心境の変化、働き方の変遷
ここ2週間ほど、毬子さんは絵を投稿していない。以前であれば週に2枚ほどのペースで上げていたのに。
上げるのも手直しも消すのもスランプで充電期間に入るのも、すべては描き手次第だから詳しくは聞けないけどね。
就職してから更新が止まって事実上の引退……って流れも珍しくない。
社会人になっていちばん足りないと実感するようになったのは、時間だから。
代わりにと言ってはなんだけど、私への開発……いずれは来る初夜への準備はじわじわと進んでいる。自分の喉からあんな声が出るなんて、思いもしなかった。
ただ、私を触っているときの毬子さんはとても楽しそうにしているけど、ときどき実年齢よりも幼く見えるときがあるのだ。
なんだか、危ういな、優しく包み込んであげたいなって。
謎の母性みたいなものが私の中で目覚めつつあるのは、どういう心境の変化なんだろう。
あれからデイリー20ケースのノルマもまあまあこなせるようになり、手作業なら使い物になると判断された私は新たな作業に当たっていた。
ライン作業・点検・梱包・機械操作すべてを単独で行う、この工場内でもっとも過酷な生産現場へと。
担当者は川角さん。
これら一連の動作をたった一人で難なくこなす大ベテランであり、あまりの複雑な工程についていけた新人はほとんどいない。らしい。
例外は毬子さんくらいだ。彼女の懇切丁寧なマニュアルがなかったら、私も投げ出していたかもしれない。
「エラーランプ鳴ってるよ。直してー」
「は、はいっ」
パーツの詰まりにより機械が停止したため、急いで問題箇所の点検にあたる。
鉄筋スペーサーの束を加工機に乗せた際、ひとつでも組み方が間違っていたり隙間がぎちぎちだと後続がつかえてしまう。これで何度も機械を止めてしまった。
なのでわずかな時間できれいに並べて乗せないといけないんだけど、丁寧にやっていたら吐き出された加工済みの商品があふれ返って床に散らばってしまう。
そうなる前に、箱に詰めないといけない。
もちろん、個数も並べ方も決まっている。これもひとつやり方をミスると梱包できなくなってしまうのだ。
できたケースはパレットへと積み上げていくんだけど、箱一つの重さがかなりのものだから高く積み上がっていくにつれて腕がぷるぷるしびれてくる。
配属されてからもう、全身筋肉痛だぜ。
「はい、お疲れさん」
少し休憩しようか、と川角さんが機械を止めた。椅子を引いて、飲み物までおごっていただいた。
ご厚意に甘えて、よぼよぼの老人みたいな動作で椅子へと座ると。
「きついでしょ。私も仕事も」
笑顔でさらりと答えづらい質問をされて、口角がこわばる。
本当にきつい方はきついって自覚はございませんから、川角さんはお優しい方ですよと前向きに返すと。
「上里さんは褒め上手だね。でも私ゃ、よくいるタイプのお局だよ。見て覚えろってへったくそな指導しかできなくて、何人もの社員とトラブってねー」
すっごい返しに困るよ川角さん。
まるで良き思い出のようにしみじみと語るもんだから余計に。
しかし社員とのトラブルか。以前狭山さんから聞いたな。
”あの人は謙虚にしていれば扱いやすいから。下手に反発してギスって、女性社員がもう限界ですって集団で私に訴えてきた過去があったから”って。
女性社員が極端に少ない理由、そこも関係してるのかね。
「でも、あれだけ複雑な仕事をひとりでぜんぶできるのはかっこいいと思います。工場長もお褒めになっておりましたよ。機械整備までできる女性社員はなかなかいないから、定年後も再雇用した唯一のお方だって」
「へえ、あいつそんなこと言ってたんだ」
川角さんはどこか棘のある声に乗せて、肩をすくめた。
「私みたいなおばあさんがいるのって、他にできる人がいないから泣きつかれただけなんだよね。属人化ってやつ。それは下についた子に引き継げなかった私の責任でもあるから、辞めるに辞められなくてね」
「確かに大変なお仕事ではありますが、マニュアルもあるのでなんとかついていけそうです」
「ね。ほんと偉大だよね、本庄さんのマニュアル。ああいう頼もしい子がいれば、そろそろ死にかけだったこの会社もちったあ延命できそうだわ」
長らく勤めているゆえの容赦ない一言を吐くと、川角さんは顔を突き出しずいと距離を詰めた。
声も小さくなって、内緒話の体勢に入る。
「私、そろそろ辞めようと思うんだ」
あなたに一通りの指導を終えたら、と川角さんは柔らかい笑みを浮かべる。
「そうなのですか? このこと、工場長には……」
「言ってる。もともと再雇用も乗り気じゃなかったしね。いつ身体にガタがきてもおかしくないし。本庄さんみたいに優秀な人や、金子さんや上里さんといったガッツある人も来てくれた。だからもう、老人は引っ込むべきなんだよ」
つまり、優秀な人が来ない限りはずっと使い潰される予定だったのだろうか。
そういった指導の面で致命的な欠陥を抱えているから、部長が業務改善に派遣されたんだろうけど。
「そうだねえ。部長は再三マニュアルの必要性を説いていたけど、この会社だーれもPCに詳しい人いなくてね。まあそれでも知識を書き留めていくだけなら問題ないから、写真取ったり機械整備の詳細はメモに残していたりしたよ。これも部長の指示だってんだから、いかにこの会社が古い形態で続いていたかわかるよね」
ああ、だから毬子さんのマニュアルはあんなに詳しい仕上がりになったんだ。
いくら毬子さんが優秀でも、個人での把握量には限度がある。
全部の作業工程を覚えるならなおさらだ。苦労が偲ばれるよ。
「なので仕事に未練はないんだけど、問題は人間関係でねぇ」
川角さんほど肝が座っていて誰も文句が言えないほど仕事ができるお方が、いまさら複雑な関係にある社員さんなどいるんだろうか。
「狭山さんだよ。私も人のこと言えたもんじゃないけど、あの人もあの人で面倒くさい方だから」
「は、はあ」
狭山さんか。
ずっとお昼を一緒にしてきた川角さんなら、狭山さんが私を避けた理由を聞かされているはずだ。
いったい、何が重なってああなってしまったんだろうか。
「よくある話だよ。仕事が取られそうになって焦った。単純にあなたがきれいだから嫉妬した。くだらない劣等感さ」
意外とあっさり、川角さんは教えてくれた。
……ってことは、私の見えない場所で普段から愚痴っていたのかなあ。
「仕事の問題点は矯正できても、人の心はそういかないもんだね。狭山さんもずっとワンオペだったのに見直さなかった会社側にも問題はあるし、完全に悪い人ではないんだけどさ」
その件に関してはびしっと言ってくれたらしい。
あと、自分が辞めたら狭山さんがお昼ぼっちになってしまう後ろめたさもあるのかなあ。狭山さんも定年まであと数年とはいえ。
「事務として入ったのに左遷って。話が違いすぎるよね。いくら人手不足だからって」
「現場での経験を積ませていただけるだけありがたいと思いますので、平気です」
また就活地獄を味わうくらいなら、どんなにきつくたって仕事を紹介してもらえるのはありがたいことだ。
狭山さんに関しては恨んでる時間がもったいない。周りが怒ってくれたみたいだし。
川角さんは眉根を下げてくしゃっと笑うと、いきなり『お疲れ様です』と私の背後に向かって頭を下げた。
ん、誰か来たのかな?
「お疲れさまです。マニュアルをご活用いただけているようですが、何か追記したほうがいい箇所はございますか?」
毬子さんだ。直属の上司であるからか、見回りに訪れたらしい。
新人からのまっさらな視点もマニュアルのブラッシュアップには欠かせないそうで、手にはメモ帳を持っている。
「そういえば先程、プレート部分が切断されず機械から飛び出るトラブルが起こったのですが、そちらの対処法もつけていただけると嬉しいかなと。写真は取りましたので」
「たしかにそれは盲点でした。貴重なご意見、ありがとうございます」
機械がエラーを起こした際のトラブルガイドはそういえばなかったから、写真を取っておいてよかった。
「もー、本庄さんさっきからめっちゃこっちガン見してるんだもの。大丈夫だよ、べつにいじめてたりなんかしてないから」
「あ、はい。本当ですよ。世間話をしていただけですので」
狭山さんの件があったから心配してくれたのだろうか。それは部下としても恋人としても嬉しい、のだけど。
「それは安心しました。とても頑張り屋さんな方ですので、きっとすぐに覚えてしまいますよ」
少々過剰なお世辞を乗せながら、毬子さんは私の両手を握ってぶんぶんと振ってくる。
川角さんは歳が近いと仲も深まるんだねーって笑って流してくれるけど、ここのところスキンシップ増えたよなあ。
やっぱり、なにか不安なものを抱えているのかな。
これまで甘やかされるだけだった立場を見直して、支えていけるようになりたいと私は思い始めていた。
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