幻の十字キーを打て!(2)

 その日の県立御美玉中央高校おみたまちゅうおうこうこうはいつもと違い、どこか浮ついたような、云うなればクリスマスや正月前の〈待ちきれない逸る気持ち〉に似た空気が充満していた。

 朝のホームルームにて担任教師から告げられた驚きの事実に、にわか教室はざわめき立ち。続けて、呼ばれて教室に現れた人物に衆目は語らずとも合致、特に男子の反応たるや煩悶とする健全なる精神を〈狙撃〉され、正鵠ならぬ〈性コク〉を射貫かれて歓喜の雄叫び。つまり件の人物、新しく赴任してきた教師だったのだが、これが見目麗しい美貌の女性だったものだから、その騒ぎはヒトシオだった。例えるなら人気女優か押しも押されぬアイドルか、なんにせよこの地方都市ではちょっとやそっとじゃお目にかかれない傾城なルックスに、たちまち学校中を駆け巡るビッグニュースになったのは云うまでもなく。

 しかし、なにより別斗を驚愕たらしめたのは、


「はじめまして。今日から副担任として赴任しました。星野アスカです。みなさん、よろしくお願いします」


 すなわち、新任教師は昨日ゲームセンターで出合ったあの女性だったのである。


「あら? 君は昨日の。まさかこの高校の生徒だったなんて。しかも私が担当することになったクラスの……。偶然って怖いわね」


 別斗の存在に気づいた新任教師・星野アスカの思いがけない発言に、クラス中の生徒が一斉に別斗へ視線を投げる。


「あ、いや。おれもビックリっす。まさかおねえさんが教師で、この学校に赴任してくるなんて」


 おい別斗、昨日なにがあったんだ、説明しろ。教室は驚きと好奇心が入り交じった喧々囂々の様相だった。


「じゃあ、またあとで私の授業でね」


 星野アスカがにこやかに去り、教室に残るは思春期のざわめきだけ。


「おい、別斗。こんな偶然があるか? いやない! こんなエロ漫画みたいなパターン、寝る前の妄想くらいしかあり得ないぞ!」


 よもやよもやだ。ホームルームが終わると、さっそくイスから飛んできた大興奮のあすくが飛沫もろとも口走る。


「気をつけろよ。こんなにラッキーなことが立て続けに起きるなんて、あとあと反動が怖いからな」

「大げさだな。昨日出合った人物が転校生だったとか、遅刻しそうになって走ってて曲がり角でぶつかった相手がパンくわえた美少女だったとか、よくあることじゃねえか」

「まだそういうこと云うのか、おまえは」


 やいのやいの、なんだかんだで嬉しそうにプロレスおっぱじめる別斗とあすく。その後ろから、隣のクラスのイケメン男子・ラウール権左衛門ごんざえもんも参戦してきて、


「おい別斗、聞いたぞ聞いたぞ。新任の副担任がマジ超やべーんだって?」


 首にガッと腕を絡められて、ちょっとウザったそうに振り返る別斗とあすく。


「耳が早えな権左衛門。誰に聞いたんだよ?」

「もうすでに学年中のウワサになってるぜ。グラビアアイドルも真っ青のグッド・ルッキング・パイパイの美人教師がやってきたってな。しかも、なにやらおまえの知り合いとか云うじゃねえか」

「知り合いってほどじゃねえよ。昨日ゲーセンで出合っただけだ」

「天堂先輩とつるんでるだけでも大罪なのに、美人教師とまでデレデレ仲良くされたんじゃあ、そんときゃおまえとの縁もこれまでだな」

「おまえとの縁なんかあってねえようなもんだからな。ま、おれは普通に女の子を取るわ」


 てめえこのやろー。ラウールが得意のヘッドロックで別斗のこめかみにウメボシ(拳でグリグリ)を決める。

 そんな悪ふざけをする一団に、ひとりの男子が静かな足取りでやってきた。


「君たち、学校で不埒な言動は慎みたまえ。風紀が乱れる」

「お、なんだよジャック。そんなことを告げにわざわざ隣のクラスからすっ飛んできたのか?」


 訝しむような目で睨めつけるラウール。その視線の先には、勝手に風紀委員を立ちあげて制服に腕章を結いつけた痩せ型の男子。『ジャック』こと、名を雲雀うんじゃくスグルといった。


「そうやってクールにしてっけど、おまえだって興味あんだろ? パイパイの魔力にゃ抗えないはずだ」


 中指で眼鏡を押し上げ、反射光をキラつかせた雲雀。ダイソーのあすくとは違い、彼の眼鏡は眼鏡市場である。一見すると本気か厨二かわからないキャラだったが、風紀委員の立ち上げを職員に直訴するあたり、邪気を患っているのは確かだろう。

 その雲雀、ラウールの前に一歩踏み込むと、


「忠告したはずだよ。風紀を乱すような言動を控えろと。狩るよ?」


 お決まりの台詞を決め、クールに立ち去る。


「なんだあ、あいつ。なにしに来たんだ?」


 雲雀の一連の謎行動に首をひねるラウールだったが、実はこのとき雲雀は勃起していた。彼は下ネタに敏感なので、ちょっとしたエロワードでも興奮してしまうのだ。


「あの〈万年ゲンドウスタイル〉と云われるジャックですら黙ってはいられないほどの椿事。別斗、今後はしれーっと星野先生との関係を進めるなんてことはできないな」

「そうだぜ別斗。万が一にも内緒で発展なんかしてみろ。オミチューすべての男子から袋叩きに遭うぜ。だから、もしなにかあったらみんなに正直に話せよ」


 詰め寄るあすくとラウールに、まんざらでもない別斗は憎いくらいドヤ顔で、


「やだね。なんでおれのプライベートをおまえらみてえなエロハイエナの眼前に晒さなきゃなんねえんだ」

「まあ、別斗に限って発展するなんてこたあねえだろうがな」

「お? 権左衛門くん、負け惜しみですか?」

「云ってろ」

「勝てんぜ、おれには」


 ふたたびラウールのヘッドロックを食らう別斗だった。

 そんなアニメを主成分としたような定型的な男子式じゃれあいを飽きもせず披露する3人の前に、ジャレ子がやってきて、


「やだね~男子って。勝手に妄想おっぱじめて、頭ん中でエロいこと考えてんでしょ~? 別斗があの先生に相手されるわけないじゃん。バカみたい」

「んだよジャレ子。妄想は男の甲斐性だろうが。邪魔すんな」

「そんなこと云っていいのかな~? いいもん、ソソミ先輩に云っちゃお」

「ああ? なんでソソミ先輩が出てくんだよ。関係ねえだろ」


 ジャレ子は9割本気だったが、ラウールはまたいつもの別斗とジャレ子のデキ漫才だと見たらしく、


「はいはい、さすがモテ期の別斗くんだ。天堂先輩に雨瀬にやべー先生に。おまけに年の離れた美人のねえちゃんと暮らしてんだっけ? こりゃマジで勝てんわ」


 お手上げだというジェスチャーとともに、呆れた様子で退散していった。

 当然だが、別斗は本気でラウールに勝ったとは思っていない。どう見てもラウールの方がイケメンだし、実際女子の人気は圧倒的に高い。しかし昨日の今日で自分にも風が向きはじめたかのような体験をすると、テンションが上がってしまうのは素直な反応だろう。

 別斗は赤外線で交換したケータイのアドレスをそっと盗み見、すべてが現実に起きたことなのを確認してほくそ笑む。

 ひょっとして、ひょっとするかもしれない。そう期待せずにはいられず、意味深なニヤけ面を晒さずにはおれないのだった。

 そして、この〈青天の霹靂〉はまだまだ続く。

 運命の6時間目。

 昼食後のアンニュイな時間帯にあっても、クラス全員がランランとした眼で黒板と対峙できているのは、ひとえに星野アスカの功績に他ならない。


「え~、柱頭に花粉が着生することを受粉と云います。ようするにおしべとめしべという種子植物の生殖器官が――」


 初の授業。なんと彼女の担当教科は保健体育なのである。

 星野先生の熱心な教育は生徒を積極的にさせ、教室は模範的な授業風景といった雰囲気のやる気と前のめりな姿勢でもって進行している。

 その証拠に、


「今日の授業はここまでです」


 チャイムが鳴り、緊張の解けた空気にあっても愛ある指導の余韻にたゆたい、すぐに起立ができない男子諸君なのだった。

 さておき、授業後に珍しく居眠りをしなかった別斗のもとへ、その男子惑わす先生やってきて、


「荒巻くん、放課後ちょっと私の所に来てもらってもいい?」

「え、なんすか?」

「ほら、昨日云ってたじゃない? 次に会ったときは私にふさわしいところに案内するって」

「また急ですね」

「困る?」

「いえ、おれは大丈夫っすけど。新任教師って立場なら帰宅時間めっちゃ遅いんじゃないっすか?」

「そこはなんとかなるでしょ。ね、どう?」

「わかりました。じゃあ終わったらショートメール送ってください」


 星野アスカがキラキラした笑顔で去ると、一連のやりとりを目前にした男子生徒たちが別斗を取り囲み、本日何度目かのどんちき騒ぎ。委員長的ポジに個性を見出した女子などは遠巻きに冷ややかな視線を送る始末で、懲りない男子諸君を上から目線で両手を広げていた。


「これもうアレだろ、女教師もののエロ動画だろ!」


 中でも一番うるさいあすく、口をねじりながら卑猥なことをほざく。


「きたねえなあ、あんまり唾を飛ばすなよ」

「ああ、悪い。つい興奮しちまって。だって、まるでおじさんが見せてくれたエロ動画の4分27秒あたりの展開みたいだ」

「へへっ、わりーな、あすく。この動画、出演者は2人なんだ」

「かーっ、皮肉も云うようになっちゃったってばよ」

「んじゃあな。おれはヨークベニマルのフードコートでまったり、星野先生からの連絡を待つとするぜ」


 颯爽とイケメン気取りで、妬み渦巻く教室を去っていく別斗。


「くそ、あいつが……別斗がぼくより先に『男』になってしまう……」


 伊達眼鏡を激しくクイクイし、先走った歯ぎしりをするあすくなのだった。

 さて。

 教室から一等最初に別斗がいなくなると、興奮冷めやらぬクラスはなんのかんのとささやきはじめ。この〈青天の霹靂〉の顛末はいかなるものぞと推理予想をおっぱじめる最中。嫉妬と妄想に凝り固まったあすくにひけを取らない情念を燃やす女子がひとり……。

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