天空密室
第42話 エルメーテ
巷で有名なカバンのブランド「エルメーテ」の名前が私の事件簿の中で最初に出てきたのは『不明戦車の届け物』でのことだったと思う。
その「エルメーテ」が新作お披露目会をかの有名な飛行船、ハイデンバーグ号で行うと決定したのはついこの間のことだった。そして何を隠そう、このハイデンバーグ号こそが「エルメーテ」が開発した大規模旅客船だったのだ。そのことが公式に発表されたのは「エルメーテ」新作披露会の公表があったその日のこと。広報担当者がしれっと「『弊社の』ハイデンバーグ号ですが……」と口にしたのだ。マスコミ各社はそれはもう大騒ぎだった。あの船を、あの巨人の拳みたいな巨大な船を「エルメーテ」が開発したとは!
ハイデンバーグ号はその巨体から「天を支える船」「国を覆う船」、そして「かの伝説の箱舟」とさえ呼ばれていた。事実、その船が街の上を……そう、例え大都市ランドンの上でさえも……通ると街一帯がすっぽりと日陰に入ってしまうほどの、それはそれは大きな船だった。子供が「怖い!」と叫ぶほどの飛行船だ。泣く子も黙る、とでも言うか。
大小様々、古今東西、最新鋭、それぞれの浮遊魔法が閉じ込められた魔蓄をこれでもかと使った「浮かぶ歯車」。卵を思わせるつるっとした船体の根元には、大きなものはランドンの時計台くらいはある、そして小さいものは望遠鏡を用いてようやく観測できるくらいの細々とした、とにかくたくさんの歯車が使われ、それらがひっきりなしに回転することで魔蓄を動かす現代技術の粋を集めた飛行船だった。
そして娘がそれに招待されたのは、本当に唐突の出来事だった。
その頃はまさに「技術の臨界点」とでも言うべき時代で、懐中時計は女性の細腕にさえ巻き付けられるくらい小さな腕時計に進化し、人の顔を認識して吠える吠えないを判断する機械の番犬が屋敷を守り、魔蓄が搭載されることにより世界中の様々な情報を閲覧できる机ほどもある本が出回るようになった時代だった。娘はこの時二十歳を迎えた。
娘とグレアムくんの仲はと言えばそれはもう睦まじく、かつてはグレアムくんの一挙手一投足に頬を赤らめていた娘が今では幸せそうな笑顔を浮かべてグレアムくんと二人、台所で料理をするくらいになった。
グレアムくんがこれはまた器用で、大抵の料理は一人でこなせてしまうのだが、女中のアンに無理を言って毎朝朝食を作っていた娘も多少は料理が出来て、グレアムくんにあれこれ教わりながらも着実に腕前を上げていく毎日だった。
その日は晩御飯にローストビーフを食べようと話していた。グレアムくんはこの頃、娘の事件解決に伴う活躍で二等級昇進して、騎士団の中でも名の知られた存在になりつつあった。二十歳で二等騎士になれたのはグレアムくんが初めてらしい。あのバグリーさんでさえ二等騎士になれたのは二十一の頃だと……本当かどうかは知らないけど……言っていた。出世街道をまっしぐら、と言うとちょっとあれかしら。
胸に輝く階級章も増え、姿勢も真っ直ぐ、日頃の鍛錬でよりがっしりしたグレアムくんがいると私も心強かった。彼が来るまでは娘の危機の際、私が魔法を使って守るという選択肢しかなかったのだが、頼れる男性の実力行使という選択肢が増えて、私も大変頼りがいがあるのと同時に、娘と丁寧に向き合う時間が増えた。その日も私はいつもなら事務所の近くに張り巡らせていた探知の魔法を解いて、娘と夕飯の話をしていた。主にローストビーフの焼き加減についてだ。西クランフの伝統的な作り方では肉の表面をほんのり焦がす程度でほとんど火を通さないものが主流なのだが、しかしグレアムくんのものは東クランフ伝統の、前日から肉に塩を揉みこみ柔らかくし、割としっかり目に焼き、長いこと蒸し上げた上に布の袋に入れてちょっと茹でるというそれは複雑な工程を踏むものだった。私は事務所の入り口で気を張るグレアムくんにバレないように娘に言った。
「肉に火を通しすぎないよう言って」
「うん。でも……」
「問答無用よ。言いなさい」
「でも、お母さん。お父さんの地方の製法だよ」
それを言われると弱い。実際、アウレールの作るローストビーフは美味だった。あの味を思い出すと……とは思うが、グレアムくんがあれを作る保証はない。私は頑として娘に言った。
「私、パサパサした肉は食べないから」
「お母さん……」娘の困り顔。もう、そんな顔されたら強く言えないじゃない。
「お肉を二つ買いなさい」私は妥協案を提示した。
「作り方が二つあるなら肉を二つ用意すればいいのよ」
「ゲープハルトさんの肉屋なら安くお肉が買えるかも」
もう、と私は何度目かのため息をついた。
「あなたたち二人で稼いでいるんだからお金はあるでしょう。貧しいことは言わずにどんといい肉を二つ買いなさい」
うん、でも……と娘は口籠った。
「ほら、要り様だから……」
私は目を見張った。まさか。まさか。
「求婚されたの?」
大きくなりそうな声をやっとのことで潜める。娘はいつかのように頬を染めた。もごもごと口籠る。確かに二人は、最近よく出かけていたけれども……。
しかし娘の返事を待つのより先に、ドアのノッカーが大きく鳴った。グレアムくんが腰に手を当てながら応じた。
「はい」
すると客人が告げた。
「こんにちは。株式会社『エルメーテ』のルイス・メルヒューと申します」
この時の私の驚きはと言えば、それはまぁ、娘の先の告白よりは程度の低いものだったが、しかしそれなりには驚いた。待って、今、「エルメーテ」って言った?
グレアムくんがドアを開ける。するとそこには、くるんと曲がった髭がおしゃれな、色の白い男性が立ち尽くしていた……手には一通の手紙と、それから大きな菓子折りを持って。
「失礼。社長の命により、アポイントメントを取りに参りました」
郵便でお伝えしてもよかったのですが、とルイスさんは続けた。
「何分、内々にしていただきたい一件でして」
薄いグレーのジャケット。虫の羽のように光沢を放つそれは高級品であることが分かった。さすが「エルメーテ」の……と思うのより先に、彼は「こちら、マダム・ルネの焼き菓子です」と菓子折りをグレアムくんに渡した。それから東洋風に一礼して、娘に向き直った。
「弊社社長、ムーツィオから直々の依頼でございます」
ついさっきまで目をとろんとさせていたのはどこへやら。
娘はしゃんと姿勢を正すとパッチリと「真実を見る目」を見開いた。ルイス氏は微笑んだ。
「あなたのような高名な探偵様のお眼鏡に適う一件かと存じます」
「事前にお伝えしておかなければなりませんでしたが、危険な仕事は請け負いかねます」
グレアムくんがルイスさんの背後から告げた。氏は丁寧に振り返ると、「おや、あなたがいても?」とまた微笑んだ。グレアムくんは凛として告げた。
「レディを危険に晒すわけにはいきません」
「私もそれには同感です」
グレアムくんは眉をひそめた。しかし氏は丁寧に続けた。
「多少、危険はあるかもしれません。しかしそれに見合うバックがあります……ひとつは、報酬という点で」
それからルイス氏が懐から出してきた手形にはそれはもう、目が飛び出るほどの額が記されていた。しかもこれが前金らしい。だが娘は……これから何かと要り様らしい娘は……静かだった。
「もうひとつは?」
娘は穏やかに訊ねる。するとルイス氏は、今度はニヤッと笑ってから天を指した。
「お空に興味はございませんか」
まさか……とこの頃には、私もルイス氏が何を提案してくるか朧気ながらに分かり始めていた。果たして氏は声を張った。
「ハイデンバーグ号にご招待いたします……もちろん、そちらのナイトも」
私の目線の先で、グレアムくんがじっとルイス氏を観察していた……もしかしたらあの優れた鼻で、危険の臭いを確かめていたのかも、しれない。
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