第五話 魔都から魔窟へ

「警察上層部の話では、中華界の最南端に魔窟と呼ばれるところがあるって。ここ上海みたいに、外国とも貿易できるような港町が作られたそうだね。ここからも船で行かれる」


「知ってる。東インド会社以外にも、そこと取引してる西洋の貿易会社が増えてきたわ。それで次第にマフィアも集まってくるようになった」


「さすが耳が早いね。九龍城砦(九龍寨城ジウロンチェイチャン)のこと、姐さんなら知ってるよね?」


 東方美人の瞳が光った。

 椅子の背もたれに寄りかかっている足を組み替えたキームンを、書斎テーブルの上に直に腰掛けてから見下ろした。


「あそこにはならず者やチンピラたちが集まっていて、犯罪が起きるのは日常茶飯事。警察もよほどの事件にならない限りは介入しない。マフィアまでが絡んでるっていう噂よ」


「特に夜になると誰も近づかないし、昼間でも怖がられてるところだってね。無謀だってわかってるけど、もしもそこを潰せることが出来たら、にも認めてもらえて、僕とやっと会ってくれるのかも知れない」


 懐かしそうに微笑むキームンだったが、瞳にはすぐに一筋縄ではいかないであろうことを覚悟している慎重さが表れていた。


「実は、私からも情報があるのよ。もしかしたら、かも知れない人の……」


 ハッと、卓上に腰掛けている東方美人を見上げる。


「格闘家だとか、貿易商かあるいは闇商人とか、……海賊とまで噂された謎の男の話を聞いたの」


「海賊? どこまで話がとっ散らかってるんだ」


 顔をしかめる。

 「そうね」とうなずいてから、東方美人が話を続けた。


「『彼』は故郷の福建を離れてからあちこち移動して、最近までは雲南にいたそうなの。そこの馴染みの店で『ちょっと出かけてくる』ってことづけたまま、ある日突然いなくなったんですって」


 よくあることだった、と二人は思い返していた。


「現に、そう言ってふらっと、あなたを連れてイギリスにも行っちゃうくらいだから、故郷の弟子たちも不思議にも思わなかったそうなんだけど、ここ数年はあまりにも音沙汰がないから、直に私のところにも相談があったのよ」


 彼らが、ねえさんにまで頼むなんて……よっぽどだ。


「私の情報網を使っても居所が掴めなかったし、謎の組織に拉致されて九龍城砦に連れて行かれただとか、そんな噂も聞いて……」


「あの人が? 誘拐された……? ありえない!」


「ええ、私もにわかには信じられなかったけれど、それ以来、福建の弟子たちも、雲南にいた仲間内も探してるのに目撃情報がないの」


 二人の間に沈黙が流れた。


「もし、本当に九龍城に連れていかれてたとしたら、……麻薬漬けにされて動けなくされるって、……警察からも聞いた」


「……もしくは——」


 じっと、キームンが東方美人の言葉を待つ。


「ボスになっちゃってる……か」


   ***


「イヤだよ、離れたくないよ!」


 わずか五、六歳のキームンは、長身の男の足にしがみついて泣いていた。


「大きくなれ。上海でビッグなおとこになれ。そうすれば、いずれ俺とも会える」


 低く、冷静な声だ。

 聞き慣れた保護者の男の美声。


 子供好きするやさしい口調とは言い難かったが、いつもその声に安心を覚えていた。


「お前には才能がある。戦い方の基本ももう教えた。使も。あとは自分次第だ」


「なんで戦わないといけないの?」

「必要なことだ。俺たちの仕事では」


「シゴト?」

「のし上がれなかった場合は、そのままずっと永遠に、外国人として上海に住んでいろ。その方が幸せだ」


「シゴトってなに? イヤだよ! 置いていかないで! 一緒にいてよ!」

「俺たち『青の民』は、ずっとそうやって生きてきた。今も昔も、これからも」


 泣き叫ぶ幼子キームンの頭を、男は大きな手で撫でると、煙管の煙を吐いた。


「待って! どこ行くの!?」


 煙ごと、男の姿はそこから消えていた。


「お前のことは、台湾から来た女に頼んである。彼女を姉だと思って、よく言うことを聞け」


 姿は見えず、威厳のある声だけが、そこに低く響いていた。


   ***


「あの時は、まさかイギリスからここ中華国に渡るなんて、思いも寄らなかった。仲良くしてた幼なじみとも名残惜しくて。その悲しみに暮れていた最中に、急にあの人まで去っていって……」


 しばらく泣いて過ごしていた日々が思い浮かんでいたのか、静かに、ふっと自嘲的にも見える笑いを浮かべて語り続けた。


「あの人のことで覚えてるのは、声と煙の香りだけだけど……、会わなくちゃならない。拉致されてるなら助け出さないとだし、ボスになってるなら、なんで悪をはびこらせてるのか。行ってみて確かめなくちゃ……!」


 東方美人は目を伏せ、彼から視線を逸らした。


「そう言うと思ったわ。でもね、キームン、あなたはまだ若いし、まだ出会ったことのないものもたくさんある。噂によると九龍城には、……人間ではないもの……まで巣食ってるって……」


「人間ではないもの……? どういうこと? 猛獣とかもいるの?」

「詳しくは知らないわ。聞こうとすると、皆、口を閉じてしまうらしいの」


 言っている自分さえでも半信半疑な東方美人の表情を、注意深く見てから、彼がうなずいた。


「わかった。気を付けるよ。姐さんは危ないから上海で待ってて」


「キームン」


「大丈夫、猛獣も生き物なんだから、煙は効くはずだよ」


 安心させるよう、笑ってみせる。


「だといいけど……。だったら、なぜ、『彼』はの? 何か恐ろしい目に遭ってるんじゃないか、って心配だわ。そして、あなたまでそんなことになったりしたら……! 『煙』が通用しない相手かも知れないわ」


「僕には蝶たちも付いてる。獣の存在には敏感だよ」


「そうよね。でも、あなたひとり行かせるのは、やっぱり……」


「ひとりじゃないよ。黒豹幇ヘイバオ・パンの残党を連れて行くよ。言わなかったっけ? 彼らに僕の配下になってもらって、今、蝴蝶幇フーディエ・パンって名乗ってるんだ」


 爽やかな笑顔でウキウキとしながら、彼は「エヘヘ」と無邪気に笑った。

 東方美人は、黒い大きな瞳を一層見開いた。


「そんなマフィアみたいなこと……!」


「だって、たったひとり若造が乗りこんで行ったところで、香港マフィアは相手にしてくれないと思って。黒豹の皆もカシラがいなくてヒマだって言ってたし」


 にっこり笑って、ウインクする。


「だから、そういう噂も、あえて流してもらったよ。マフィアルートと警察ルートに」


 呆れて、しばらくは物が言えない東方美人を見て、くすくす笑った。


「もし、あの人が本当に九龍城のボスになってるとしたら、『煙を使う西洋人が率いるマフィア』って聞けば僕のことだってわかるだろうし、囚われの身だったとしても、向こうのマフィアも情報を聞き出すためにも彼を生かしておこうと思うかも?」


「逆に、彼を人質に取られたらどうするの?」

「大丈夫、うまくやるよ」


 キームンの不適に輝く瞳を見つめると、「もう何も言わないわ」と、仕方のなさそうに頭を振って、東方美人は西洋人がよくやる仕草で肩をすくめた。


 煙管をふかしてから、これまでとは調子を変えて、キームンが言った。


「それにしても、姐さんは、僕がこの国に来たばかりのあの頃から変わらないよね。実は、いくつなの?」


「まっ! やぶから棒に、女性に歳を尋ねるものではないわ」


「そうだね、失礼しました。それじゃ、彼とはどういう関係だったの?」

「ただのお茶飲み友達よ。そう言ってるでしょう?」


 取りつく島のない彼女の受け答えに、困ったように笑い、肩をすくめた。


「だったら、いつから彼とは知り合いなの?」


 東方美人の目元が、ふっと和らいだ。


「遠い昔。まだ彼が阿種アージョンと呼ばれていた、美しいストレートな黒髪の中華人姿だった頃に」


 不可解な顔になり、キームンが首を傾げる。


阿種アージョン……子供の頃かな? ん? 姐さん、やっぱりいくつ?」


 東方美人は人差し指を唇に持っていき、大人の女性の微笑みになった。


「ひ・み・つ」


   ***


 雨粒が叩きつけられる甲板。

 大きく船艇が傾き、乗組員たちが駆け回る。


 舵を取る操舵手そうだしゅ波飛沫なみしぶきが降りかかった。


 先ほどまでの青空が嘘のようだ。

 普段は穏やかな青緑色の波が、黒々と怒りを携えているかのように行手を阻む。


「あと少しなのに……! ここまで来て、たどり着けないのか……!?」


「ボス! 甲板は危ないですぜ!」


 黒いスーツの男たち数人が呼びかける。


「僕は大丈夫だ。お前たちこそ船の中にいろ」


 大雨の中を進む三艘の小型船は、吹き荒れる風と波に揉まれていた。


 雨の中では煙管の煙も遠くまで飛ばず、蝶も風の抵抗を受けながら飛ぶことになる。

 東方美人の注告は、早々にやってきた。


「おい、先生シンサン! 危ねえから奥に入ってろ!」


 乗組員が雨にも負けじと大声を出すが、キームンは何かを待っているかのように、遠くを見据えている。


「あの西洋人、ホントは女なんじゃねぇの?」

「あんなヒラヒラした服着てるし。女が船に乗るのは不吉だって言うよな?」

「だけどよ、女だったらマフィアのボスなんかやってねぇだろ」

「そ、それもそうだな!」


 その時、乗組員とマフィアの手下数人は、目を疑った。


 青い蝶に導かれたようにやってきた青い小鳥が、キームンの白い指先にとまった。


 鳥の姿が小さく煙を上げて消えてまもなく、上空の黒々とした雨雲が、金色の稲光を走らせながら渦を巻き始めた。


「なっ、なんだありゃあ!」


 雨雲が渦を巻く。まるで何かに巻き取られているようにぐるぐると集まると、ゆっくりと空を滑るように移動していった。


「ありがとう、風怜フォンリエン!」


 キームンの呟きは、彼らにまでは聞こえていない。




「……奇跡か?」


先生シンサン、もう大丈夫! 大雨は上がりましたぜ!」


 弾んだ声に、碧い瞳が振り向く。


 嘘のように晴れ渡る空。


「陸が見えるぜ!」


 乗組員が大声で指差す方向には、緑の陸地があった。


「だけど先生シンサンよぉ、ホントに行くんですかぃ?」


 日焼けした上半身の、頭に布を巻いた男が、物好きなと言わんばかりの顔で、南方の訛り混じりで尋ねる。


「何度も言いますが、あそこは上海シャンハイ以上に……魔窟まくつですぜ?」


「出来れば誰も近寄りたくねぇトコロだぜ?」


 西洋人からすれば小柄に見える乗組員たちが、顔をしかめて、ダメもとで意思確認している。


 キームンの碧い瞳に強く浮かんだ想いは、言葉にせずとも魔窟の砦へと馳せていた。

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