第7話

 ゴールデンウィークに実家で羽を伸ばし日常に戻ると、あっという間に五月の終わりが見えてきた。

 四月の頃の忙しさもなくなり、出社前に会社近くの喫茶店でコーヒーを飲む余裕もできた。


 この日も出社前にチェーン店に寄った。カウンターでコーヒーを受け取り、席に着く。周りでは同じように、出社前であろう人々が各々の時間を過ごしている。


 佳穂は鞄から手帳を取り出し、今週のスケジュールを開いた。明日から二日間の休暇だ。

 明日、明後日の切符は、実家に帰る際に駅を使った時、受け取っておいた。着替え類なども昨日のうちに準備した。

 見知らぬ場所へ行く緊張感とそれと同じくらいの期待感が、修学旅行前の雰囲気に似ていた。


 佳穂が手帳を眺めていると、ふいにあの気配が背後に現れる。

 気配は佳穂だけを束縛する。周りに座っている人々は何も変わることなく、コーヒーを飲んだり、新聞を読んだりしていた。


 馴れというのは恐ろしいもので、最近の佳穂はこの気配を感じても、ああまたか、と思うようにすらなっていた。

 急に現れ、そして消える。現れている間は、佳穂は緊張感で身動きが取れなくなるが、それでもすぐに消えてしまうため、少し不気味さが残るだけだった。


 幽霊の類かと考えていた背後の気配に、佳穂は巨大な樹木のようなイメージを抱くようになっていた。

 チェーン店でコーヒーを飲む自分の後ろに急に巨木が出現するが、周りの客は誰も気にする様子はない。そんな想像をしているうちに、またその気配は消えた。


 緊張を解かれた佳穂は後ろを振り返る。当然そこには巨大な木はなく、誰の姿もなかった。

 いつも佳穂を見下ろして、何を知りたいのだろう。

 しばらくその疑問に頭を巡らせていたが、店内が混んできたことに気がつき、席を立った。



 その日の仕事は急な打ち合わせが一件入っただけで、それ以外はいつも通りの平日だった。休暇中の仕事について、木ノ内を含めた課員に依頼し帰宅する。


 緊急の案件で連絡がくる可能性があるため、木ノ内には二日ほど旅行をするので電話に出られないかもしれない、と帰り際に伝えておいた。

 相当大変なことが起きない限り連絡しないから安心して、と笑顔で手を振ってくれた木ノ内の姿が記憶に残る。


 アパートに帰宅しリュックに詰めた荷物の最終チェックを済ませると、早めにベッドに潜り込んだ。

 翌朝、スマートフォンのアラームが鳴る前に目を覚ました。カーテンを開けると、快晴が広がっている。シャワーを浴び、朝食を取った後、軽く化粧をして佳穂は駅へと向かった。


 平日の新幹線には、スーツ姿の乗客が多く見られた。これから東北方面に出張なのか、それとも帰るところなのか、座っている様子からは分からなかった。


 佳穂は予約していた席に座ると、時折窓の外を見ては景色の流れる様子を眺めた。

 建物ばかりだった風景が山に変わり、また少しして建物が見えてくる。山の景色が続くようになると、都会から遠い地へ向かっているという実感が湧く。


 二度の乗り換えの後、二両編成の電車が下芦駅に到着したのは、予定時刻通り十五時半過ぎだった。

 駅の目の前に大きな湾が広がっている。潮風が冷たい。湾を背にすると、山々が連なっているのが見えた。


 下芦駅は周辺の観光地への出発点となっているらしく、駅構内には観光マップや施設案内のポスターがいくつも貼りだされている。自然豊かな風景や海鮮料理の写真が使われているものが多い。


 トイレに立ち寄ってから駅の外に出ると、広い駐車場が目に入った。

 迎えの車はどれだろう、と駐車場を見渡す。

 駐車場は駅前のホテルと共用になっているらしく、ホテル側には十数台、車が停めてあるのが見えた。


 ふと、自販機で飲み物を買っている人影が目についた。人影は腰をかがめ、受取口からペットボトルを取り出す。

 人影が振り返った。老人のようだ。白髪が潮風で揺れている。


 老人は佳穂が立っている駅舎の軒先に向かって歩いてきた。薄緑のシャツの上に、紺色のフリースを羽織っている。この辺の住民だろうか。


 老人が近くまで来ると、女性だということが分かった。皺の刻まれた顔に、かわいらしい小さな目が見える。

 いつの間にか、はっきりと目が合う距離まで小柄な老女は近づいていた。


「宮地佳穂さんですか?」


 老女はにこやかな顔で、佳穂に問いかけた。上品で優しい声だ。

 予期せぬ質問に佳穂は驚いたが、すぐにこの老婆が迎えの者なのだと気づいた。

 てっきり電話をかけてきたイバラが迎えに来ると思っていた。老女の声はその時聞いたものとは異なっているため、どうやら見当違いだったらしい。


「はい、宮地です。あの、かすみの家の……?」

「かすみの家の管理をしている、川端ヨエと言います。遠いところからお越しいただいて、ありがとうございます」


 川端ヨエは腰を曲げ、深く頭を下げた。

 慌てて佳穂も軽くお辞儀する。


「こちらこそ、お迎えありがとうございます」

「長旅でお疲れでしょう。早速、家に向かいますが大丈夫ですか?」

「ええ、よろしくお願いします」


 先導するヨエについていくと、白の軽ワゴンの前で立ち止まった。この車がかすみの家の送迎車らしい。

 後部座席のドアを開けてくれたヨエにお礼を言い、佳穂は車に乗り込んだ。

 小奇麗な車内を見回していると、運転席に座ったヨエが振り返った。


「どっちがいいかしら」


 手には先ほど自販機で買っていた小さいサイズのペットボトルが握られている。緑茶とブラックコーヒーだ。

 佳穂は一瞬迷ったが、コーヒーのペットボトルを頂く。


「すみません、何から何まで。ありがとうございます」

「大切なお客様ですもの。それでは出発しますね」


 慣れた手つきでヨエは軽ワゴンを運転し始めた。スムーズな走りで、駅前の駐車場を出る。

 車は町を抜けると、連なる山々に進路を向けた。


 周りの景色をきょろきょろと見回す佳穂の様子に気がついてか、ヨエは目についたものや土地に関する話をしてくれる。

 スルメイカやマダラが名産であること、八月の終わりに大きな祭りがあること、冬場はスキー客が多く訪れること。

 道路沿いにサルやクマがいることがある、という話を聞いた時には、思わず外を探してしまった。


「そういえば、電話をくれたイバラさんはいないんですか?」


 車内に和やかな雰囲気が流れていたため、思い切って佳穂は聞いてみた。

 ルームミラーに映るヨエの顔が一瞬曇ったように見えた。


「……それは孫、ですね。今日は用事があるそうで、私が迎えに来たんです」

「そうだったんですか……」


――お会いできるのが楽しみです。


 イバラが電話口でそう言っていたのを思い出す。定型句だったとしても、イバラに会えないのは少し寂しい気がした。

 会話がなくなった車内に、鳥のさえずりや木々のざわめきが流れ込んでくる。

 視線をフロントガラスに向けると、ちょうど二又の道を右に進むところだった。その先にはコンクリートの赤い橋がかけられている。


 車は細い橋の上を進む。窓から清らかな川の流れが見えた。こういうところにクマは出るのだろうか。

 それから車は一本道を進んでいたが、しばらくして斜面に張り付くようにして設置してある石階段の前で停車した。


「長い時間お疲れ様でした。到着しましたよ」


 ヨエが笑顔で振り返る。


「ありがとうございます」


 慣れない長時間の乗車で疲れを感じていたが、佳穂は精一杯の笑みを作る。

 車から降りると、新緑の香りに包まれた。チチチチ、とどこかで鳥が鳴いている。


 山の空気は思ったよりも冷たく、もう少し厚めの上着を持ってくるべきだったと後悔した。

 リュックを背負うと、長い階段の前に立つヨエに気がついた。


「この上ですよ」


 階段の上は鬱蒼としているのが見えるが、建物があるかどうかまでは確認できない。

 ヨエが階段を上り出したため、それに続いた。

 前方を進むヨエは少し腰が曲がっているが、急な階段を物ともせず上っていく。普段から上っているから平気なのだろうか。

 対して佳穂は階段の中ほど辺りから、息があがってしまっていた。


 階段が終わりに近づくにつれ、徐々に平地が見えてきた。階段から先は草がむしられているようで、地肌が見えている。


 段を上るごとに見えてきたのは、木で出来た門と塀だった。塀の奥には茅葺かやぶきの屋根がのぞいている。木塀を照らす木漏れ日が、風が吹く度に形を変えた。


 ヨエが門扉を開ける。

 観音開きの扉の先には、茅葺屋根の民家が建っていた。

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