第8話 帰り道



—ゆかりside—



仕事がやっと片付いたのは、22時のことだった。

日付が変わる前に帰れるのだから、今日は頑張った方だと思う。



どうせ今日は帰っても一人だ。

いや、それは一人暮らしだから当然そうなのだけど。


幸せな金曜の夜は時々、彼が合鍵でウチに遊びに来て迎えてくれて、そのまま週末になだれ込んでいたことを思い出す。


しかし、そんな可能性は、昨日合鍵を返された時点でゼロになったのだと気付き、私はまた寂しくなった。




地下鉄の窓に映る私は、死んだ魚の目をしていた。




改札を抜け、近くのコンビニでビールとおつまみを買い、トボトボと家路を歩く。


今日はイレギュラーなことばかり起きて、心が疲れた。



交際1年記念日に彼氏にフラれる。

年下の男子に介抱される。

その子の名前には覚えがある。まさかとは思うけど。

うっかり家事代行を申し込む。冗談だと誤魔化したけど。



あまりに変なことばかり起こるので、もしかしたらずっと長い夢を見ているんじゃないかと思い、頬をつねる。



「痛っ」



夢ならばどれほどよかったでしょう。




などとひとり遊びをしているうちにアパート前の交差点に着く。

ふと見ると、301号室の電気がついていた。


私、今日急いでたから部屋出る時に電気消し忘れたんだなー。




その灯りが、奇妙だけど暖かい新しい暮らしの光だとは、その時の私は気づかなかった。




階段を登り、301号室の鍵を開ける。


「お帰りなさい。」


出かける前に仕事の資料を探しているうちに荒れたはずの部屋は綺麗に片付き、キッチンには翔太が立っていた・・・。


「え?」


「勝手にすみません。家事代行、やってみました。」


やはりこれは、彼氏にフラれ、仕事に忙殺された寂しい女が見た夢なのかもしれない。そう疑うほどの突飛な状況が目の前にあった。


戸惑う私を見て、翔太が口を開く。


「あ、あの、鍵を返し忘れていたので、返すついでに夕食の用意でもと思いまして。怪しいものではないので、警察とかは呼ばないでいただけると・・・」


急に私以上に焦り始める翔太が可笑しくて、少し冷静になれた。


「いやいや、呼ばないよ。今朝も助けてもらったし。そっか、合鍵ね。そういえば忘れてたね。」




—翔太side—


22時30分。

いい加減に301号室にも慣れ始めた僕は、間取りが同じということもあいまって、お菓子を食べながらスマホで動画を見て、自分の部屋のようにくつろいでいた。


調子に乗って買った海老を消費するべく、ルーのパックに乗っているレシピをだいぶ無視して作った特製エビカレーを美味しく平らげ、とても気分がいい。ゆかりさんが帰ってきたら温めて食べてもらおう。


鍵が開く音がした。

キッチンに戻り、コンロを点火して鍋に火をかける。



「お帰りなさい。」


ゆかりさんは、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。


「え?」


「勝手にすみません。家事代行、やってみました。」


ゆかりさんの戸惑う顔を見て、この状況の異常さに気づいた僕は、慌てて経緯を説明する。


「あ、あの、鍵を返し忘れていたので、返すついでに夕食の用意でもと思いまして。怪しいものではないので、警察とかは呼ばないでいただけると・・・」


「いやいや、呼ばないよ。今朝も助けてもらったし。そっか、合鍵ね。そういえば忘れてたね。」


よかった。ほっと胸を撫で下ろす。


「えーっと、夕飯はもう食べましたか?」

「まだ。コンビニでお酒とおつまみを買っただけ。」

「とりあえず、特製エビカレーがあるんですけど、食べますか?」

「うん!食べる!」


ゆかりさんの顔がパッと明るくなる。



それだけで僕の心は跳ねた。


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