第十話 霊獣その2

   ***


 蝶に追い立てられた、キームンの手下たちが必死に走っていると、中華服の集団が見えた。


「あれは、城砦にいた野郎たちじゃ……!」


 前方を走る香港マフィアに追いついた。


「おい! てめえら!」

「あの地下どーなってやがる!」


「知るか!」

「知るか、じゃねぇ! あの煙の男はてめえらのボスだろーが! てめえらが止めろや!」


「あいつはボスじゃねぇ!」

「はあ!?」


「ボスはバケモンにされちまった!」

「全部あの『煙の男』のせいだ!」


「なんだって!?」


 黒スーツ集団は互いの顔を見合わせた。


「あの男は妖術みたいなモンを使うのか!?」

「そんなやべーヤツとうちのボスは戦ってんのか!」

「知らせに戻るか?」


 足を止めかけた彼らの顔に、蝶たちがバタバタとまとわりつく。


「こっ、こらっ! やめろ!」

「ボスは俺たちがいたら気が散るだろうし」

「あの『煙の男』のことはよく知っていそうだったしな」


『僕を信じて待ってて!』


 その言葉が手下たちの脳裏に浮かぶ。


「……大丈夫だ」

「そうだ、きっとボスなら大丈夫だ!」


   ***


 巨大な牛の妖獣が、暗闇からキームン目がけて上昇する。

 通常の大きさの赤いランタンを片手で掴み、片手に持った煙管キセルを口に当てる。


「鎮まれ」


 捕まっているランタンに向かって煙を吐いた後、厳かな口調で言い渡し、もう一つ向かいに浮かぶランタンにも煙管を振って灰を飛ばした。


 二つの赤いランタンがさらに明るく広範囲を照らすと、果てのない暗闇に見えた下方——キームンから見れば頭上は三階層ほどの吹き抜けとなっていて、中華風デザインの高級家具が浮かぶのがぼんやりと見えた。


 豪華な彫刻が施された衝立ついたて、値打ちものの屏風びょうぶ、ふかふかの背もたれのある高級な椅子と書斎机、木と青銅で作られた宝飾品がはみ出ている宝箱が大小浮かび、西洋製のシャンデリアもあった。


 香港の港で手に入れたであろう西洋風のインテリアも見られる。


 天地は逆転しているが、家具は石造りの床から離れてキームンの頭よりもさらに高い天井近くで浮いてた。


 巻き紙に描かれた書や絵、中華柄の布と西洋柄の布が壁に飾られているその部屋には生活感はなく、ボスの部屋か宝物庫に彼には思えた。


 サッと見渡したわずかな間にも、妖魔の牛の勢いは止まらず、よだれを撒き散らしながら牙をむく。キームンの足先にまで昇ってきたとき、狙いを定めて牛の角に飛び移った。


 自分の背丈近くある角を、樹木に抱きつくようにして抱える。そこにいれば、ハリネズミのように硬質化した毛も届かず、食われることもない。


 だが、牛の妖魔は牙をガチガチ鳴らすとブルルルと頭を振り、角に付いているものを振り払おうと暴れた。

 背に沿った部分が一際長い針のような硬質化した毛も逆立てる。


「邪悪な妖気だ。これが神獣なわけはないと思うけど、見分けるにも、まずは出来るだけ邪気を取り除かないと……! えーっと」


 深く息を吸い、呼吸整える。心を落ち着かせ、平静に。

 幼い頃に習い、実践もその頃以来だった方術、仙術を使った戦いには今では苦手意識が芽生えていた。


「それでも、やるしかない」


 片手で角を抱き込み、二本指を額の前で立てる。


鬼使神差グイシーシェンチャイ拆卸チャイシエ!」


 二本の指先が金色に光り出す。


 嫌がるように妖魔がますます暴れ、床に足がつかないまま駆け出した。

 空間を、ただ狂ったように暴走している。


「うわっ!」


 技を発動できないまま、キームンは角に両腕を回してつかまった。


 部屋中の石の壁にぶつかりながら、牛は暴走し、ぶつかるたびに振り落とされそうになる。


 駆けずり回る牛の上でタイミングを図り、手を離した。

 角を蹴って飛び上がり、宝箱の近くで浮遊している宝剣をつかんだ。


「ん?」


 一瞬、眉を寄せる。

 違和感があるが構っていられなかった。


 水色の長衣が横向きにひらひらと回転しながら落ちてくる彼を喰らおうと、口を開けて牛の妖魔が突進する。


 牙がガッチリと噛み合わせるが、その前に口内に剣を縦に突き刺し、咬合がそこで食い止められた。


「ふう」


 一息き、さらに暴れる舌の上に膝を突き、かがんだ姿勢で指先の光を灯し、同じ呪文を唱えて術を発動させた。


 金色の光が口内を照らす。


「よし! いい感じ!」


 ホッとした顔になると、そこで突っ張り棒の役目をしていた剣がポキンと折れた。


「偽物!? やっぱり!?」


 折れた宝剣とキームンは、発動させた光と共に舌の上で跳ね、喉へと転がり込んでいった。




 妖獣の喉に折れた剣を突き刺し、ぶら下がったキームンは額の汗を拭った。


「なんとか胃まで流されずには済んだな。ここはまだ喉なのかな」


 指先から離れた金色の術が浮かび、あたりが見える。

 どくん、どくんと脈拍のような音に合わせ、彼の周りを筒状に囲む器官が動いている。


「この妖獣の中の音か」


 折れた宝剣の欠片がキームンの上から落ちてきて、そのまま落ちていくと、じゅっとわずかに音が聞こえた気がして、腐臭が下から突き上げる。

 目の前では、細い線状になった毛が、手で掴めるほどの魚のように目の前をうねっていた。


「……気色悪」


 そう口に出さずにはいられない。


『早く……』

『……元の姿……に……』

『誰か……』


 牛の体内をこだまするように違う方向から聞こえてきたのは、男声だ。


「南方の言葉だ。広州あたりの、ここ香港でも話されてる」


 東方美人と港で仲介人をしていると、さまざまな地域の言葉が交わされる。そこでも聞いたことがあり、現に、先ほど逃げていったここのマフィアが話していた言葉と同じであった。


かね……俺のもの……』

『どうして……くれ……る……!』

『……あの男……!』

『俺の宝……を……!』


「さっきから聞こえては消えていくこの声は、この牛に食べられた人たちのものか? いや、でも、そんなに大勢の『気』は感じられないし、声も同じみたいだ』


 人のような気配も感じられ、記憶の断片が伝わってくる。


「これは本当に妖獣そのものなのかな? もしかして……。もう少し探らないと」


 うねうねと目の前で細長い魚の群れのように動くそれらを、思い切って手でつかみ、折れた剣を刺し直しながら登っていると、むず痒くなった妖獣に吐き出された。


 むせながら、透明な緑色の粘液にまみれて出てきたキームンは、近くに浮かんでいる書斎机に飛び乗った。


 ふと見ると、手下たちのいた階段から見下ろしている長身の男の姿があった。

 仁王立ちで腕を組み、かなりの威圧感に満ちている。


「ああ、ラプさん、いたの?」


 粘液を振り払って取り除きながら、キームンが嬉しそうな声を上げた。


 僕の様子を見に来てくれた……?

 ……なんか機嫌悪そ。


 おもむろに、ラプサン・スーチョンが口を開いた。


「きのこが全部ダメになっていた」

「え?」


 思わず手を止めたキームンが、二度見た。


「温度管理が悪くて違うきのこが生え、シロアリが発生していた」


 うわー……それは確かに食べられないや。


「俺があれほど管理に気をつけろと、温度、湿度、明るさ、その他栽培の仕方を指示したのに、俺がここから動くわけにはいかなかったのをいいことに、奴ら、サボっていたようだ」


「……あ、ああ、そう」


「だから、きのこが食えなかった。よって、焼き払ってきた」


「へ!? 焼き払……う?」


 キームンの脳裏を、上海マフィア、香港マフィア、この城砦に住む住民が駆け巡った。


「きのこ窟だけを焼いたんだよね!?」


「当然だ。炎を鎮めた後、風怜フォンリエンにも手伝わせて、換気もした」


風怜フォンリエンを換気扇代わりに……」


 片膝をついた姿勢のまま、キームンが目を丸くした。


「きのこを食べ損なった。そいつを抑えてたせいで——」


 薄紫色の煙のような髪が、ぶわあっと逆立ち、金色の瞳の眼が吊り上がった。


 片方の手のひらを上に向けただけで、指の関節がバキバキと鳴った。

 ただならぬ気配に、どこからか地響きのような音が聞こえ、周囲の空気が変わっていくのを、キームンは感じた。


「え、ちょっと待って!」


「ぶっ潰す!」


 ラプサン・スーチョンは静かに、だが強く、口にしていた。


「ちょっとー! ラプさん! 悪さをする妖獣か神聖な神獣かを見極めて、善処するんじゃなかったのー!?」


「もういい! ぶっ潰す!」


「ダメだよ! わかった! 僕がなんとかするから、そこで待ってて!」


 悪魔のごとく逆立った髪はわずかに降りるが、ぼわっと浮かんだままだ。


「早くしろ」


「わ、わかった! だ、だから、お腹が空いてるんなら、とりあえず上海蟹を食べててよ。えーっと、どこかその辺に樽ごと浮いてるんじゃ……」


 バリッ!


 いつの間にか、ラプサン・スーチョンが蟹を片手に持って、八重歯で食いちぎり、バリバリ、ゴキゴキと音を立てて噛み砕いた。


「か、殻ごと? ……まあいいや、食べられてるんなら。今はラプさんどころじゃない。とにかく妖獣を……!」


 ゲホッ、ゲホッとむせていた妖獣の赤い眼が、キームンをとらえた。

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