短編集・練習作品

新川春樹

30分de執筆シリーズ

海とイヤホン

「この曲、お気に入りなんだ」


 彼女はそう言って、イヤホンを差し出した。


 ほんのり潮が香る浜辺に二人、学校帰りのちょっとした寄り道をしている。

 揺れる水面に反射する陽光は眩く、頬を撫でる風も湿気を帯びて生暖かく、気持ちいいとは言い難かった。

 けれど、これがいつもの帰り道だと無意識に感じているようで、不思議と安心する。


「ちょっと聞いてみて」


 渡された白いイヤホンを耳に当てる。

 それを確認した彼女はスマホに目を落とし、親指で画面を押した。


『〜♪』


 刹那、軽やかなピアノの音色が鼓膜を震わせる。

 一つ一つが一音一音を鳴らし、一つの作品として重なり合っていく。

 決まったテンポに乗せられているはずの音符は自由に踊っているようにも思える。けれど、乱れることはなく、順々に空気を伝い、メロディーへと形を変え、音に彩られた世界を作り出した。


「……凄いでしょ?」


 ほんの少し微笑みを浮かべながら彼女は顔を覗かせる。

 耳に響くピアノの余韻にまで圧倒されていたせいか、リアクションの薄さに残念そうな表情を浮かべ、ちょっと息を吐くと、気を取り直したようにまた話し出した。


「これね、弾いたの、お父さんなんだ。もうずっと前にいなくなっちゃったけど」


 歩きにくい革靴の方まで視線を落とし、渚でも見つめるかのように足を止める。


「……今度さ、この曲弾いてみようと思うの。聞いてくれる?」


 声のトーンは変わっていない。ずっと微笑みを浮かべたままだった。いや、むしろ憧れと希望に溢れてしまいそうにも思える程、純粋な表情をしている。

 ただ、その奥にはどうしようも無い恐怖と名付けられた形も色も何もないもので一杯になっているように感じてしまったのだ。

 根拠のない不安が、少し暖まった身体を急に冷やしていく。


「約束、だよ」


 ふと、寄ってきた波は足元の砂と一緒に彼女まで攫ってしまうように思えてしまった。


「……来週、放課後、音楽室で」

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