想像以上に彼の具合は悪かった。

 彼は家賃が払えないためにアパートを追い出され、しばらくのあいだわたしのマンションで一緒に暮らすことになった。

 部屋から出ようとすると、彼はよろけてそのまま倒れてしまった。

「大丈夫?」

「ああ、問題ないよ。しばらく歩いてなかったんで、歩き方を忘れちゃったんだ」

 彼の顔色は紙のように白かった。貧血を起こしたのだろう。わたしが肩を貸すと、彼は、悪いね、と言った。

「いいのよ。昔のよしみで」

「うん。十八のオレに感謝だな。素敵な子を彼女にしたもんだ」

「よく、この状況で軽口がたたけるわね」

彼は肩をすくめ、いいにおいがする、と言った。

「昔と同じ匂いだ。真面目まじめな優等生。でも美に魂をささげる生き方にもあこがれてる、そんな女の子の匂い」

「後ろ半分は卒業したわ。いまのわたしは堅物かたぶつのOLなの」

「うん、いいよぜんぜん」と彼は言った。

「それだって、すごくチャーミングだ」


 電車に乗ってしばらくすると、彼の額にものすごい量の汗が浮かんできた。視線をせわしなくさ迷わせて、何度も手をこすり合わせる。

「どうしたの?」

「ん? いや、なんでもない」

 そう言ったけど、やがて彼の呼吸がなんだかおかしくなって、わたしはすごく不安になった。

「息苦しいの?」

 かもね、と彼は言った。

 そして電車が次の駅に着くと、ホームに転げるように降りてしまった。苦しげな顔で電車を見送る彼に、わたしは訊ねた。

「発作?」

「うん、そう。駄目だな、まだ少しも治っちゃいない」

「あとひと駅よ。どうする?」

 歩く、と言うので、ふたりで改札を出た。肩を貸し、彼を支えながら夕暮れのまちを歩く。

「こんな近くに住んでたんだな」と彼が言った。

「そうね。なんだか不思議な気がする」

「うん」


 あの頃の彼は、とてつもないエネルギーのはけ口を求めて、ひたすら動き回っていた。一番の活動は演劇だったのだけれど、彼は脚本、演出、主演を兼任し、おまけに舞台美術まで担当していた。新解釈のシェイクスピア劇は多くの注目を集め、公演はいつだって満席だった。

 彼は絵を描き、時間が出来れば穴の開いたギター一本抱えてヨーロッパや南米にバスキングの旅に出かけた。おまけに、それだけはまだ足りないと言わんばかりに、クロスカントリーやオリエンテーリングの試合にも頻繁に参加していた。


 彼は眠らないといううわさがキャンパスに流れて、付き合ってみると、それは本当だった。

 彼はひとの百年を一夜で生きようとしていた。そんな生き方が、いつまでも続けられるわけがない。いまの彼は、そのときの負債を返しているのかもしれない。

 わたしは彼の無限の活力に憧れた。才気、ユーモア、寛容、気前の良さ、すべてが魅力的に見えた。けれど、一緒にいるには彼はあまりに激しすぎた。過剰で、落ち着きがなく、つねになにかを想起している。つか微睡まどろみさえもが、彼には創作の根源となった。まくら元にはいつもペンとノートが置かれてあった。病から回復した彼は、前にも増して、そういった諸々の創造にのめり込んでいった。


 わたしは彼のミューズにはなれない。そのことはすぐに分かった。自分にもなにかがあるとは思っていたけど、それは彼に見合うだけの量ではなかった。なんでわたしが、と不思議に感じていた。魅力的な、まるで彼の従姉妹いとこのような強い眼差しの女性たちが彼のまわりにはたくさんいた。

 匂いかな、と彼は言った。匂いが象徴するすべて。そこにかれたんだ。


 マンションに着くと、彼はそのまま気を失うように眠ってしまった。

 部屋には、先に運んでおいた彼の荷がいくつか置かれてあった。たいした量はない。何枚かのシャツとジーンズ。数冊の本。穴の開いたギター。壊れてシャッターの下りないライカのカメラ。そして書きためたスコアーと小説の原稿。原稿はすでに一千枚をえていた。


 戯曲がもどかしくなった、と彼は言った。オレには共同作業が向いてないことが分かったんだ。だから小説を書く。

 アイルランドや、もっと北のアイスランドにも行った。そこでなにを書くべきかが分かったんだ。なあんだって思ったよ。みんなやってきたことさ。魂に刻印された記録、それをオレたちは翻訳するだけなんだよ。いまの人間たちの言葉にさ。一度は失われた概念だから、ぴったりあてはまる言葉っていうのがないんだな。それであれこれやるわけさ。メタファーやらなんやらを駆使してね。戯言ざれごとにしか聞こえないものが、実は真実ってこともあるんだ。

 書き上がったらどうするの? とわたしは訊いた。

 信用できそうな出版社に送るよ。それで駄目なら、また別のを書くさ。

 なあ、と彼は言った。

 この原稿がもし採用されたら、オレたちまた付き合ってみないか? 少しは金だって入るだろうし、ただの居候いそうろうからさ、同居人に格上げっていうのはどうだろう?

 わたしはなにも答えずに、ただ笑みを浮かべていた。でも、このときわたしはひとつの決心をした。自分との約束。

 わたしの笑みを勝手にいいように解釈してはしゃぐ彼を見つめながら、ああ、このひとは子供なんだなと思った。自由で、底抜けに前向きで、すべての可能性を試さずにはいられない子供。

 彼は卑怯なほどに魅力的だった。



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