#2「大王の仏教信仰、是か非か」

Ep.06 厩戸皇子の提案

 祭りでお倒れになった大王・橘豊日尊たちばなのとよひのみこと(48)は、いま大殿の寝室で横になっている。額から出た大量の汗は、頬を伝って床へとしたたり落ちていた。


 大王の息子・厩戸皇子うまやどのおうじ(13)は父の横に座って、手に持っていた小さな布で汗を拭きとっていた。


 大臣・蘇我馬子そがのうまこ(36)と大連・物部守屋もののべのもりや(37)は少し離れたところに座って、大王と厩戸皇子の様子を見ていた。その後ろには、朝廷に勤める豪族の一人・葛城烏那羅かつらぎのおなら(41)の姿もあった。


 葛城烏那羅は、馬子と守屋の耳元に近寄って小声で話し出した。

「大王は、最近どうも疲れがたまっておられたようです」

馬子は納得した様子で言う。

「それでお倒れになったわけか」

「はい、そのようです」




 厩戸皇子が大王の汗を拭いていると、大王の手がピクリと動き出した。

「父上!」

厩戸皇子がそう呼びかけると、大王は苦しそうにしながら、ゆっくりと目を開けた。意識はもうろうとしているが、わずかな力を振り絞って何かを話そうとしていた。


 馬子と守屋は大王の御言葉を聞き逃すまいと、急いで大王のもとへ駆け寄った。


馬子は大王に問いかける。

「なんでございますか」

守屋も馬子に続いて尋ねた。

「どうされましたか」


 大王は口元を小さく開き、かすかな声で話し出す。

「朕は……仏教を……」


 馬子と守屋は目を見開いた。大王から仏教という言葉が出てきたことに衝撃を受けたのだ。馬子は続きを尋ねた。

「仏教を……なんですか」


 大王ははっきりと言った。

「信仰したい」

大王の思わぬ発言に、守屋は動揺して声が出てしまう。

「はあ⁉」


 馬子は満面の笑みをして大きな声で、

「ははあぁっ!かしこまりました!」

と答え、急いで部屋を出た。守屋は慌てて後を追った。


* * *


 大王の暮らす大殿の庭には、大王の体調を心配する群臣が何十人も集まっていた。新嘗祭で使うはずだった料理は放置され、焚火は燃え続けている。


 大殿から馬子と守屋が出てくると、群臣は大王の様子を知るべくたちまち二人のもとへ集まった。群臣の先頭には、豪族の坂本糠手さかもとのあらて(45)、大伴咋おおとものくい(39)、中臣勝海なかとみのかつみ(44)らが立っていた。


 坂本糠手はニヤニヤしながら話し出す。

「大王のご様子はいかがでしたか?」

一方、大伴咋は声を震わせながら尋ねる。

「ご回復なされたましたか」


 馬子は、その場にいる群臣を見渡しながら大声で話した。

「大王は、仏教を信仰したいと仰せられた」


 衝撃の内容を聞いて、群臣はざわめきだした。動揺のあまり、中臣勝海は叫びだす。

「大王が仏教を信仰するなんて、絶対にあってはならない!」


 守屋は冷静に、しかし皆に聞こえるよう大声で言う。

「皆の者、落ち着け」

群臣は守屋の話を聞こうとして静まり返った。守屋は落ち着いて話を続ける。

「この国の自然には古くから八百万の神が宿っておられる。その神々を差し置いて、西国の神を崇拝するなど言語道断。ましてや、大王が仏を拝むなど理解不能だ」


 馬子は眉間にしわを寄せ、鋭い目つきで守屋を見ながら述べる。

「では、そなたは大王の御意向に逆らうのだな」

守屋は語気を強めて言う。

「大王には考え直していただく。今まで仏教を信仰して良いことが起きたためしがないからな」

「なに⁉」


 馬子と守屋の応酬は、まわりの群臣を刺激した。仏教信仰をするべきだと言う崇仏派の群臣と、信仰に反対する廃仏派の群臣で罵り合いが始まったのである。


 大殿の庭に放置された焚火は、漆黒の夜空のもとでますます燃え盛った。




 しばらくして、大殿から厩戸皇子と葛城烏那羅が現れた。群臣は二人が来たことに気づかないくらい、罵り合いに没頭していた。


 葛城烏那羅は前に出て群臣を注意した。

「そなたら、うるさいぞ」

その光景は、まるで大人が子どもを𠮟りつけるようであった。

 群臣は驚いた様子で葛城烏那羅を見つめた。葛城烏那羅は続けて述べる。

「大王はお疲れなのです。そなたらが大声で騒いでいては、大王はゆっくりお休みできないではないか」

葛城烏那羅は、馬子や守屋にも注意を促した。

「大臣、大連。今日はもうお帰りください」

馬子と守屋はお互いに顔を合わせ、自分たちの行動を反省したのか、黙り込んでしまった。


 葛城烏那羅の後ろに立っていた厩戸皇子は、ゆっくりと馬子と守屋に近づいて話し始めた。

「父上が仏教を信仰してもよいか、もめているようだな」

守屋は即答し、自分の主張を述べる。

「ええ。国の主が異国の神を信仰するというのは本当に良いことなのか、皆で話し合っていたところです」

「ならば、父上の御兄弟姉妹のお考えを取り入れてみてはいかがだろうか。大王の仏教信仰が是か否かその方々から意見を賜り、多かった方の意見を採用する」


 馬子は眉間にしわを寄せて嫌そうな顔をした。明らかに厩戸皇子の提案が気に入らない様子だった。だが他の豪族たちは、馬子の態度など気にせずに厩戸皇子の提案に同調する。

 坂本糠手はニヤニヤしながら、拍手をし始めた。

「素晴らしい!名案だ!」

それに乗じて、群臣も「おお!」と感心して拍手した。


 坂本糠手は大声で言う。

「確認ですが、大王の御兄弟というのは、妹の額田部皇女、義兄弟の穴穂部皇子と泊瀬部皇子」

大伴咋がおどおどしながら、小声で付け加える。

「厳密に言えば、厩戸様のお母上も大王の義妹ですね」

馬子は険しい表情をして厩戸皇子に問いかける。

「その四人の方々から、ご意見を賜ればよいのですね」

「そうです」

厩戸皇子は優しく答えた。


 ここで中臣勝海が甲高い声で指摘する。

「御兄弟四人の意見が半分に割れてしまったときは、いかがなさるおつもりですか」

葛城烏那羅は、中臣勝海を論破するかのように素早く答える。

「それを防ぐためにも、もうお一方からご意見を賜りましょう」

守屋は動揺することなく、落ち着いて質問する。

「どなたを加えるのだ」

葛城烏那羅は厩戸皇子を見ながら答える。

「水派宮にいらっしゃる、押坂彦人大兄皇子はいかがでしょう、皇子?」

厩戸皇子は深くうなずいて言う。

「そうしよう」


 険しい顔をしている馬子を見ながら、守屋は堂々と言い放つ。

「面白いことになったなあ。大臣」

「ああ……」

馬子は苦しそうに答えた。



 葛城烏那羅は大声で群臣に言う。

「では皆様、今日はもう帰ってゆっくりお休みください」


 大殿の前に集まっていた群臣は解散し、祭りで使うはずだった焚火の炎は消し止められた。4月2日・新嘗祭、激動の一日は終わった。

 だがそれと同時に、馬子と守屋の闘争心に火がついた。王家を巻き込んだ勢力争いの幕開けである。


(つづく)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る