第14話 綻び

 数日後の夕方、ハーフィドは大通りの喧騒の中で、暗殺対象である男の背中を追っていた。

 ベイルートはキリスト教徒が多いため、年末の街はクリスマスムードがあって楽しげな雰囲気である。


(これだけ人が多い場所にいるうちはばれることはないだろうけど、このままじゃ殺せないな)


 殺すタイミングをうかがいながらの尾行であるので、ハーフィドは緊張して歩いた。距離は適度に離れていたが、それでも少しは不安になる。


 男は写真と同じように、紺色のスーツを着て髪を後ろに撫でつけていた。

 諜報員であるとあらかじめ知っていなければ、ただのビジネスマンにしか見えない。


 大通りをある程度歩いたところで、男は横道にそれた。ハーフィドも距離を保ったまま、同じように曲がった。大通りを外れたとはいえ、まだ通行人も少なくはない道である。

 しかし男が裏道を進み続けると、次第に人気が少ない場所へと変わっていった。気付けば、周りには誰もいなくなっている。


(まさか、尾行がばれている?)

 そう思ったところで、男が振り返った。

 ハーフィドは銃を抜いたが、それよりも早く男が口を開く。


「殺し屋、お前は騙されているぞ」

 ごく何気ない声で、男はハーフィドに話しかけた。男は銃を手にして優位に立っているはずのハーフィドよりもずっと落ち着いていた。

「……命乞いのつもりか」

 銃を突きつけたまま、ハーフィドは尋ねた。このまま引き金を引いてしまえばそれで終わるのだが、自分が騙されているという男の言葉が気になってできない。


 男は薄笑いを浮かべ、さらに話しかけた。


「確かにお前に殺されないために話しているわけだが、嘘ではない。あのラティーファって女の話だ。あいつはお前たちの情報屋である以前に、我々の協力者だ」

「協力者……?」


 突然の、しかし信じられないわけではない情報にハーフィドは思わず聞き返した。

 男はじりじりとハーフィドとの距離を詰めながら、説明を続けた。


「そうだ。ラティーファがお前たちに与えた情報の中には正しいものもあるが、我々のために流したかく乱のための嘘もある。お前はあの女のせいで、殺さなくていい人間まで殺しているんだよ」


 それは、ハーフィドを混乱させるための嘘かもしれなかった。ラティーファを信じるなら、そう考えるべきだとハーフィドは思った。

 だが直感が、それが真実だと言っているような気がした。


(ラティーファが二重スパイなわけ……いやでも……)


 茫然として、ハーフィドは立ち尽くした。裏路地の景色も男も、遠くかすんだような心地になる。


「その反応を見ると、お前も心当たりがないわけではないようだな……っと!」

 ハーフィドが話に気を取られている隙をつき、男は蹴りを繰り出した。

「うっ……?」

 防御姿勢を取り損ねたハーフィドは腹に蹴りをまともにくらい、地面に膝をついた。


 男はその好機を見逃さなかった。そのままハーフィドに再度重い蹴りを加え、男はすぐさま走り出す。

 二度も腹を蹴られたハーフィドは、痛みに耐えられずにうずくまった。


「っ……。ま、待て……!」

 それでもハーフィドはできるだけすぐに体を起こして追おうとした。


 だが時はすでに遅く、男はもうどこか違う道へ行ってしまっていた。男はハーフィドを殺すのではなく、ラティーファを見捨ててハーフィドを迷わせることで始末をつけた。


「ラティーファに……会わないと……」


 何とか立ち上がり、ハーフィドはずるずると歩き出した。

 派手にやられた気がするだけで、痛みは冷静になればそうたいしたことはなかった。だがラティーファが裏切っているかもしれないという男の言葉は、ハーフィドにとってひどく手痛い攻撃だった。何よりも、その言葉を信じてしまっている自分がいることがつらい。


(ラティーファは俺とは違うものを見ている。だけど……)


 ハーフィドの脳裏に、都会への夢に目を輝かせているラティーファの姿が浮かぶ。自らの欲望を満たすために故郷を捨てて情報屋になったラティーファだから、金銭のために二重スパイになることは十分ありえることだった。


 しかしそれでも、ハーフィドはラティーファにも多少なりとは良心があると思いたかった。例え裏切っているとしても、負い目か何かを感じていてほしいと願った。

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