めるように、大量の砂糖を。


「……本当に見えてないんだな、おまえのこと」


 ぼそりと呟く。


 彼女は「はい」と不満そうに頷いて砂糖コーヒーを口に運ぶ。


 流石に甘すぎたのか、うげーっと顔を歪めた。言わんこっちゃない。


「圷さんが特別なんですよ。私、もうすぐ死んじゃうみたいなんですから」


 信じられない事だ。


 でもこんな目立つメイド服の少女が、大声で騒いでも気付かなかったウェイトレスの姿を見ては信じざるを得ない。


「冥途のメイドというわけです」


 そういうことらしかった。

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