第17話

女にぐいと腕を引っ張られて、志乃は素直に立ち上がった。そのまま土間に降りるので、一寸ばかりその場で踏ん張ると、女がこちらを振り返ってぐっと腕を引き寄せる。そのごたえのなさに志乃は驚く。弱いのだ。まるで子犬と綱引きをしている心地で、こちとら竹刀打ちで鍛えた腕に腰がある。その気になれば容易に引き倒せてしまえるはずだ。なのに、体はちっとも動かない。荒々しく土を踏み鳴らすそのの行き先に身を任せてしまおうとするのは、なぜなのか。

 芝居小屋へ行ってみたいと思ってしまうのは、どうしてなのか。

 いつの間にやら、志乃は女に手を引かれて、町中を早足で歩いている。普段の煮売り屋や紅屋へ遣いに行っている時とはわけが違う。いつもは店の軒下にできた陰に体を入れてひそひそと歩いていた。だが、この女に腕を取られて歩く道はなんだかまるで飛んでいるようで。

 燕弥と住む家がある木挽町、これにさかいちようふきちようを加えて芝居町とよび、芝居にかかわるものは全てこの中で見つかるという。江戸の三座も全てが芝居町の中で櫓を組んでいて、まあ、人心を惑わす悪者は一緒くたにまとめて押し込んでおけっていうお上のお触れなわけですよ、と頭の中の善吉が言う。役者もこの町にしか家を建てちゃあいけないんです。

 声を振り払おうと志乃が慌てて右を見れば、そこには構えの立派な茶屋がある。ああ、あれは芝居茶屋ですよ。金子を持ってるおだいじんたちが芝居を見るときには、茶屋に手配させるんです。芝居終わりにゃ茶屋で一服、その日観た役者をよんだりもできやしてね、とこれまた善吉。

 角を曲がったところでは羽織半天の男が紙を配っていて、志乃は思わず手にとった。大判のこいつはばんづけ。右に芝居の名題とその語り。芝居の一幕が描かれた絵の下にはご覧の通り、やくにんかえとの役者の配役が並んでおります。燕弥さんのお名前もほらここに。

 芝居小屋に辿り着くと、そのごうしやさに呆気あつけにとられて仰ぎ見た。本櫓の芝居小屋は三階建て。ですが、お上には二階建て、一階、中二階、二階の造りと申し上げております。なぜって三階建てはお上のお触れに反しますので。へへ、いいんですよう、お上もその普請で目をつむってんですから。一階には下っ端役者の大部屋がありまして、三階はがしらたちやくのお偉方。燕弥さんがいるのは二階ですよ。窓に向かってお手を振ったら、燕弥さんから見えるかも。

 ここら辺でようやく頭の中の志乃が現れる。何をされるがままに聞いているんです。さっさと耳を塞いでしまいなさい。善吉は目を開いて驚いて、子供のかんしやくを聞いたかのようにくすりと笑う。

 何を言ってんですか、御新造さん。おいらの芝居話をぜえんぶ頭の抽斗ひきだしにしまっていたのはあなたではないですか。一言一句欠けないように、きちんとしきに包んでいたじゃあないですか。いわく女に芝居町まで連れられてきたのを好機と見て、おいらから聞いた芝居話を周りの景色にぱちりぱちりと当てはめているんでしょう。どうです。芝居茶屋も番付も小屋も、おいらの話通りのものだったでしょう。

 でも、そんなことしていいんですか、御新造さん。あなた、武家の女じゃなくって、役者の女房になるおつもりですか。

「いいや、そいつは許されねえんですよ」

 突然聞こえてきた男の声に、志乃はびくりと肩を震わせた。気づけば、志乃は女とともに芝居小屋の正面に立っている。目の前に見える小さな入り口は、たしかねずみと言うのではなかったか。その鼠木戸横に備え付けられた番台には男が座り、上から二人に向かって苦笑いを浮かべている。このお人が入場の際に木戸札を集めるという木戸番で、とまたぱちりぱちりとやっている己の頰をぴちりと叩いた。その間に木戸番は女に向かって長いため息を吐く。

「何度も言っていやすが姉御ォ、芝居小屋は女人が入っちゃいけねえところなんです。小屋の中柱に貼ってある女人不可入はいるべからずの札は、その目でお確かめになったじゃありやせんか」

「夫の仕事場を妻が訪ねて、何が悪いってえの」

「俺っちに言われましてもねぇ」

 木戸番は腕を組み、うむうむと適当にうなってから「でも、まあ、なんです」片目でちらりと女を見やる。

「今日はうんと気持ちのいいお日和ですから、眠気がすぐ忍び寄ってきやすねえ。もう少ししたら、俺っちも船なんかいじまったりしちまいそうだ」

「こんのけちくさ

 低く吐き出し、女は番台の上へ巾着袋を置く。木戸番はにんまり笑みを浮かべた。そいつを己のたもとに入れて、ざくざくんだかと思ったら、

「おや、昨日降った雨のせいかな。あんまり良い音じゃないようで」

 ちいっと雷のような舌打ちのすぐ後に、金子が番台に叩きつけられる音が晴天の下、響き渡る。「いい音ぉ」と芝居めいた掛け声を寄せてから、木戸番は言う。

だん方は三階の稽古場ですぜ」

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