第12話

 昨日の夕方から深夜にかけて何通もメッセージが続いていた。

 自分の身に問題が降りかかったが、自分の知らぬところで解決したということなのだろうか。何十件も電話をかけるほど良くないことが起こったのだと想像する。心拍数は落ち着かない。


 父のメッセージを何度も読み返していると、着きましたよ、というヨエの声が聞こえた。

 はっとして画面から顔を上げると、昨日の駐車場が目の前にある。何も変わらない、田舎の駅前だ。

 父に電話をしなければ、という思いが頭の中を占めていたが、ヨエが後部座席のドアを開けてくれたのに気づき、自分のことで手一杯になっていたことを少し恥じる。


「すみません、ありがとうございます。父から電話が来ていて……」

「あの辺は電波が悪いですからねえ」


 ヨエは相変わらずにこにこしている。佳穂の身に何が起きたのかは全く知らないようだった。

 車の前でヨエは深々と頭を下げる。


「この度はかすみの家にお泊り頂きありがとうございました。ご縁があったようで何よりです。これから幸せに向かって運命が動いていきますよ」

「……こちらこそ、ありがとうございました。まだよく分からないこともあるんですが、それでもこれから幸せになれるみたいで良かったです。お世話になりました」


 佳穂も同じく頭を下げ、感謝の気持ちを述べた。何十件もの不在着信が来ている今の状況を果たして幸せと呼べるかは分からなかったが、目の前の老女は佳穂に幸せが訪れることを信じている。


「重ね重ねで申し訳ありませんが、かすみの家で起こったことは口になさらないようお願いします」


 言われて佳穂は思い出した。ヨエに何も言われずに父に電話をしていれば、危うく口に出してしまっていたかもしれない。


「……はい。必ず守ります。あの、お孫さん、イバラさんにもよろしくお伝えください」

「まあ、ありがとうございます。それではお気をつけて」


 もう一度ヨエに頭を下げると、佳穂は足早に駅舎に向かった。電車が来るまであと二十分ほどある。

 駅舎には電車を待つ乗客の姿はなかった。駅員が暇そうにホームの掃除をしている。

 父に電話をかけようと思ったが、今日が平日であることを思い出す。普段なら父は仕事に行っている時間だ。

 少し悩んで、電波がつながるところに来ました、とメッセージを送った。

 送った途端に既読マークが付き、着信画面が表示される。


「お父さん?」

「佳穂か? 大丈夫なのか?」


 佳穂が電話に出た瞬間、被せるように父の声が聞こえてきた。その声はいつもの落ち着いたものではなく、少し疲れを感じさせる。会社は休みなのだろうか。


「うん、ちょっと旅行に来てて、今駅に着いたところだったの。……何かあったの?」


 佳穂が問いかけると、電話の向こうの父は何か考えているようで、しばしの沈黙があった。


「いや、大丈夫ならいいんだ」


 何十件もの電話とメッセージで良いわけがなかった。佳穂は少し強めの口調で言う。


「お父さん、会社にも電話したでしょ? 何度か会社からも電話が来てたの。それなのに何も教えてもらえないんじゃ、会社にどう電話していいか分かんないよ。私、もう子供じゃないんだよ。何を言われても大丈夫だから」


 佳穂がはっきり言うと、父はまた悩んでいるようで無言の時間が続いた。少しして大きなため息が聞こえた後、父は言葉を選ぶようにゆっくりと話し出す。


「……実はな、昨日の夕方くらいだったか。家の電話にあの、松島さんのご両親からな、電話があったんだよ」


 父の口から松島という言葉が出てきたことに驚くと同時に、あの夢が脳裏をよぎる。


「最初、母さんが電話に出て話を聞いてくれていたんだが、途中でパニックになっちゃったらしくてな。父さんに電話をかけてきて、松島さんの家に電話してくれって。それで電話をしてみたら、新吾くんがどうやら佳穂に会いに行ったらしいって聞かされたんだ」

 

 思わず息をのんだ。

 あの男が会いに来る?

 佳穂の様子が伝わったのだろう。慌てて父が言葉を続けた。


「いや、大丈夫なんだ。彼は佳穂には会えない。会うことができないと言った方がいいのか……」

「どうして?」


 父は明言を避けようとしているが、佳穂はどうしても真実が知りたかった。元婚約者は佳穂に会う前に両親に連れ戻されたのだろうか。それとも他の理由があるのだろうか。


 目を閉じると、穴だらけの男の顔が浮かんでくる。


「新吾くんはね、死んだんだ。昨日の夜。トラックに撥ねられて」


 死んだ? 昨日?


 意識が遠のく感覚がする。視界が歪む。重心の取れなくなった身体を駅舎の壁に預け、何とか立つことができていた。


「彼は最初、佳穂の会社に行ったらしい。父さんが佳穂の会社に電話をした後だったから、佳穂の上司の方が上手く追い返してくれたそうだよ。わざわざ電話をしてきてくれてね。追い返された後の新吾くんはどこに行ったかも分からないし、佳穂は電波が通じない場所に旅行へ行ってるって聞いて、父さんも母さんも心配してね。コタローもずっと佳穂の部屋から出ようとしないから、これは何かあったんじゃないかって」


 そこまで続けて言った父は、一度呼吸を整えた。


「……そしたら、夜中になって向こうのご両親から、息子は死んだからもう大丈夫です、ご迷惑おかけしました、って呆然とした様子で電話がかかってきて。びっくりしたよ。それで今日の朝刊見たら、小さく記事が載っていてね。トラックに撥ねられ男性死亡、飲酒後の信号無視が原因かって書かれていたよ」


 父の声はあまり頭に入ってこない。意識は曖昧なままだった。

 かすみの家に泊まって、あんな夢を見て、そのタイミングで元婚約者が死んでしまうのはただの偶然なのだろうか。


「……ごめん、お父さん。もうすぐ電車が来るから、落ち着いたらまた連絡する」

「おお、そうか。とりあえず佳穂は大丈夫だからな。気を付けて帰っておいで」


 電話を切ると、ふらつく足で何とか待合室の椅子までたどり着いた。眩暈がするし、血の気が引いているのも分かる。


 元恋人の死は自分に訪れた幸せなのだろうか。

 それとも不幸を差し出したことによって、その原因となった彼も一緒にこの世界から取り除かれてしまったのだろうか。


 彼が死んだのは自分のせいなのだろうか。


 どこまでが現実で、どこからが夢なのか分からなくなってきてしまう。

 もしかしたら全て夢だったのかもしれない。自分は田舎で一泊しただけで、元婚約者はたまたま同じ日に死んでしまったに過ぎない。


 駅舎に明るいメロディーが流れ、電車がホームに到着したことを知らせる音声が流れた。

 切符を出すために鞄を開けると、昨日もらったコーヒーのペットボトルが目に入る。あの老女の存在だけは確実なものだった。



 木ノ内彩香の目の前に、大人しそうな女性が座っている。控えめな色のコーディネートだが、彼女の纏う雰囲気によく似合っていた。

 会社の後輩である彼女、宮地佳穂から先日のお礼にと食事に誘われた木ノ内は、小洒落たイタリアンレストランにいた。会社の分とは別に、木ノ内個人への旅行土産としてもらった紙袋が膝の上に乗せてある。中身はお茶菓子と紅茶のセットだ。優しくて気の利く後輩だと思う。


 一週間ほど前、この後輩が旅行に行っている間、彼女の父親から会社に電話があった。

 彼女の元婚約者の男性が実家から姿を消した。パソコンの履歴を調べてみると東京に向かう切符を取っている、もしかしたら会社に行くかもしれないというものだった。


 その男性の話は何度か聞いていたし、会社に届いた手紙も見せてもらったことがある。相当、彼女に執着しているようだった。自分の意思で浮気をしておいて、随分身勝手なやつだという印象を強く持った。


 彼女の父親が言っていた通り、その元婚約者は会社に現れた。あらかじめ受付に話を通しておいて良かったと心の底から思う。


 「佳穂に会いたい、もう一度プロポーズをしたい」と彼女に突き返されたであろう婚約指輪を手にし喚いていたが、休みを取っていてしばらく戻らないこと、これ以上長居するようであれば警察を呼ぶ、と伝えるとすごすごと帰っていった。逮捕されたら一生彼女には会えない、と言ったのが効いたのかもしれない。

 その後、彼に何があったのかは、後輩が目の前で語ってくれた。


「まさか死んでしまったなんて……」


 驚きはしたが悲しみはなかった。木ノ内はその男について悪い印象しか持っていない。かわいい後輩にあれほどの悲しみと恐怖を与えた男には、何かしらの罰が下って当然だった。


「びっくりですよね……。私、最初にその話を父から聞いた時、怖くなってしまって。元婚約者がストーカーみたいになって、その上事故で亡くなるなんて。全然理解が追い付かなくて」


 木ノ内を見つめていた彼女の目が伏せられる。


「……でも、その後しばらく考えてみたら、私の不安の原因が無くなったんだから良かったんじゃないか、とも思い始めて。嫌な人間ですよね、元婚約者の死を喜ぶなんて」


 白ワインを口に含みながら佳穂はぎこちなく笑う。その表情からは彼女が本当にそう思っているということが窺える。

 木ノ内は人の表情とその本心を読み取るのが得意だった。幼い頃から両親の喧嘩が絶えない家庭で育ってきたからかもしれない。


「あれだけ酷いこと、それに不安になるようなことをされたんだもの。私だってほっとしちゃうと思う」


 木ノ内に同意の言葉をもらった佳穂は安心そうな表情をする。少し酔っているようで、頬が赤く染まっていた。


「私、両親から実家に帰ってきて欲しいって言われたんです」


 後輩から突然退職に関わる話が飛び出て、木ノ内は少し身構える。しかし、話し方に悩んでいる様子は感じられなかった。少し困った顔をしているが、おそらく断ったのだろう。


「あんなことがあったから、両親も不安なんだと思います。……でも断りました」


 彼女は小さくため息をつく。


「小さい頃から過保護というか、失敗をして恥をかかないようにって、やらせてもらえないことが多かったんです。特に母がそういう傾向が強くて。実家に帰って来いって言われた時、自分は本当にそれでいいのかと考えちゃって。私の幸せってなんだろうって、悩みました。それで実家に帰らずにこっちで働くのが、今の私のやりたいことだなあって自分の中で答えが出たので、断りました。木ノ内さんと働くのも楽しいですし。……母は不満そうでしたが、父は私の意見を尊重してくれました」


 にっこりと笑う彼女はとても幸せそうに見える。この一週間で何か吹っ切れたようだった。


「会社に残ってくれて嬉しい。私も宮地さんと働くの楽しいもの」


 木ノ内も微笑み返す。これは本心だ。仕事に派手さはないが、作業が丁寧でよく気がつく部下に、いつも助けられている。

 しばらく会話が続いて料理に手を付けていなかったことを思い出し、木ノ内は目の前にあるサラダを取り分けようと皿を手に取った。


「そういえば、旅先ではどんなことしたの?」


 他愛もない会話のはずだった。返答がないことを疑問に思い顔を上げると、口を開きかけたまま身体を硬直させている佳穂が目に入った。少し怯えているような表情をしている。

 まるで何かに監視されているように見えた。


「……宮地さん?」


 木ノ内が話しかけると彼女は呪縛から解放されたように肩で大きく息をし、自らの背後を気にする素振りを見せた。木ノ内からは陰になっているが、別段変わったものはなさそうだ。


「……すみません、たぶん虫か何かだと思います。旅行中は、ホテルでゆっくりゴロゴロ、怠惰に過ごしてたんです」


 そう言って笑ってみせるが、何か心配事があるような顔をしている。よほど何かの気配が気になっているようだった。

 雰囲気を良くしようと、話題を変える。


「使っていたボールペン壊れちゃったって言ってたけど直りそう?」


 その青いボールペンは確か、彼女が両親からもらったものだったはずだ。旅先から帰ってきたら、書けなくなっていたという。どこかにぶつけたのかも、と話していたと思う。


「お店に持っていったんですけど、色んなパーツがだめになっちゃったみたいで。直すのに結構金額がかかるみたいで、どうしようか悩んでるんですよね」


 ぶつけただけで、そんなに色んなパーツに影響してしまうのだろうか。しかし入社当時から使っていたものらしいので、経年劣化が原因ということも考えられる。

 目の前で悩んでいる後輩に一つの助言を与えることにした。


「宮地さんが好きなボールペン買うのもいいんじゃないかしら。これから自分がやりたいことを始めるっていう第一歩として」


 なるほど、それもいいですね、と後輩は頷きながら、どの色を買おうか考えているようだった。

 その後も二人の談笑が続いたが、時折背後を確認する様子が目につく。もしかしたら色んな出来事があって、感覚が過敏になっているのかもしれない。

 ここ最近彼女に降りかかっていた不幸の原因がなくなったのだ。これから彼女にはゆっくりとでもいいから幸せになってほしいと木ノ内は心から思った。

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