第32話 淫魔と童貞

「そん……な……」


 ブルーシートに覆われた江口荘だったもの。周りの道は変わっていない。一番変わってほしくないものだけが、変わってしまっていた。


「そっ……か……私、間に合わなかったんだ」


 一気に力が抜けて、その場にへたり込む。もう立ち上がることができない。ただただ、悲しくて、涙を流すことしかできなくなる。


「……う、うぅ……」


 涙が溢れて止まらない。


「タクミさん……ごめんなさい……私、間に合いませんでした……」


 泣いて、泣いて、泣くことしかできなくて、何もかもどうでも良くなりそうなそのときだった。


「リリア?」

「え──」


 声が、聞こえた。




「リリア……だよな?」

「た、タクミさん……え……本物……?」

「そ、それはこっちのセリフだ。本当にリリアなんだよな? いや、しばらく見ない間に随分と変わって……はないか。ははは──」

「……っ! タクミさん!!!」

「おわぁ!?」


 胸に飛び込んできたリリア。俺は支えきれず、リリアに押し倒されてしまった。


「よかった……! 本当に、よかった……! タクミさん……! また、また会えて……ふえええ……」

「お、おい泣くなって……あー、涙と鼻水でぐしょぐしょじゃねーか」

「う……ひぐ……だってぇ……江口荘があんなになってるし……10年ぐらい経ってしまったのかとぉ……」

「あー、江口荘だけどな、ちょっとリフォームするとかで工事中なんだよ。リリアがいなくなってすぐに由梨さんが……いや、止めとこうこの話は」


 実を言うと、リフォームの理由なのだが、リリアがいなくなり、重苦しい空気に耐えきれなかった由梨さんは『やってられるかぁ!』と酒を飲んで暴れ散らかした。

 その結果、壁をぶち抜いて家全体がミシミシ言い出したので急遽改装しようという話になったのだ。当然、これをバラすと俺が由梨さんにバラされかねないので黙っておく。

 元々リフォームの時期とも相まっていたので、予定調和だったらしい。


「ともかく……おかえり、リリア」

「はい……ただいまです、タクミさん」



 江口荘のリフォーム中は、寝床を楓さん管轄の別のアパートに移っている。ひとまずその場所にリリアとともに移動することにした。


「じゃあ、そこに皆さん移っているんですね」

「あぁ。みんな物好きだよな、あんなあっさりと壊れるような場所でもあそこがいいだなんてさ」

「ふふっ、それはタクミさんも、ですけどね」

「……あぁ、違いない」


 普通なら引っ越す人もいそうだが、俺たちの誰一人として引っ越すものはいなかった。結束力が強いというか、ただ単に面倒くさがり屋が多いだけかもしれないが。


「それにしても私、運が良くてよかったです」

「え?」

「だってタクミさん、私が魔界から人間界にくるタイミングで江口荘に来てくれるんですもん。これはもう、運命レベルの何かを感じてしまいますよ」

「あー、それはだな……」


 言うのは少し恥ずかしい。しかし、それを見逃してくれるリリアではなかった。


「なんですか? 言ってくださいよ、気になるじゃないですか」

「……毎日」

「え?」

「江口荘から離れてから毎日、様子を見にきてたんだよ。リリアが戻ってきたとき、あの江口荘の状態を見たらきっと困惑するだろ。だから、その、まぁなんだ、日課になってたってだけだ」

「それって……私が来るのを毎日待ってたってこと……ですか?」

「……まぁ、そうとも言う」


 恥ずかしくて仕方がない。俺はリリアの顔が見れず、そっぽを向く。


「〜〜〜っ! タクミさん!」

「え? うおっ!?」


 いきなり飛びついてきたリリアに、対応できず倒れてしまう。


「いてて……いきなり飛びつくなよ……リリイじゃあるまいし」

「タクミさん、私、嬉しくて、嬉しくて、もう我慢できません」


 リリアは俺の上に馬乗りになっている。顔が赤い。吸い込まれそうな大きな目がとろんとしている。淫魔にしか出せない強烈な色気がリリアから滲み出ている。


「タクミさん……」


 リリアは顔を近づけ、熱烈な愛情表現を──。


「ちょ、ちょっと待ったぁぁぁ!!!」

「え!? な、なんですか!?」

「えっと……ですね……まだその工程に至るのは早いというか……」

「え、えぇ!? い、いやいや! じょ、冗談キツイですよぉ。タクミさん、言ってましたよね、私が戻ってくるときには全世界でも通用するぐらいの有名な漫画描いてるって」

「そこまで言ってたっけ……」

「それで、その暁にはシルシをつけてもいいって。だから、今からつけようかと──」


「……ダメだった」


「え……」

「ダメだったんだよぉ……! 何度も言わせないでくれるかなぁ!?」

「え、えぇぇぇぇ!?」

「いや俺もさ、頑張って描きましたよ。リリアの教えも忘れず、自分なりに頑張って描いたのにさぁ、編集の中山さんから『才能枯れちゃいました?』とか煽られて、ムカついて気分転換に俺の欲望丸出しの漫画描いたらそっちの方がバズるし……」

「えっと、アニメ化、メディア化、みたいなお話は……」

「……延期させてくれって言われちゃった」


 数秒の沈黙。


「やっぱり……」

「へ?」

「やっぱり、私がいないと漫画描けないんじゃないですかあああああああ!!!!」

「リリアがキレた!?」

「そりゃ怒りますよ! だってタクミさん言いましたもん! 私がいなくても漫画描いて見せるって!」

「いや、描いたって! ほら!」


 俺はバズった漫画を見せた。内容は、ビッチの女の子が漫画家の冴えないおっさんのところに現れて色々とご奉仕してくれる単話だったが。


「こんな都合のいい女の子いるわけないじゃないですか! バカなんですか!?」

「ええええ!? いやいや、漫画の中ぐらいいいだろうが!」

「純愛! 純愛を描いてくださいよっ!」

「これだって純愛だろうよ! ほら、2人とも喜んでるしwin-winだよこれ!」

「出会って1日も経たず即エッチって……! は、破廉恥! エッチ! こんなの純愛じゃないですよ!」


 確かに、編集の中山さんからもエロ漫画描いて欲しい訳じゃなかったと割と本気で怒られたが……。


「あーもうっ! これだから童貞は困りますねっ!」

「何だぁ……? テメェ……。お前だって、淫魔の癖に処女だろーがっ!」

「しょっ……!? だ、誰のせいだと思ってるんですかー!!!」


 結局、その日は言い争いながらアパートへと戻った。みんなからは呆れられたが、この騒がしさも悪くない。


 処女の淫魔と、童貞である俺の物語は、まだもう少し続きそうだ。

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