第8話:おれが嘘つきだってことだ
「時雨、今日はお前の食事当番だけど作れる?」
「も、もちろんだ!」
父さんはまだ眠っている。
父さんの今の仕事は絵描きとアルバイトだ。
普段は趣味の絵を描いて、それを売って日銭を稼ぎ、時たま依頼絵のオーダーも来るので、贅沢せずに過ごせるくらいには余裕があった。
アルバイトは深夜のものを引き受けているらしく、こうして朝は眠っているのが通例だった。
俺が朝早く起きて朝食を作るのは少しでも父さんを楽にしてあげたいからだ。
そんなことを考えていると、新しい同居人が危ない手つきで包丁を持っていることに気づく。
これから少しの間だけ一緒に過ごすのだから、家事は分担してやろうと決めごとをしたのだが。
慣れない手つきで野菜をカットしていく時雨に、ある事実を見出した。
「……もしかして、時雨って料理したことない?」
「……っ! だったら、どうするんだ!?」
時雨はよほど恥ずかしかったのか、ムキになって攻撃的な視線を向けてくる。
「ははは、そんなに恥ずかしがらなくたっていいじゃん。俺が多くはやるからさ、時雨には野菜の皮むきをお願いするよ」
俺は少しでも時雨の手間にならないようにと考えて提案したのだが、その言葉にさらに怒り面になる。
「ふん、嫌だ。おれは包丁を使えるようになる」
「ならそうだなあ……」
俺は家にあるもう一つの包丁――それも今使っている奴よりも一回り小さいものを渡す。
「ならさ、それ使うといいよ。大きい奴よりも軽いし、扱いやすいからさ。それと、野菜の切り方はこうだよ」
俺は猫手にして、手際よく野菜を刻んだ。
トントンという規則正しい音が実は好きだったりする。
それをじっと見つめていた時雨は一転して遠慮がちな表情を浮かべる。
「う……。なんか、すまない」
「いいって! その代わりと言ってはなんだけどさ、時雨の家族についても話したくなったら話してほしいかな」
「は!? な、なんで……。人の家族のことなんて聞いても何も面白くないぞ」
「時雨にとってはそうでも俺は気になるなあ」
俺の様子が気になったのか、手を止めて覗き込んでくる。
「どうしてだ?」
「俺の母さんさ、俺が赤ん坊だった時に交通事故で死んじゃったんだ。そんなだから、母親っていうのがどんな感じなのかがよく分からないんだ。きっと優しいんだろうなって」
「……ごめん」
「いや俺からこの話振ったんだし、何も気にしてないよ。で、どう?」
「……ふん。夜宮は夢を見すぎだ。おれの母親は優しいけど、怒ると角が生える」
ツンとした態度で切り返し、再び朝食の準備に戻る時雨の包丁さばきは危なげが消えていた。
それにしても角、か。
その大げさすぎる表現に笑ってしまう。
「楽しいな」
「なんか言った?」
「いいや」
俺は同じ年の男の子が話し相手になってくれることに充足感を覚えていた。
だからかは分からないけど、からかい気味になってしまったのかもしれない。
釣り目で抗議してくる時雨が面白かった。
♢♢♢
今日は俺の部屋で漫画を読んでいた。
本棚は小さいのに、それでも本がいっぱいになっていないのは文字通り贅沢するだけのお金はないからだ。
だから、父さんがくれるお小遣いを貯めて、時たま漫画や小説を買うのだ。
「時雨は読んだことないんだっけ? その漫画」
「ない。親が厳しくてゲームとかもダメ。いつも勉強させられて息苦しいんだ」
「なら、初めての漫画はどう? 気に入ってくれた?」
「うん。なんか夢が詰まっててすごく楽しい。ありがとう、夜宮」
「別にいいよ」
改まって礼を言われてこそばゆくなった。
そろそろ時間もいい頃かな。
「俺は昼寝するけど時雨はどうする? 今の時間帯が一番日が当たって気持ちいいよ」
俺はごろりと寝転がって時雨もすれば?と誘ってみる。
時雨はちらりとこちらの様子を見る。
「おれは遠慮する。もう少し漫画読んでいたいし」
「そっか……」
その時点で俺は眠りに落ちてしまっていた。
「ん……」
どれくらい眠っていたのだろう。
ぼんやりとした目を開けると、窓から黄昏時の光明を見ることができた。
ふと、右腕に重みを感じた俺は急激に眠気が消えていくのを感じる。
見るとそこにはあどけない表情を浮かべる時雨がいた。
俺の腕に触れていたのは時雨の頭だった。
「いつもクールなのに、寝顔は可愛いんだよなあ」
同年代の彼の頭をそっと撫でてやるのだった。
♢♢♢
「な、時雨。お前って俺と同じくらいの年だろ?」
「十二」
「同い年だ。じゃあさ、中学校はどこに通うんだ?」
「私立
「え!? そこって、お金持ちだけが入れる有名な進学校じゃん! 時雨はいいところの子だったんだな」
「あ……」
しまった、というように口に手を当てる時雨だったが、出した言葉は戻らない。
「夜宮は案外意地悪だな。おれに誘導尋問するとか」
「ゆうどうじんもん?」
さすがにそんな言葉は聞いたことがなかった。
小学六年生にしてそんな言葉を知っている時雨に感嘆する。
「知らないならいい。それよりもどうしてあの時、助けてくれたんだ? あの時のお前は知らなかったはずだろう? おれが金持ちだなんて」
「あ、もうお金持ちは否定しないんだ。俺はさ、目の前で困ってる奴がいたら放っておけないんだよ」
「なぜ?」
訝しげに表情をうかがってくる時雨に、少し前のことを思い出しながら言葉を紡ぐ。
「俺には幼馴染がいるんだ。今は遠く離れたところにいるんだけどさ。そいつはよく俺に面倒ごとを持ってくる奴だったんだ。そうだな……。例えば、大事にしていたぬいぐるみが壊れた時に、直してってきたり、絵本読んでっとかね」
「それでおれと幼馴染のその子を重ねたっていうこと?」
「まあ、それもあるけど、やっぱり困ってる子は見捨てられないさ」
時雨はふーん、とうなずくと急に頭を下げてきた。
「ごめん。おれさ、実は十神時雨って名前じゃないんだ」
「え……?」
衝撃的な事実に雷に打たれたようになる。
「おれの本名は十文字時雨だ。ほら、聞いたことはあるだろ? 十文字財閥の跡取り」
「え!? あの十文字!? はは……。いいとこなんてもんじゃないね……。でもならどうして、あんな路地裏で絡まれてたのさ」
「話しづらいんだけど」
「話したくないなら、いいよ。無理に聞くつもりはないし」
人には突かれたくない話題というものがあるということも知っていた。
「お前は他の奴らみたいに目の色を変えたり、態度を変えたりしないんだな」
「だってさ、時雨は時雨でここ数週間過ごしてきた時雨が全部だろ?」
「……ああ、そうだな」
時雨は俺の背中に自分の背中を寄せてきた。
互いに支え合うような形になり、どこか気恥ずかしい。
♢♢♢
「時雨様、お迎えに上がりました」
それからさらに一週間ほど経過し、俺も時雨も中学生になる四月まで残り数日になったころだった。
このアパートの前に黒塗りで長い車が停車していた。
傍目から見ても分かるこの高級車の扉を開けるのは綺麗な白髪になった執事だった。
本当に執事なんているんだ、と一瞬呆気にとられたことを覚えている。
「貴方様が夜宮悠斗様ですね。お父上の方はどうなされましたか?」
「父さ――父は気恥ずかしいからと朝早くから出かけていきました。すみません」
「いえいえ、できれば悠斗様とそのお父上にお礼を申し上げたかったのですが。ではその分も悠斗様へ。――この度は十文字家次期当主である時雨様の面倒を見てくださり、心からお礼申し上げます」
「いえ、大したことはしていませんから。俺――私こそ、時雨、さんにお話し相手になってもらえて楽しかったです」
言い慣れていない敬語やら、普段付けない”さん”にたどたどしくなってしまう。
「悠斗様、無理をなさらなくて大丈夫ですよ。どうぞ、いつも通りにお話ししてくださればと。それにしても、その年でしっかりしていらっしゃいますね」
「そんなことはないですよ。俺にとってはこれが普通ですから」
俺はいつも通りに振舞うことにした。
うん、こっちのほうがしっくりくる。
「
「申し訳ありません、時雨様。悠斗様、大変申し訳ございませんでした」
「い、いえいえ!」
「すまないな夜宮……鷹条、お前は車の中で待っていろ。少しだけ夜宮と話したいことがある」
「承知いたしました」
胸に手を添え、丁寧にお辞儀をしてから執事さんは戻っていった。
「夜宮、少し話そう」
そういって俺たちは少しの間、話すことになった。
♢♢♢
「本当にすごいんだな、時雨の家って。執事さんと話すときもものすごく緊張したし」
「その割には話せていたと思うけどな」
「見てたんなら早く来てほしかった」
俺のぼやきとも取れる弱気な言葉に時雨は愉快さを見出したようだった。
時雨がこっちに来たばかりの頃、「意地悪だ」と言われたことは記憶に新しい。
本当はどっちの意地が悪いのか。
「それなりに面白かったからな。――夜宮、実はお前にはもう一つ謝ることがあるんだ」
「時雨は謝ってばかりだ」
「……そうだな。それだけおれが嘘つきだってことだ」
「それは違うよ。時雨は必要な嘘しかつかない。最初の嘘だって、正体を知られたらこの生活がなくなるって考えたんだろ? 時雨にとって、ここは多少なりとも過ごしやすかった」
「ああ、その通りだ。……半分はな。おれは財閥の跡取りだってだけですり寄ってきたりするやつらが大嫌いなんだ。だから、もしかしたら夜宮もそうなんじゃないかって少し怖かった」
「ん?」
その通りだ、のあとになにやらぶつぶつ言ったようだけど、俺には聞き取ることができなかった。
「さ、もう一つの嘘を明かそう。おれを捕まえていた奴らがいただろ?」
「ああ、うん」
「そいつらは十文字家現当主――おれの父が仕掛けたものなんだ」
「え? どうしてさ……。実の子に対して」
「おれが、その、内容は話したくないんだが、とある一件で父ともめた際に家出したんだ。そのときに、この際にきついお灸をすえてやろうってことで、父が雇った不良たちだったんだ。だから、傷つけられることはなかったんだ」
「でも、嫌だったんだろ?」
「……そうだ。夜宮は本当に変わった、でもいい奴だよ」
時雨がはにかんで笑う。
その笑顔を見れただけで、助けた意味があるってもんだ。
「だったら、助けたのは正しかったってことだ」
「夜宮はそういう奴だったよな。この数週間、楽しかった。ありがとう。なにか、困ったことがあれば気軽に頼ってほしい」
そう言って手渡されたのは一枚の名刺だった。
そこには電話番号と時雨の名前、住所が描かれていた。
「もらってもいいのかな。俺は――」
言いたいことは時雨にも伝わってしまったらしい。
俺が言い切る前に手のひらで制されてしまう。
「ストップ。それ以上はなしだ。――じゃあな、また何かの機会があれば」
そう言って時雨は執事が待つ車に乗り込み、帰っていく。
「そういえば、時雨が家出した理由って何だったんだろうな」
気になることはあるけれど、時雨と一緒に過ごせて楽しかった。
♢♢♢
「へえ……そんなことがあったんだ。夜宮くんは昔っから優しいもんね。その子もきっと、夜宮くんを友達だと思ってるよ」
「どうだろうな……。あっちが友達と思ってくれているなら嬉しいけど、そう思ってない可能性もあるんじゃないか? あんまり友達の概念が分かってないんだ、俺」
変態的な理屈をこねる俺に綾香は疑問を口にする。
「どうして……?」
「まあ、それは……まだ話そうとは思えない。お前だって、こっちに来てまだ一か月くらいしか経っていないだろ? 暗い話はまたいつかにしよう」
「ん、わかった。でもさ、わたし、待ってるから。夜宮くんが打ち明けてくれるのを。それがきっと絵を描くのを止めてしまった理由にも繋がるんだよね」
「っ!? 幼馴染のお前にはどうやっても隠せないんだな」
俺の部屋からそれを読み取られてしまったようだ。
二度と、俺は絵を描かないというその信念を。
「ふふん! それが幼馴染の強さなのです!」
「おいおい、人格が変わってるぞ……」
驚かされはしたが、こんな風に軽快なやり取りを誰かとしたのは久しぶりで、少し楽しかった。
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