持病について

 話は入社日より少し前にさかのぼる。


『3番線、ドアが閉まります。ご注意ください』


 ゆっくりと加速する電車と、足早に歩いていく乗客が通り過ぎていく。


 一体何本、この凍える駅ホームのベンチで見送ってきただろうか。

 それもこれも、久々に電車なんてものに乗ってしまったせいなのに。


 ……あ。

 ぶり返してしまった。

 緊張の熱が引いて、生あくびが喉から這い出てこうとする。1回だけではなく、続けざまに。眠気なんてないのに。


 口を閉じてこらえたものの、一度癖がついた喉にはまた異物感がへばりついてくる。

 脳に不足した酸素を補おうとあくびへの衝動へと入って、喉がふさがり、やがて空えずきとなって吐き出された。


「こっ、ごふっ」


 苦しい。喉に圧がかかるたびに涙が押し出されて、視界がにじんでくる。


 今は少しでも身体を軽くしたい。

 厳しい寒風が吹き荒れる中、私はコートを脱ぎ捨て乱暴に膝へ掛けた。マスクも顎へとずらす。


 暇つぶしにじっとスマホに目を落としていたせいか、がんがんと眉間を打ち鳴らす頭痛が止まらない。


 薄着になったせいで、真冬の容赦ない気圧に歯ががちがちと震える。

 乾いた寒風が、喉から肺にひりひりと取り込まれて空咳が起こる。


 今はそれでも構わなかった。とにかく風に当たりたかった。


 この持病、パニック障害と付き合ってもう何年にもなるが、今日は特にひどい。


 どれくらいかと聞かれれば、今日中に最寄り駅までたどり着けるか不安を覚えてきたほどに。


 私は一駅乗り過ごしたら下車して、次の電車が来たらまた次の駅まで我慢という各駅下車を繰り返している。


 そして発作がピークの今は、電車を待つ人の列にすら並べそうにない。


 とりあえず今は、おうちに帰りたい。

 ただそれだけを願って、体を丸め耐え忍ぶ。


 奇しくも状況が名前に掛かっていて、そこまで体を表さなくてもいいのにと思った。



 密閉空間が無理なのでタクシーもバスも使えず、最寄り駅から歩き続けて20分。

 やっと築30年の自宅が見えてきた。気分はさながら、戦地から命からがら引き上げてきた兵士のよう。


 時刻はもう、夜8時。

 過呼吸に耐え続けた胃が、ぴきぴきと痛みを訴えている。なのにまだ喉のつかえは取れない。久々に遠出したから反動がきたんだろう。


「ただいま」

 返事が帰ってくることのない、住み慣れた我が家にご挨拶。

 実家暮らしってあまりいい顔されないけど、もう同居する家族がいない場合はどうなのだろう。


 父は出ていった。きょうだいも出ていった。ペットの猫は半年前、最後の一匹が虹の橋を渡った。


 そして母も、三ヶ月前に帰らぬ人となってしまった。

 何の前触れもなく、おやすみと布団に入ってそのまま永遠の眠りへとついてしまった。


 介護で心をすり減らすことなく逝ったというのは、どちらにとっても良いままの思い出だけが残るからそこまで喪失感はなかった。


 私もきっと、生まれ育ったこの家でいずれ朽ちていくのだろう。


 心残りがあるとすれば。

 母の生きている間に、せめて台所だけでもリフォームしてあげたかったと思う。


 いや、今からでもできるか。

 仏壇が飾られているのだから、それにふさわしい家に直してあげないと。

 最後の家主の務めとして。



 年末だからかな。急に湧いてきた寂寥感を振り払うように、私はPCの電源を入れた。

 こんなおセンチな夜は、たくさんの美人に癒やされよう。


「よき……」

 イラスト投稿サイトに上がってくる美女を眺めているうちに、寂しさと胸のつかえは取れてきた。


 二次元の女性は心のお薬だ。

 幼女も少女もお姉さんも熟女も老女も人外も、すべてが絵描きさんの手にかかれば美しい。


 ただの線と色の集合体なのに、それらを自在に操って一つの芸術作品へと浮かび上がらせられる絵描きさんはまさしく神様だと思う。


 私は二次元の女性が大好きだ。

 絵買いした書籍は何冊もあるし、美少女ゲームもたまに買っている。美少女アプリも同時並行しているやつがいくつもある。


 昔ほどオタクに対する偏見は薄まったけど、まだまだ美少女系は肩身が狭い。


 童顔と女体を強調した絵が多いから、同じ女性から見ると全く無理か全く大丈夫かの両極端に分かれる。

 女性作家も消費者も、わりといるのだけれど。


 今日も厳選した美女をブクマして、あんまりツボを突いたエモい絵にはウザ絡みにならない程度にコメントを残す。



 そろそろ寝よう。私は遠出の疲れを癒やすべく電気を消した。

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