第17話:少し、怖くなって
「――て」
何だろう?
懐かしくて、包み込むような優しい音がする。
”悠斗、父さんは少し、大きな仕事をしてくる。いい子でいてくれるかい?”
”いつもはそんなこと言わないのにどうしたの?”
”実は、これが終わったら悠斗に話したいことがあるんだ。だから、待っていてくれるかい?”
”分かったよ! 父さん、気をつけて行ってきてね!”
中学一年生の俺は笑顔で送り出そうとする。
不思議なことに、もう一人の俺がその俺を見ていた。
――これは、記憶……?
「――くん――きて!」
高校生の俺は、声を発することもできず、暗がりの中から父さんに手を伸ばす。
――行っちゃダメだ! そうしたら、二度と俺の前に戻ってきてくれない!
口も喉も必死に動かしているのに、声が出ない。
それでも、呼びかけ続ける。
そんな高校生の俺を父さんは見ない。
代わりに中学生の俺に視線を向けているようだった。
だが、顔がモザイクでもかかったかのように曖昧で、どんな顔で見ているのかは分からない。
”行ってきます”
父さんはその言葉を残してからは一度も振り返ることなく、光の中に消えていこうとする。
――待って! 待ってよ、父さん!
お願い、返事をして。
俺が悪かったなら、全部謝るから。
――だから――。
深紅の粘ついた液体が視界を染め上げる。
♢♢♢
「起きて、夜宮くん!」
俺が目を開けると、覗き込んでくる綾香がいた。
その瞳は心なしか潤んでいるようにも見える。
「……ん……どうした……? ……っ!? なんで綾香が俺の部屋に!?」
「それよりも! 随分とうなされてたみたいだよ? 本当に大丈夫なの!?」
「あ、ああ。何か言ってたか、俺」
頭痛と寝汗がひどい。
おまけに若干の吐き気が身を苛んでいる。
思い出そうとすれば、おぼろげに父さんの夢を見ていたというイメージが残っている。
きっと大学時代の父さんの知り合いである神原さんが父さんについて話してくれたからだ。
でも、それも一秒ごとにどんな内容だったのかが溶けて分からなくなろうとしている。
ただ、父さんが出てくる辛い夢を見ていた、という認識しか残らない。
そんな俺を見る綾香は心配そうに手を握ってくる。
「お願い、返事をしてって。俺が悪かったなら全部謝るからって言ってた」
「……そう、か。俺には細かい内容まではもう思い出せないけど、きっと父さんがいなくなった時の夢を見てたんだろうな。……はは。未練がましいな、俺は」
いまだ太陽も昇っていない午前三時ごろだ。
粛々と時間を数えるデジタル時計の数字を見て、脳内が現実にアジャストする。
同時にそんな時間に俺の部屋に薄着でいる綾香から目線をそらす。
彼女の格好もそうだったが、俺の言葉を聞いた後の切りつけられたような表情と無言がきつかったから。
「……それで……? お前が何でここにいるんだ……?」
「忘れたの? 泊まっていいって言ってくれたこと」
そうじゃない。
いやそうなんだけども。
俺が綾香に提示された条件のもう一つが、時々一緒に暮らすこと。
いわゆる半同棲という奴だ。
ひどいことをした俺には拒否権などなく、受け入れるほかなかった。
「そうじゃなくて。確かにそう言ったけど、多少の荷物整理とかがあるだろ。すぐに終わらせて真夜中に俺の部屋に入ったっていうのか?」
「うん。少し、怖くなって。ううん、何でもない。ごめんね、こんな時間に、しかも寝てたのに」
いまだ夜空の向こう側で銀光を注ぐ月の温もりが綾香を普段以上に飾り立てる。
「この時間に来たのはよくないと思うけど、起こしてくれたことは助かったよ。時々父さんの夢を見るみたいなんだ。どうすれば俺は父さんといられただろうって。理由もなく父さんはいなくなったりしないから、たぶん俺のことを想ってなんだろうって。それでも心のどこかではただ鬱陶しかったから捨てられたんじゃないかってささやく俺がいる」
ふと綾香が手を伸ばしてくる気配を感じる。
それは壊れかけの陶磁器に触れるような動作に似ている。
でも、そこで思いとどまったのか行き場を失った手は彼女の胸元に戻っていく。
「わたしには、何もできないね……。でも、こうして言葉をかけることはできるから――大丈夫だよ、夜宮くんは独りじゃない。独りじゃないから」
まっすぐな瞳に打たれ、そして心に刺さった氷柱も幾分か細くなった気がする。
「綾香みたいな幼馴染がいて、俺は恵まれてるな……」
この時はすぐに眠ってしまった。
今度は悪夢を見ることはなかった。
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