第一幕 記憶のない男

 僕は夢の中で、小瓶を握っていた。とても美しい意匠が施された瓶の側面、すべての光をはじき返す銀色無垢な蓋。恐らく、どこかの豊かな家のものだろう。そう夢に意識が追いついた僕はどこか俯瞰的に思った。紛れもなく自分の夢ではあるのだが、どうにも他人の夢を見ているような気がしてならない。ただ、何が僕にそうさせたのだろうか、僕は小瓶の中の液体を飲み込んだのだ。恐怖も躊躇いもない。ただ連鎖する衝撃と悲しみだけがあった。液体がのどを通過してすぐ、意識が真っ黒な水に呑まれていくような感覚が僕を襲った。黒のインクが紙を侵食していくみたいに、僕の意識も飲み込んでいく。座っていられないほど苦しくなり、たまらず横になる。それでも黒い水は僕に押しよせてくるのをやめなかった。

 

 そして、とぷんと黒の水が僕を完全に包んだところで目が覚めた。






 薄く目を開けて、最初に目に入ってきたのは、どこまでも真っ白な世界だった。さっきまで僕を包んでいた真っ黒な泥の世界とは違う、どこまでも白い世界の中に僕はいた。ちかちかと目が痛い。そこで僕は何かふかふかなものに横たわっていることに気が付いた。ベットだ。白い雪のようなベットに僕は横たわっている。ゆっくりと体を起こすと、全身の筋肉が強張っているように感じた。

 上半身だけを起こし周りをじっくりと見る。どうやら僕は真っ白な世界でベットに横になっているわけではないと気が付いた。真っ白なカーテンが僕の座っているベットの周りを取り囲んでいるのだ。そのカーテンで区切られた狭い空間を、意味もなくきょろきょろと見回していると、なにやら外から人の声が聞こえてきた。


「きょうごご、じょせいごにんをさつがいしたとして、じゅうななさいのしょうねんがたいほされました」


 こう聞き取れたが、どうも意味がつかめない。じょせいごにんをさつがいしたとして、じゅうななさいのしょうねんが……。聞いたことのない言葉だ。でも間違いなくこのカーテンの外の世界には人がいる。どこか安心したような、でも心のどこかで恐怖しながら、僕は立ち上がり、カーテンをそっと開けた。

 人がいる……もしかしたらここがどこで僕がなぜここにいるのか掴めるかもしれない。その淡い期待は、カーテンを開けた瞬間崩れ去った。目の前には僕の足から肩までほどの大きさの机と椅子があったが人っ子一人としていやしない。じゃあこの声はどこから聞こえるのか。すぐにこの声は机の上に載っている四角い何かから発せられているのだと分かった。その四角い何かの中にはもう一つ世界が広がっていて、赤い服を着た女が神妙な面持ちで何か喋っている。

 僕はもしかしたらこの女と話せるかもしれないと、手を触れようとしたが、返ってきたのは硬い、無機質な感触だけだった。目の前の女は僕のことが見えていないようで、相も変わらず「ないかくはきょう、きたちょう……」と少しも変わらぬ抑揚でしゃべり続けている。僕は後ろに回り込んだ。この四角い板のようなものは薄く、到底人が入れるような広さはないだろう。ならこの中の女は何なのか。紙芝居のようなものなのだろうか。

 僕はその板をバンバン叩いたり、逆に話しかけたりしたが、何の反応もなかった。あまりにも何の反応もなく、ちょっといらだった僕は薄い板につながっていた紐を全部引っ張って取ってしまった。すると目の前の女は消え、ただ真っ暗な世界に切り替わった。


『あ、電源ケーブルぬいたな』

 と女の声が聞こえたのは、その瞬間のことだった。驚いて振り返ると、黒い髪を後ろでまとめた黒づくめの女が少し離れた場所に立っていた。

『目が覚めたようだな』

 そう真顔で言いながら、目の前の女は僕のベットの前に椅子を持ってきてそのまま座る。さっきの板の中の女同様、目の前の女の声は抑揚のないものだったが、今度はちゃんと言葉の意味が分かった。

『ここはどこ……ですか?』

 たまらず僕は聞いた。初めて言葉が通じ合う人間に出会ったのだ。この喜びと安心感は大きい。だが、僕の安心とは裏腹に、その女は少し驚いたような顔をした。

『おや、そんなことでいいのか? 私はてっきり自分の名前を聞いてくると思ったんだが』



『は? 自分の名前? そんなこと……』

 と僕はそんなことわかっていると言わんばかりに自分の名前を言おうとした。言おうと……した。……おかしい。自分の名前……。自分の名前が言えない。



 そうやって慌てている僕を尻目にその女は『やっぱりな』と薄い刃物のような笑みを作って『自分の名前が言えないんだろう? それどころか自分がどこから来たのかさえも分からない』と今の僕をえぐる言葉を矢のように放つ。確かにそうだ。そういえば僕はどこから来たのか全く覚えていない。それどころかどこで生まれ、どのような生活をしていたのかさえも。まるで濃い霧に包まれているかのようだった。僕はここで自分の腕が震えていることに気がついた。恐怖が襲いかかってくる。自分という存在を忘却してしまった恐怖。

 そんな僕を見兼ねてなのか、最初からこれを渡すために来たのか『差し入れだ』と目の前の女は小さなパンを出してくれた。

『……パン?』

『どうやら知識はあるようだ。なら話は早い』


 その女はひと呼吸おいて、僕に目を合わせた。黒々としていて、こっちを射抜こうとする鋭い瞳だ。


『単刀直入に言おう。君は物語の中から来た漂流者だ』



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