第21話

 今夜父が帰ってきたら、母はすぐに旅行の話をするのだろうか。父はそれを聞いてどうするのだろう。ふん、と鼻を鳴らして、あいつも良い御身分だな、なんて言うのだろうか。話を聞いた父が部屋にやってきて、旅行する余裕があるならさっさと働いたらどうだ、と言われてしまうかもしれない。


 浩司はうつ伏せでベッドに寝転がり、視界を遮断した。


 自分がかわいそうだとは思わない。クレーマーの処理を一人きりで抱え込んだ挙句精神病にかかる、友人を失いたくないために金をたかられても文句が言えない、父親には見放されている――これは全て、どうしようもない自分の選択の結果だ。


 本当にかわいそうなのは、ニュースで見たマンション火災の犠牲者だ。突然に命を落としてしまった彼らは、人生の先にあるはずの幸せを得る機会を失ってしまった。代わりに手に入ったのは、理不尽な死という不幸だ。


 浩司の心は深く沈みこんだ。底なし沼のような思考から這い上がれない。こうした時に脳裏に過ぎるのは、死は救済なのではないかという思考だった。ここから消えてしまえば、自分の過去を振り返ることも、今抱えているしがらみからも解放されるような気がする。


 自分の思考が負の循環をし始めたことに気がついたのと同時に、部屋の空気が一瞬で変わった。


 化け物か、自分の想像か分からない、あの気配が現れたのが分かった。ベッドに顔を伏せたまま浩司は、身動きを取ることができなくなくなる。


 気配は突然ベッドの脇に現れ、天井付近から自分を見下ろしているというのが、浩司の視界に映ってはいないのに分かる。図書館の時はもっと高いところから視線を感じたはずだから、顔の高さを変えることができるのか、と緊張と恐怖の中で冷静に分析した。


 瞬きも呼吸も上手くすることができなかったが、不思議と鼓動はいつもより安静を保っている。もしかしたら、この気配に見つめられている時間の方が、他の時間よりは幾分かましだと思い、安心感を覚えているのかもしれない。汗がうなじを流れるのを感じた時、急に身体が軽くなった。それで、浩司は気配が消え去ったのを知る。


 うつ伏せのまま、一気に息を吸い込んだ。ゆっくりと身体の向きを変えるが、部屋には何も変わったものはいない。先ほど吸い込んだ空気は、ため息となって抜けて出ていった。


 あの気配は恐怖でしかなかったが、今回は希死念慮から救ってもらった気がする。浩司はもう一度部屋の四隅を見て何もいないことを確認した後、身体を起こし、のろのろと旅行支度をし始めた。





「旅行だなんて、やっぱり甘えじゃないのか」


 耳元で父の声が聞こえた気がして、浩司は目を覚ました。家を出る時に、自室から顔を出した父に言われた言葉だった。部屋の中からは音楽が聞こえていたが、何が流れていたのかは分からない。


 浩司は車の後部座席に座っていた。乗っている白い軽ワゴンは山道をもろともせずに進む。まだはっきりしない思考のまま窓の外に視線を向けると、ざわめく青々とした木々が見えた。


「お目覚めですか? もう少しで着きますからね」


 運転席の老婆、川端ヨエが声量を落として浩司に話しかけた。浩司の隣に座っている蓮人はまだ夢の中にいるらしく、時折口元がもごもごと動いている。彼を起こさないように配慮しているのだろう。


「すみません、寝てしまっていたようで」


「いえいえ、お疲れでしょうから。到着するまで、ごゆっくりどうぞ」


 浩司は座席に深く腰掛け、窓の外を流れる景色を眺める。視界は山の風景を捉えていたが、思考はここまでの記憶をたどっている。


 約束していた時間に蓮人は駅に現れた。あらかじめ買っておいた切符を浩司が手渡すと、悪いね、といつもの笑顔で蓮人が受け取ったのを覚えている。


 電車に揺られて下芦駅に着いたのは十五時四十分くらいだったろうか。駅舎から出ると、川端ヨエという品の良さそうな老婆に声をかけられた。そして、かすみの家の管理人だという彼女の運転で、『泊まると幸せになれる家』に向かっている最中だった。


 電話をくれたのはイバラと名乗る男性だったが、ヨエは現地管理人という役目なのだろうか。カーブの多い山道を慣れた手つきで運転している様子から、地元住民なのかもしれないと推測する。


 フロントガラスの先に二又の道が見えた。車は直進するように左の道を進む。通り過ぎる際に右折の先を確認すると、コンクリートの橋がかかっているのが見えた。元からそういう色なのか、それとも下地の錆止め塗料が見えてしまっているのか、橋はくすんだ赤色をしていた。その橋もすぐに他の景色と同様、後ろに流れて行ってしまう。


 軽ワゴンは川に沿うように走り続けていたが、しばらくすると木々の中を抜けた。道路の舗装が終わり、ガタガタとした砂利道を進む振動が座面から伝わってくる。


 浩司が運転席越しに前方を確認すると、開けた視界の先には草原が広がっていた。その先の奥まったところに、木塀で囲まれた急勾配の茅葺屋根があるのが目につく。


 砂利道は塀の前で途切れていて、ここが目的の場所であることを浩司は理解した。三人を乗せた車は速度を落とし、やがて木塀の脇で緩やかに停車した。


「長旅ご苦労様でした。着きましたよ」


 ヨエが運転席から振り返り、目を細めて浩司に到着を告げた。隣の蓮人がまだ寝ているのに浩司は気づき、慌てて揺すり起こす。


「着いたー?」


 大きな欠伸をしながら、蓮人は呑気な声を出す。


「今、着いたところだよ。運転ありがとうございます」


 浩司は小さく頭を下げる。蓮人は未だに夢から覚めきっていないようで、目を擦りながら再び欠伸をしていた。


「いえいえ、それでは参りましょうか」


 ヨエが運転席から降りるのを見て、蓮人と浩司は順に後部座席から降りた。遠くに川のせせらぎを感じる草原は涼しく、少し湿度が高い。足元には青々とした草が一面に生えており、足を踏み出すとどこかでバッタが跳ねた。


 浩司は自身の身長よりも高い木塀に目をやった。隙間なく灰白色の板が貼り付けられた塀からは、中の様子を窺うことはできない。少し腰の曲がったヨエの後に続いて塀沿いを歩いていくと、観音開きの扉があるのに気がついた。


 ヨエは自分の背よりも大きな扉を慣れた手つきで開ける。扉の脇に立ったヨエの右手が中に入るよう促しているのに気づいて、浩司は遠慮がちに門の中へ足を踏み入れた。


 目の前に、厚みのある茅葺き屋根の民家がどっしりと構えていた。思わず歩みを止め、立派な屋根、庭に咲く百日紅さるすべりの低木、開け放たれた雨戸の先に見える縁側に目を移す。


 すげえ、映画みたい、という蓮人の声が後ろから聞こえた。彼も同じように目の前の古民家に圧倒されているようだった。


「すごいですね、いつぐらいの建物なんですか?」


 浩司は扉を閉めているヨエに思わず問いかける。浩司の隣までやってきたヨエは後ろ手を組んで、目を細めて民家を眺めた。


「何度も修繕している建物ですからねえ。詳しい年は分からないですが、明治頃にはあったはずですよ」


 茅葺は数十年に一度葺き替えなければいけないという話を聞いたことがあった。それに外壁や内部も建設当時のものがそのまま残っているとは考えづらい。いつ頃の建物かという質問は適切ではなかったのかもしれない、と浩司は少し反省する。


 隣に立っていたはずのヨエは、いつの間にか磨りガラスの引き戸がある入り口まで移動していた。戸が開けられると、その奥に広い板の間が見えた。


「どうぞどうぞ、中の方が涼しいですから」


 気温はそこまで高いわけでもなかったのに、ヨエの声で浩司も蓮人も吸い込まれるようにかすみの家へ入っていった。


 広い三和土の向こうに板の間が広がっている。右手に顔を向けると、二間の畳の部屋と庭に面した縁側が見える。襖も雨戸も開けられているため、風通しが良く、外からは名も知らぬ山鳥の声がする。


 浩司は頭上に視線を移した。板の間の数メートル上方は、立派な梁など屋根の骨組みがむき出しになっており、その奥の暗い場所に茅葺屋根の内側が見える。天井がないのは板の間の上部だけで、家屋の右側、和室の上には天井が設けられていた。浩司は現代の建築技術とは違う、古き時代の建築に圧倒されていた。


 いつまでも玄関に突っ立って、きょろきょろと辺りを見回す浩司を待てなくなった蓮人が肘で突く。それでようやく浩司は我に返り、靴を脱ぎ始めた。板の間ではヨエがにこにこしながらその様子を見守っている。


 板の間に上がった浩司と蓮人は、まず家の中を一通り案内された。板の間の奥には台所、その隣に現代的な水洗の洋式トイレ、ユニットバスがあるのに驚く。トイレは和式の、いわゆるボットン便所を想定していたため、浩司はほっとした。


 玄関から見えた奥の方の和室を左に曲がると、もう一部屋、六畳間があった。そして、今夜はここに布団を敷くということを説明される。どうやらヨエは一度自宅に戻り、用意した夕食をここに運んできてくれるそうだった。その際に風呂と寝床の準備もしていってくれるという話を聞いて、こんなにしてもらって一万円の宿泊費でいいのかと驚く。


 最後に宿泊に関する注意事項をまとめた用紙を手渡された。野生動物がいるため戸締りは必ずすること、宿泊代金は和室の封筒に入れておくこと、家で見聞きしたことは人に話してはいけないこと……。そのようなことが十数項目記入されていた。蓮人は真面目に聞いている様子ではなかったので、浩司は説明するヨエの話を聞き洩らさないようにする。


 最後にヨエが、この家に住んでいる神様を見てはいけない、という話をし始めると、ようやく蓮人はスマートフォンに落としていた目線を上げた。思わず二人で顔を見合わせてしまう。

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