空の底

『空の底』


男は墜落し続けた。

時が落ちてゆく。

加速を感じたのは初めの一瞬だけで、その後は際限なく落ち続けた。

耳には単調な轟音。冷え切った肌はゴムのようだ。風が眼球を殴りつけ視界を奪う。

瞼を透ける明暗の移ろいに昼夜を教わる。身体が空気を掻き分け、雲を突き抜ける。

その感触が、空を落ち続けている状況を示していた。


ある瞬間、世界が水を打ったように静まり返った。

この環境に身体が慣れたのか、感覚が馬鹿になったのか。

あれほど喧しかった風切り音。目を潰す風圧。肌を冷やす冷気。何も感じない。

四肢を目いっぱい伸ばす。太陽の燦めきを浴びる。

身体を包む空の澄んだ青を透かし、頭上へ流れる薄濁りの雲を五指でなぜた。


それからは好きなだけ眠り、好きな時に目覚めた。

昼は彼方で光る白銀の山々を、夜は赤茶けた海のぬらぬらした輝きを眺めて過ごした。

雪雲を捕まえて氷粒で口を漱ぎ、雨粒を束ねて枕とし、また眠った。

気が遠くなるほどの歳月、そうして過ごした。

巨景の表情は幽玄で、一時たりとも飽くことはなかった。


ある日、遂に空の底へ到達した。

轟音を上げ、土煙と共に地面へ飛び散ったが、暫く後、立ち上がった。

周囲には赤みがかかった荒れ地と、薄灰色の空が広がっていた。


見慣れぬ土地だ。近くの奇妙な風体の男に「ここはどこだ」と尋ねた。

角と牙の生えたその赤い男はつまらなそうに『阿鼻だ』と答え、金棒を振り上げた。

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