第18話

 蓮人と別れた後、少しぶらついてから家に帰ると、すでに母が帰宅していた。少し早めの夕飯を二人で取り、浩司はそそくさと自室へ戻る。往復葉書を記入するために、引き出しの鍵を開けた。葉書の上にはガムテープで巻かれた謎の箱が乗ったままだったが、正体が何なのか浩司は思い出せずにいた。


 学習机に向かい、葉書を記入していく。二人分の氏名、住所。文字を書くごとに、自分たちが幸せと紐で結ばれていくような感じがして、胸の高鳴りと妙な安心感を覚える。


 蓮人の住所を記入していると、浩司の中に幼い日の思い出が蘇ってきた。安田町二丁目に、同じ形の平屋がいくつも並ぶ一角がある。その一つが相内家だった。


 蓮人の家で遊んだ記憶はない。お母さんが寝ているから、と家に同級生が来ることを蓮人は拒んでいた。幼い頃の浩司たちの遊び場はもっぱら近くの公園だったので、あまり気にすることはなかったが、蓮人が頑なに人を家に入れたがらなかったことだけは記憶に残っている。


 浩司は宿泊不可日の欄に、自身の通うメンタルクリニックの予約日を記入する。そしてアレルギーの欄に、そば、と書いてから、ペンを机に置いた。


 書き間違いがないか確認し、はさみで葉書の返信面だけを切り離す。宛先の「行」を直し忘れているのに気づいて、浩司は慌てて線を引き、「様」と横に書いた。


 浩司は適当なクリアファイルに慎重に葉書を挟むと、リュックにしまいこんだ。まだ胸がどきどきと鳴っている。何度か深呼吸を繰り返した。


 浩司は音を立てずに、階段を下りた。耳をそばだててみても、一階からはテレビの音以外聞こえてこない。まだ、父は帰宅していないようだった。リビングのドアを開けると、和子がソファで新聞読んでいるのが見えた。


「ちょっとそこまで出てくる」


 新聞から目を離した和子が何かを言いかけたようだったが、声を聞く前にドアを閉めてしまった。早く葉書を投函したいという気持ちが、浩司を急かした。


 玄関を出るとオレンジ色と紫色が混じったような空が目に入る。もう十八時頃だったが、十分な明るさがあるため外を歩くのに問題はない。家の前の道路を西に真っ直ぐ行くと、簡易郵便局がある。浩司はそこを目指して歩き始めた。


 しばらくすると、正面から強い光が近づいてくるのに気がついた。車のヘッドライトだ。縁石のデリネーターが向こうから順番に照らされていく。浩司は近づいてくる車を観察した。青いSUVだ。


――父さんの車だ。


 はっとした時にはもう遅かった。車は速度を落としながら浩司の横を通り過ぎる。運転席に座る父と視線が合う。そのまま車は走り去った。


 一瞬だけ合った父の目からは確かに蔑みを感じた。外に出れる元気があるんじゃないか、と言われている気がした。視界が狭まり、心が酷く落ち込む。先ほどまで感じていた胸の高鳴りは、いつもの動悸へと変わってしまっていた。


 胸のざわめきを抑え、何とか郵便局までたどり着く。いつもの倍の時間はかかったかもしれない。今日の業務は終わっているらしく、郵便局の照明はついていなかった。ポストに貼られた集荷時間を確認すると、明日の十一時過ぎには中身を回収していくことが分かった。


 リュックから先ほど記入した葉書を取り出し、書き間違いがないか再度確認する。蓮人からは宿泊不可日の連絡はなかった。このまま葉書を出していいはずだ。それでも心配で何度か葉書を見返した後、浩司はやっとそれをポストに投函した。


 一仕事終えた浩司は大きなため息をついた後、郵便局の横にある自販機で麦茶を買った。動悸を抑える頓服を取り出すと、買ったばかりの麦茶で飲みこむ。


 父のいる家には帰りたくなかった。冷たい、軽蔑した目を思い出すと心がしおれてしまう。


 この親子関係は一生続いてしまうのだろうか。それとも、『幸せになれる家』がどうにかしてくれるのだろうか。


 浩司は思考を吹き飛ばすように頭を振った後、夕方の町を歩き始めた。空は先ほどよりもオレンジ色を減らし、紺色を多くしている。紫色の雲が浮かぶ夜空は美しかった。浩司は夕闇の中、郵便局の近くにある小さな公園を目指した。


 公園は子供の姿もなく、ひっそりとしていた。街路照明がベンチを白く照らしている。浩司はベンチに腰を下ろし、懐かしそうに辺りを見渡した。


 小学校の放課後や休みの日には、蓮人や他の同級生たちとここで遊ぶことが多かった。公園の入り口付近には駄菓子屋があり、少ない小遣いを握りしめ十数円の菓子を吟味しながら買っていたのを思い出す。店主の高齢化により店を閉めさせていただきます、と貼り紙がされていたのは中学生の頃だったと思う。


 浩司が過去に浸っていると、ベンチを後ろから照らしていた街灯がパチパチ、と音を立てて点滅した。顔を上げてみると、街灯が不規則なリズムで消えたり、点いたりを繰り返すのが見えた。


 何度か点滅があった後、やがて街灯は安定した光を取り戻した。物心ついた頃からこの公園はあったから、老朽化が原因かもしれない。


 街灯を観察していた目線を戻すと、ふと、自分の足元に出来た影が目に入った。ベンチと、それに腰かけている浩司、そして隣に立つ大きな影。


 浩司は息を吞んだ。相変わらず公園は静寂に包まれている。影の主は浩司のすぐ左後ろに立っているようだった。人の形のような影はどこまでも長く伸び、街灯の光が届かない闇へと吸い込まれている。


 再び街灯が電気的な音を鳴らし点滅した。光が戻った時には、先ほどの長い影はどこにも見当たらなかった。明かりは浩司とベンチの影だけをそこに作っている。


 浩司はゆっくりと立ち上がると恐る恐る周りを見渡し、足早に公園を去った。

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