特別編

あなたと過ごす初めての夏

 久々に拝んだ6月のお天道様は、容赦ない陽射しとなって雲の切れ間から猛烈に降り注いでいた。


 梅雨明けも間近と気象予報士が告げる夏日。

 休日の私の朝は、サウナと化した寝室の脱出から始まった。


 ここんとこずーっと雨で肌寒くて、冬物のパジャマに上着に掛け布団に暖房つきで寝たのが蒸し風呂のひと押しとなった。

 何その自殺行為。そうでなくても2階は熱気がこもりやすいのに。


「おはよう、ねぼすけさん」

 家主よりも家主じみている毬子さんが、エプロン姿で階段の下から出迎えてくれる。

 台所からはふわりと、揚げ物をしていたのか衣の香ばしい匂いが漂ってきた。


 最近は金曜の夜に恋人が泊まって土日をともにする、というサイクルが当たり前になっていた。半同棲ってやつかな。


「え、もうお昼……? 朝ご一緒できなくてごめんね」

「休日だからいいのよ。それに、あんまり気持ちよさそうに寝ていたからね」

「ご飯作るのは元々私の役目だから、叩き起こしてもいいんだよ?」

「そんなことできないわ。わたしにできる目覚ましは、おはようのちゅーだけよ」


 そう言って、両側から頬を挟まれた。手を洗ったばかりなのか、冷えた指先が火照った顔に心地いい。

 まだ眠気が残る眼へ、毬子さんの唇が近づいてくる。


「ん」

 柔らかい感触が吸い付くように押し当てられて、そっと離れていく。


「おめめ、覚めた?」

「あば、あばばば」


 あんまり自然な動作だったから直後は実感が湧かなくて、遅れて声帯が沸騰する。

 比喩ではなく、この熱気の中さらに燃料を投下されたものだから脳みそはぐらぐらと煮えたぎっていた。


 言語化できない喃語でどもりにどもりながら『どばばっちりですとも』と口にする。意味、通じたかな。

 

 にしても、日光に燦々と照らされた踊り場の暑いこと暑いこと。

 眠くて手すりにもたれ掛かってたけど、もう限界だ。いるだけでHPがすり減っていく。


「あっづいぃ……」

 生まれたてのゾンビみたいに身体を揺らして、居間へとよろよろ避難する。

 敷居をまたぐと、猛烈な風を吐き出すクーラーの洗礼を受けた。


 設定温度を下げると電気代に響くから、吹き付ける冷気は控えめだ。

 それでも、熱が体内にこもっている己には十分な爽やかさに感じる。座布団に膝をついて、エアコンの真下となるテーブルに突っ伏した。


 着替えも持ってきたのに、パジャマを脱ぐ気力すらわかない。冷房風をもろに受けつつ、身体から余分な熱が放出尽くされるのを待つ。

 そんな干物じみた私を見て、毬子さんが心配そうに覗き込んできた。


「もしかして熱中症になりかけている? 夜の間は危険だって言うし」


 飲み物持ってくるわ、といそいそと毬子さんが台所に向かった。

 戻ってくるのは早かった。とん、と目の前に透明なグラスが置かれる。


「ありがと……」

 単なる水かと思ったけど、飲んでみると甘い。わずかに塩分と酸味も感じる。ひょっとして、これ。


「え、すごい。経口補水液作ってくれたんだ」

「調べれば作り方くらいすぐに出てくるし、簡単よ? レモンもちょうどあって助かったわ」

「レモン……ああ、昨日唐揚げだったっけそういや。よく覚えてたね」

「中途半端に残ってたから、使い道が見つかってよかったわ」


 あー、生き返る。

 気分はさながら、砂漠に湧いたオアシスにたどり着いたかのよう。


 毬子さんは身を案じて、さらに首元へ保冷剤入りのタオルを巻いてくれた。こういうときに慌てず、さらっと対処できるってかっこいいよなあ。

 単なる先輩と後輩の関係じゃなくなっても、毬子さんにはずっと勝てる気がしない。


 処置が適切だったおかげで、プチ熱中症からの回復は早かった。

 だるさが抜けたと思ったら、朝も食ってないから猛烈な空腹感が胃をきりきりと締め上げる。時間的にもちょうどいいよね。


「お腹、空いてるよね。私も元気になってきたから鳴りそう。お昼にしよっか」

「それならもう出来てるわよ? おそうめんはラップ掛けてあるし、天ぷらも大根擦れば終わるから」

「ありがたやー」


 よく出来た嫁さんを持ったよ私ゃ。そんで年上で家主のくせして情けないぞ上里よ。


 食卓に集えば、勝手にご飯が出てくると思っていた。

 家がいつもキレイに片付いているのは当たり前だと思っていた。

 病気のときは付きっきりで看病してくれるもんだと甘えていた。亡くしてはじめて親の苦労が身にしみる。


「じゃ、じゃあ。並べるのは私がするから。毬子さんは居間でゆっくり休んでて」

「それじゃ、お言葉に甘えちゃおうかな。わたしもご飯も逃げないから、慌てなくていいからね」



 そんなこんなで、爽やかな昼食が食卓の上に並んでいく。


 木目の美しい飯台にさらさらと流れる、おそうめんの束。

 絹のような真っ白な空間に添えられた、青もみじと透き通る氷の粒が初夏の雰囲気を彩っている。

 青ネギとみょうがとすりおろし生姜、それとおろし大根の薬味たちを添えていただきます。


 天ぷらも難しいのに、からっと焦げ目なく揚がっていて実に食欲をそそられる。

 さつまいも、にんじん、かぼちゃ、れんこん、茄子とメンバーのチョイスもいい。衣がさっくりついただけで、野菜ってなんであんなに甘く美味しくなるんだろうね。


「あー、夏だねぇ」

「まだ梅雨明け宣言はしていないのだけどね」


 つるつるとのどごしのいい麺を啜って送り込んでいく。ラー油のピリ辛な刺激が喉にしみて、次のひと口を催促する。

 そうめんはアレンジレシピが無限大なのがいいよね。わんこそばのようにぐいぐいいけてしまいそうだ。


「夏って暑すぎるから苦手なんだけど、こういう切り取られた夏は好きなんだ」

 涼しい空間で、涼しい食事。そこから味わう夏の雰囲気は格別だ。

 こたつの中から降り積もる雪景色を満喫する冬場のように。


 窓の外は初夏の陽気ですっかり炎天下の世界が広がっており、肌で感じるまでもなくくそ暑そう。


 だけど、ゆらゆらと揺れる風鈴を見ていると涼しそうに映るから不思議だ。

 透き通ったガラスの向こう側に浮かぶ、遮光用のすだれ。

 園芸ネットに巻き付いた朝顔のつるが織りなす、緑のカーテン。


 五感に訴える涼は風情あふれていて、古き良き日本の原風景を呼び覚ます。


 夏の空って青というより、白っぽいイメージがあるんだよね。まぶしいし。水蒸気の量が多いことに関係してるそうだけど。


「夏ねぇ……なんでだか知らないけど、わたしは風邪で休んだ小学生時代を思い出すのよね。夏休みの記憶よりも」

 さくさくれんこんを齧っていた毬子さんが、物憂げな目で箸を置く。


「小鳥のさえずり、うなる飛行機のつばさ、尾を引いていく飛行機雲……のどかな夏の日にごろんと寝っ転がって、ぼーっと過ごすの。具合が悪いんだから休まなくちゃいけないのに、学校はいまなんの時間だっけって。そればかり気になって」


「あー、なんか分かるなぁ。夕方になると落ち着いてくるよね。みんな帰る頃だからかな。日曜の夕方はあんなに死にたくなるのに」


 規定上休みは取らなきゃいけないんだけど、どうも有給で休んだ日は落ち着かない。

 社会の忙しさから隔絶された平日の真っ昼間は、特に。人の気配に触れたくて、ついついSNSを覗いてしまう。


 夏ってどうして、流れる時間自体はゆっくりなのに急いでいるように感じるんだろうね。


「でもそれって、おひとりさまの寂しさもあったのかもしれないわ」

 こちらを見て、毬子さんがつぶやく。

 憂いを帯びた瞳が揺れて、何かを思い秘めたように口角が上がった。


「じゃあ、今は?」

 尋ねると、口元まで茄子の天ぷらが運ばれてきた。どういう意図かわからず、唇で受け止める。


「んまい」

 茄子って熱を加えるととろけて美味いよね。小学生の嫌いな野菜トップ10入りしているのが信じられないくらい。


「めぐる季節を一緒に過ごす人がいることが、何ものにもまさる幸せ」


 もごもご咀嚼する私へと、毬子さんが麦茶のグラスを掲げた。

 飲み込んで、もう中身の少なくなった自分のグラスを手に取る。そろそろ食べ終わるのにね。

 改めて、私達の関係に乾杯ってことかな。


 かちん、と小気味いい音を鳴らして。お互い顔を見合わせて笑った。



 あらかたそうめんを食べ終わって、二人で黙々と片付ける。

 残った天ぷらはまた今夜のおかずにすればいいだろう。天つゆでふやかして、ご飯に乗っけて。


「おいで、忍ちゃん」


 居間に戻ると、縁側へと毬子さんが手招きしてきた。

 傍には扇風機が回っていて、蚊取り線香のくゆる煙が爽やかな香りを立ち上らせていく。足元には氷水が張ったでっかい金ダライが鎮座している。

 暑さ対策も虫除けもばっちりだ。


「じゃ、お言葉に甘えて」


 隣に腰掛けて、むき出しの足を氷水の中へ沈めていく。扇風機の穏やかな風を受けつつ毬子さんへと頭を預けた。

 すぐに毬子さんのしなやかな指が後頭部に触れて、じんわりとうずく衝動が胸の奥に湧いてくる。


 行き交う柔らかい手のひらの感触に目を細めて、お留守になっていた片方の手を取った。そのまま腿の上へと誘導し、静かに指を絡めていく。


「暑くない?」

「陽射しは熱いけど、涼は取れてるから平気だよ」

「くらくらしてきたら言ってね。ここに連れ出したのもわたしのロマンみたいなものだから」


 すでに密着してる熱で別の意味でくらくらしかけているんだけど、そこは黙っておこう。


「やっと、夏が来たなあって。そう思うの」

 膝の上の毬子さんの手は、丹念に私の指を撫でている。

 慈しむように。離さないように。


「でもさっき、梅雨明け宣言はまだだって」

「わたしの夏が、ね」


 言葉をさえぎって、毬子さんは意味深な台詞を吐いた。そのまま距離が詰められて、額へと柔らかな感触が着地する。


「忍ちゃんと過ごす夏、とっても楽しみ」

「もう過ごしてるじゃんか」


 くすくす笑って、今度は私からキスのおかわりをする。

 頬へと口づけると、燃え広がるように毬子さんの顔に赤みが増した。


「忍ちゃんでのぼせそう」

「火がついてるからねー」


 今年の夏は、例年以上に熱くなりそうだ。

 秋も、冬も、春も、そしてまた来年訪れる夏も。

 こうしてずっと、四季と恋人を愛でていきたいな。

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