幻の十字キーを打て!(9)

 別斗はいまや放課後ルーティーンと化した、ヨークベニマル御美玉店のイートインコーナーでのセブンティーンアイスを堪能していた。もちろんチョイスはチョコミント。ミントの爽快さにチョコレートの甘さが加わった、軽妙な一品に舌鼓を打つ。夏の乾きを清涼な風が吹き抜けるがごとく、口中に草原の開放感をもたらす味わいを嗜みつつ外に目をやる。イートインコーナーとガラス一枚隔てた向こうは駐車場になっている。黄色いナンバープレートの軽自動車がせわしなく出入りしている光景を眺めていると、別斗は星野アスカの愛車を想起した。星野アスカと半日を共にしたあの日、彼女が乗ってきたシェルビーコブラ。本人の見た目から受けるイメージとは著しく乖離したアウトローな車体が、細身ながらもメリハリの利いたボディの彼女と妙に相俟って、とてもスタイリッシュに思えた。いや見た目だけではない。その言動や細かな仕草に至るまでが、とても洗練されているように思えるのだ。

 星野アスカは別斗にとって、単なる教師と生徒という関係だけで終わらせたくない期待があった。それはありきたりな恋愛感情などではけっしてなく、この若い年代では非常に珍しいくらいの、人生の深いところで結びつきがあるような、運命と呼んでも大げさではない因果を呼び起こす情動だった。

 思わず苦笑い。少しばかり願望が勝ちすぎているかもしれないな。真っ昼間のスーパーマーケットで顧みる思考じゃない。と、片隅で省みる別斗なのだった。


「さて、と」


 わざと口に出し、席を立つ。ポケットから折りたたみケータイを取り出し、小気味よくヒンジを鳴らして開閉させる。

 不毛な想像など無用である。星野アスカとの間には実に様々なしがらみが発生したが、所詮はまだ出合ったばかりの他人同士。この先、たとえ事情のもつれでこれまで以上に近接的な関係になるにしても、その逆に遠ざかるにしても、現状だけで判断できるほど決定的ななにかはまったくない。まして別斗にとって、彼女は〈敵〉なのだから。

 有機ELディスプレイの表示は、午後6時を少し過ぎた時間を記していた。ここに来るまでにラウールや陽キャどもとサッカーに興じていたため、いつものヨークベニマル御美玉店へ赴く時刻よりは遅めになっていた。理由はもちろん、時間つぶしである。

 別斗は生徒会の会議終了を待っていた。つまり、ソソミを待っていた。〈約束の日〉がきたのだ。

 電話が鳴った。云われたちょうどの時刻だった。別斗はさすがソソミだと感心し、ひと呼吸置いて受話器ボタンをプッシュする。


 ――車が到着したわ。迎えに行くけど、いつものところでいいのよね?


 別斗は〈お願いします〉とだけ答え、お馴染みのクライスラー・リムジンが現れるのを店の外にて待つ。

 風が冷たい。ここ数日、夏特有の崩れやすい天気のせいか、空は鈍色の厚い雲に覆われて陽の目を見られない。いまにも雨が降り出しそうな気配に、別斗は不安定な気持ちを上空に重ね、ひとつ息を吐く。

 3分後、リムジンが見えた。

 けっして広くはないヨークベニマル御美玉店の駐車場へするりと滑るように進入する天堂家の送迎車は、相変わらず住宅地の耳目を一心に受けるほど目立った。


「ごきげんよう。では参りましょうか」


 そんな車の後部窓からソソミが顔を出し、別斗を招き入れる。フレームの細い眼鏡をかけており、本日のソソミ嬢なにやら知的なニュアンスを醸しているご様子。

 失礼しますと乗車し、発進してしばらく経過してもソソミが一向に口を開かないので、手持ち無沙汰になった別斗はなんとはなしに、


「なに読んでるんすか?」


 向かいのソファシートに座るソソミの手元には文庫本が開かれていた。ソソミは静かに、実にゆったりとページをめくると、文庫本に視線を落としたまま、


「『ウッドストック行最終バス』よ。いよいよクライマックスってところだから目が離せないの」

「ミステリー小説っすか」

「ごめんなさい、わたくしは先が気になると一気に読まなければ気が済まなくって」

「いいっすよ、かえって貴重な時間を邪魔する格好になって申し訳ないっす」


 別斗はガラケーを取り出し、メールを開いた。


 ――今夜7時。ひだまりの郷にて待ってるわ


 この業務連絡のような簡素なメールを受信したのが、昼のことだった。本日、星野アスカは学校を欠勤している。昨日までは通常通り授業を行っていたが、別斗たちクラスを受け持つことがなかった。個人的に接する機会もなかった。そのため彼女の心境に触れることもできないままなのが気にかかったが、気にかけたところでもはやどうしようもないと思い直し、無理に星野アスカと接しようとは思わなかった。

 いずれは星野アスカと対戦する運命だったのだ。そのために御美玉中央高校へ教師になりすまして潜入したのだろうし、最初からすべてはこの日のために仕組まれたことなのだ。そこへ幾ばくかの感情が染み入ったとして、いったいなんの影響があろうか。どうあがいても対峙せざるを得ない関係から、逃れられる道理などありはしない。そんなのは無意味なことなのだ。

 ちらりとソソミを盗み見る。相変わらず文庫本に夢中になる彼女からは、なんのストレスも感じない。気負いや不安や焦りなど、戦いに向かう者が通常抱くであろうそれら感情をまったく感じさせぬ〈配慮〉に、別斗は感服した。できるだけいつものようにしてくれているソソミの佇まいが、とてもありがたかった。

 やがてリムジンは、隣町にある温泉施設『ひだまりの郷』の駐車場へと到着した。

 徐行で玄関の前まで近接する運転手の勅使河原てしがわらへ、


「ありがとうございます、ここでいいっすよ」


 ひと声かけてからソソミにも手を挙げる。ソソミは視線を合わせず、同じように無言で手を挙げて返す。一緒にはこない。それは前もって告げられていたことなので、いまさら動じない。かえって好都合だ。なにせ相手が相手なので、これからの自分の言動を想像すると、ソソミがいない方が別斗には望ましく思えた。

 激励らしい激励も受けず、別斗は『ひだまりの郷』のエントランスへ赴く。フロントではふくよかな女性店員が笑顔で出迎えてくれた。


「いらっしゃいませ。ようこそおいでくださいました」

「すみません、客じゃないんすよ。荒巻別斗って者なんすけど」


 別斗が名乗ると途端に険しい表情になる店員。どこかへ内線電話をかけ、


「こちらへどうぞ。ご案内いたします」


 と先を歩き出したので、云われるまま別斗はついて行く。

 行灯を模した通路を抜け、館内の奥へ。明らかに風呂場はないだろう方向へと進んでいく丸い背中に、徐々に緊張感が増していく。ここへ来る以上に気を引きしめる別斗。

 やがて、地下へと続く階段が見えてきた。


「この先でお待ちしておりますので」


 どうやら案内はここまでらしい。女性店員は恭しく頭を下げ、廊下を引き返していった。

 さて。ひとり残された別斗、軽く呼吸を整え、階段を降りる。その先、重そうな金属の扉があって、目の高さに『Club Q』と印字されたアクリル製のネームプレートが取りつけてあった。あまりにお誂え向きな光景に思わず口もとが緩む。気取りすぎて似合いもしねえ。胸の内でツッコミつつ、自分が案外冷静なことに安堵する。

 よし、いくか。

 ノックはせず、別斗は扉に手をかけた

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