プロローグ

 そうごんそうしよくに包まれたアルボスていこくきゆう殿でん内では新皇帝そくを祝してごううたげが開かれていた。他国の王族や大使、国内の貴族など、招待されたらいひんなごやかなふんかんだんしている。しかし、少女の悲鳴と液体のこぼれる音がとつぜん辺りにひびわたり、その平和な空気を一変させた。

 音を耳にした来賓たちがこうまなしを向けたたん、場は一気にこおりついた。何故なぜなら本日の主役、アルボス帝国皇帝・イザークの真っ白な正装にトマトジュースが零されていたからだ。

 さらさらとしたくろかみするどむらさきひとみりが深いせいかんな顔立ち。そのいかめしい雰囲気によって正装のみは返り血をほう彿ふつとさせ、より一層彼をきようあくなものに思わせた。

「申し訳ございませんっ!!」

 彼の正面には平謝りに謝る少女の姿があった。ほかの来賓たちのような美しいドレスやな装飾品はなく、身にまとっているのはシンプルな白の祭服で頭にはヴェール状のきんかぶっている。


(どうしよう。大変なことをしてしまった……!!)

 祭服に身を包む少女──シンシアは目の前の光景に顔を青くして身をふるわせていた。頭を下げれば手の中にあるグラスが視界に入る。少しだけ残っているトマトジュースを見ているとなんだかうらめしい気持ちになった。

 せめてリンゴジュースにしていれば。もとよりスカートのすそをうっかりんづけてつまずかなければこんなさんげきにはならなかった。

 こうかいしてもおそいことは分かっているがなげかずにはいられない。

 そもそも注意さんまんになってしまったのは目の前にいるイザークにきんちようしてつかれてしまったからだ。理由は分からないがこの宴の前に教会でり行われたたいかんしきの時からずっとにらまれていた。

(見た目からしてこわい方だし、戴冠式の聖女のいのりのとおよろこびのあいさつ以外は絶対近づかないようきよを取っていたのに……。どうしてこうなったの?)

 意味のない原因究明を頭の中でり返しているうちに、重みのある低い声が頭の上から降ってきた。

「大事ない。おもてを上げよ」

 こしを折るようにして頭を下げていたシンシアはその声にハッとする。イザークの声だ。

 シンシアはこれ以上そうのないようにと口を開いた。

「あ、ああありがとうございます!! 皇帝陛下」

 じようきようがさらに悪化した。

 きようのあまり声がうわり盛大にんでしまった。

(なんでかんじんなところでっ!! 嗚呼ああ、今ので収まっていたいかりがぶり返したらどうしよう!?)

 頭の中で延々とさけぶものの、みようあんは一つもかばない。できることと言えば早く時が過ぎるよう祈るだけだ。

 シンシアは震えるくちびるを引き結ぶとおそる恐る上体を起こし、せていた顔を上げる。

(だ、だいじよう。大事ないと陛下はおつしやったわ。皇帝ともなればきっとかんだいなお心で目をつぶってくださるはず。だから問題なんて絶対にな……)

 目前の顔が視界に入った途端、心臓が縮み上がった。

 イザークは射殺すような目つきでこちらをめつけていた。けんにはしわが深く刻まれて紫の瞳はけいけいと光り、シンシアから視線をらさない。

(ひいぃっ!! 怖い怖い怖い!! トマトジュース零したし、名前も噛んじゃったし。……私もしかして不敬罪に問われて殺される!?)

 シンシアは震えるこぶしにぎりしめ、かたんでイザークの反応を見守った。

 こちらに鋭い視線を向けるイザークが口を開く気配はない。睨まれるだけの時間が長く続き、やがて目を逸らした彼は周囲をぐるりと見て口を開く。

みなは引き続き宴を楽しんでくれ。いつたんえるために下がらせてもらう」

 それだけ告げるとイザークは側近二人を連れてシンシアの前を通り過ぎていった。

 後ろ姿をながめながらシンシアは首をかしげる。

 祝いの席だからのがしてくれたのだろうか。

 何のおとがめもなくて良かったとあんする一方で、イザークの恐ろしい顔が頭をよぎる。あれは次に何かしでかせば絶対に殺すと言っているような目つきだった。

 シンシアは自身をきしめるとぶるりと身体からだを震わせた。

(もう失敗なんてできないし、これ以上怖い思いはしたくない)

 今後イザークが出席する式典には絶対に出ない! とシンシアは心に決めたのだった。

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