金剛寺先輩のレシピ

第1話 ふわふわぷるぷるたまご焼き

 散りかけの桜並木の下を歩く。真っ暗な夜空に浮かぶ蛍光灯の光が、風に舞う桜の花びらを照らしていた。ひらひらと舞う花びらを掴もうと手を伸ばすと、片手で支えていた自転車のハンドルに落ちる。


 花びらを追って目線を下げると、ハンドルを持つ手に付けていた腕時計が目に入った。時刻は20時。部活があったとはいえ、さすがに帰宅する時間にしては遅すぎる。


 しらない道をぐるぐる回ったり、コンビニで時間をつぶしてみたけれど、この時間に夜道を歩きまわっていると、最悪補導されたりする可能性が出てくる。それは避けたい。


 はあ、と思わずため息なんてついてしまった。


 そもそも、この春からせっかく高校生になったというのに、住む家がありませんとはどういうことなのだろう。入学が決まった時、泣いて喜んでいた母さんが、2ヵ月後には満面の笑みで、この家解約したから、と言ってきたときはさすがに自分の頬をつねった。


 昔から自由な人ではあったが、女手一つで俺をここまで育ててくれたのだから、それはもちろん感謝もしている。新しい恋人?結婚したらしいから新しい父さん?と幸せになってほしいとは思う。でも、いきなり家ないからよろしく、はないだろう。


 いきなり結婚を決めて、そのまま新婚旅行も決めて、家も解約して、目の前で新しい父さんらしき知らない男といちゃつく母さんに、俺はどうすれば?と半ば諦めて聞くと、あんたは高校があるでしょ、と返ってきた。違う。そうじゃない。


 うかれる母さんを一旦お花畑から連れ戻して聞くところによると、高校の近くに母さんの友達の家があるからそこに住めという。まあ、ここで親戚に頼らないのが母さんらしい。死んだ初代父さんとは歳の差故結婚を反対され、ほぼ強引に結婚した為、両家絶縁状態だと昔聞いたことがある。思い切り駆け落ちじゃないか。


 そんなわけで、母さんが頼れるのは友達だけなのだそうだ。持つべきものは友よね!と大笑いしていたが、全然笑えない。


 とにかく、その友人にはもう話がついているらしく、母さんが新婚旅行から帰ってくるまで居候という形でおいてもらえることになっていた。そもそも母さんの友人もシングルマザーで、仕事が忙しくあまり家にいないらしい。気のいい奴だから、息子居候させてって言ったら即オッケーだったよとかなんとか。


 当面の生活資金は、俺が将来結婚した時に使おうと貯めておいてくれたらしい貯金から使えとのことだった。名義は俺自身だし、しばらく生活に困らない金額はあるらしい。あんた当分結婚しなさそうだし、とこれまた母さんは大笑い。何がそんなに面白いのだ。


 家を解約したことからして、旅行から帰ってきたら新父さんの家に住むのだろうと予測はつくが、新婚旅行の行き先を聞くと、シンガポール、アメリカ、スイス、イギリス、他にも出るわ出るわなんだかたくさんの外国の名前。ちょっと多いな、期間は?と聞くと、豪華客船世界一周だから1年はかかるんじゃない?とまた笑っていた。本当に全然笑えない。


 こんな嘘みたいな展開があってから1週間。母さんと新父さんは新婚旅行へ旅立った。朝別れるとき、本当に嬉しそうに、お土産期待しててね!と出て行く母さんを見たら、なんだかもうどうでも良くなった。新父さんと仲良くやってくれ。


 それが今朝の話。今はその友人宅へ向かう途中なのだが、なかなか家まで行けずにいた。道はわかっている。万が一家に人がいなかったときの為にと先に合鍵ももらっている。行こうと思えばすぐにでも行ける。しかし、かれこれ学校と友人宅の間で自転車片手に2時間程うろうろしていた。


 それというのも、今朝、母さんから「あ、あたしの友達の家、コウと同じ高校行ってる女の子いるらしいよ」なんて聞いてしまったからだ。


 いや、だめだろ。


 血縁でもない年頃の男女が一つ屋根の下で暮らしたらだめだろ。しかも同じ高校の女子って。聞いてない。新父さん云々はもう良いが、一番大事なことを出発のその日に言うな。


 そりゃあ小さいころは、母さんの新しい彼氏らしきしらない男が急に家にいるなんてよくあることだったが、それは大人同士だから良いのであって。いや、良いのか?


 とにかく。いくら母さんの友人が良いと言ってくれてはいても、年頃の娘さんと一緒に暮らすのはだめだ。俺がなにかいかがわしいことをするなんてことは絶対にないが、その娘さんも知らない男と一緒に暮らすなんて嫌だろう。そうだ。そうに決まってる。


 とりあえず、一度友人宅へ伺って、居候の話はなかったことにしてもらって、住むところはなんとかしよう。なんとかできるあてなんて今のところ思いつかないが、最悪自分の友人宅を転々と…1年もできるのだろうか。


 自転車のハンドルをギュッと強く握りなおし、制服のポケットからスマホを取り出す。母さんから送られてきた住所を地図アプリに打ち込んだ画面を開き、暗い夜道を自転車を押してゆっくり進む。


 桜の花びらが一面に敷かれた歩道を進むと、静かな住宅街に出た。どの家からも光が漏れ、夜の闇をぼんやり照らしている。


 スマホの画面を見ながら奥まで進むと、同じような家が並ぶ島の一番奥に、薄緑の色の壁でできた家が見えてきた。アプリを見ると、赤い目印がここだと指している。


 表札は金剛寺こんごうじ。強そうな名前だ。確かに母さんの友人宅のようだった。ドアから光がもれているし、おそらく人もいるだろう。


 家の横に自転車を停め、白いインターホンを押す。誰か出てきたら、居候の話はなかったことに!とすぐに伝えなければ。


 …ものすごく強そうな人が出てきたらどうしよう。しっかり断れるだろうか。すこし緊張しながら待っていると、家の中からパタパタとスリッパの音が聞こえる。母さんの友人だろうか。それとも娘さんだろうか。


 ガチャリ、と茶色のドアがゆっくり開く。重そうにドアを押して出てきたのは、同じ高校の制服を着た、小さな女の子。


 身長は150cmないくらいだろうか。2つに束ねた長い髪が、玄関のオレンジ色の明かりで茶色く光っている。


海野うみのくん?」

「あ、はい。海野幸太郎うみのこうたろうです。夜分遅くにすみません」


 なんとなく話を切り出せずぼうっとしていると、小さな女の子にどうぞ、と迎えられるまま、玄関を上がり、リビングに通されてしまった。玄関には小さいローファーと俺の靴しかなかったので、まだ母さんの友人は帰宅していないらしい。


 リビングには小さなテーブルと、ベージュ色の毛足の長い絨毯。壁にはドライフラワーらしきものが飾ってあったりして、オシャレな女性の家という印象をうける。人様の家を無遠慮に見回すのは…と思ったが、なんとなく落ち着く雰囲気の部屋だった。


 リビングの真ん中にあるフカフカの白いソファは、体のでかい俺が座るとしっかり沈むのに、先ほどの女の子が座るとほぼ沈んでいない。うさぎのぬいぐるみがソファに置いてあるようだった。


 女の子は、俺の向かいに座ると、無言でじっとこちらを見つめている。見れば見るほど、小さく幼い面立ちは、金剛寺という苗字のイメージとはかけ離れている。俺と同じ高校の制服を着ていることからして、この女の子が母さんの言っていた友人の娘さんだろう。


「あの、金剛寺さんですか?」

 気まずくなって聞いてみる。


「そう。金剛寺すみれです」


 どうぞよろしく、と深く頭を下げられる。つられて頭を下げてから上げると、金剛寺さんはまた同じようにじっとこちらを見ていた。口数が少ない人なのだろうか。表情もさっきから全く変わっていない。俺が言うのもなんだが、感情が読み取りづらい人のようだ。とにかく居候の話をお断りしますと伝えなければ。


「ええと、伺うのが遅くなってすみません」

「部活、バスケ部って聞いてる」

「そうです。練習が長引きまして、申し訳ないです」

「大変でしょ、1年生だし」

「はい。金剛寺さんは何年生ですか?」

「2年」

「上級生でしたか。では、先輩とお呼びしなければ」


 正直年上ということにだいぶ驚いたが、年長者には敬意を払わなければ。金剛寺先輩は話している間もずっとこちらを見ていたが、先輩、と呼んだ時、何故か少し目を見開いた気がした。


「金剛寺先輩、母からお話があったと思いますが」

「金剛寺先輩…」


 せんぱい、と金剛寺先輩が小さな声で呟いた。小さな両手で頬をおさえている。…笑っているのだろうか。無表情だが、なんとなく嬉しそうにしている気がする。


「あの、先輩?」


 居候の話はなしに、と続けようとすると、急にソファからぴょん、と降りて、後ろのキッチンへ小走りでかけていく。もしかして飲み物とか、気を使わせてしまっただろうか、と自分も後へ続く。


「夕飯食べた?」


 後ろにまわると、冷蔵庫を背伸びして開けた金剛寺先輩が振り向かずに聞く。元々居候の話は断るつもりでいたので、ここにくるまでにラーメンを食べていた。食べました、と答えると、軽いものなら食べられる?と聞かれる。


「玉子焼き焼いてあげる」


 答える前に金剛寺先輩は卵を2つとりだし、キッチンの調理台へ向き直った。近くのイスにかかった薄紫色のエプロンの紐をさっと結び、制服の袖をまくる。


 あまりに手際が良いので呆気にとられて見ていると、さっきの卵を慣れた手つきで近くにあったボウルに割り入れた。表情は変わっていないが、こころなしか嬉しそうに見える。何故だ。


 水道から少し水を汲み、ボウルに入れると、だしの素の瓶からささっとこれも少し振り入れる。最後に醤油を数滴たらすと、勢いよくかき混ぜ始めた。


 黄色の液体がボウルの中をくるくる回っている。俺も金剛寺先輩も言葉を発していないので、キッチンには菜箸とボウルがぶつかる、カカカという音しかしない。


 しばらくして、金剛寺先輩はふう、とため息をつくと、ボウルを置き、四角い小さなフライパンを取り出し、油を引いて火にかける。


「これ、玉子焼き用のフライパンですか?」

「そう。きれいに焼けるの」


 初めて見る調理道具に、思わず質問すると、見ててね、とフライパンの油をまんべんなく回して、さっき混ぜていた卵を半分流しいれた。じゅわっ、と、たまごが焼ける音がする。


 小さい手で菜箸を握り、全て火が通る前にかき混ぜてフライパンの上の卵を操ると、器用に手前からくるくると巻いていく。少しだけ焼き目のついた黄色がすごく美味そうで、フライパンを見つめる。


 きれいに巻いた卵を手前に持ってくると、少し持ち上げ、残り半分の卵をフライパンに流す。それもきれいにくるくる回し、継ぎ目を焼き付ける。魔法のようにあっという間に、小さいフライパンの中には、濃い黄色をした長方形の玉子焼きが収まっている。


 カチッというコンロの火を消す音で我に返った。金剛寺先輩は、後ろの戸棚から長細い皿を出し、玉子焼きを上に乗せた。引き出しからおもちゃかと思うくらい小さい包丁を出すと、玉子焼きを5等分し、両手で大事そうに皿を持ってこちらを向く。


「ほんとは大根おろしがあるともっと美味しいんだけど」


 はい、と差し出された玉子焼きは、ほかほかと湯気が立ち、美味しそうなにおいがする。2時間前に食べたラーメンはどこに、と思うくらい急に腹がへってきて、一つを手でつかんだ。


 まだ熱い端を持つと、玉子焼きがぷるぷるとふるえる。口に入れると、ふわふわで柔らかく、噛むとじゅわっと出汁が染み出てきた。


「うまい、です」

「でしょう」


 俺の横に立つ金剛寺先輩は、誇らしげな顔をしてこちらを見上げている。


 母さんはほとんど料理なんかしないので、玉子焼きなんてものはスーパーの総菜でしか食べたことがなかった。スーパーの総菜の玉子焼きは冷たくて甘くて、それはそれで嫌いではなかったのだが、人が作る玉子焼きって、こんなに温かいものだったのか。


「すごくうまいです、先輩」


 こんなとき、的確な表現ができる語彙力と、表現力があればな、と思う。バスケと勉強ばっかりしてたって、この玉子焼きを食べた幸福感を表す言葉が見つからない。


「先輩って呼ばれたの初めて」


 金剛寺先輩が少し目を細めて笑う。ふわっとした玉子焼きのような、優しい笑顔だった。


「玉子焼き、一番得意な料理なの」


 気づけば残りの玉子焼きも平らげ、金剛寺先輩が持つ皿は空になっていた。先輩は満足そうな顔をすると、皿を流しに置き、調理台を布巾で拭いている。


 布巾を持つ小さな手を見ていて、そういえばここには居候の話を断るために来たのでは、と思い出した。なんとなく切り出しにくい、というか、たぶん切り出したくないのだ、と思ってしまった。人が作ったご飯、というか、あの玉子焼きがある家に帰れたら、どんなに幸せだろう。


 ぐっと自分の手を握り、布巾を畳む金剛寺先輩の手をじっと見つめていると、薄紫色のエプロンがふっとこちらを向く。


「忘れてた。おかえりなさい」

 

 ぺこ、と頭を下げて、なんでもないように皿洗いを始める。


 ほとんど家事をしない母さんを恨んだことはない。毎日朝まで働いて、俺を育ててくれた。でも、小さい頃、学校から帰って、誰もいない暗い家にただいまを言って、一人で家事をすることが寂しくなかったといえば嘘になる。


 家に自分以外の人がいて、美味しいごはんがあって、今日あったことを話して、そんな想像をしてしまった。


 いつも自分が母さんに言う側だった。おかえりなさいなんて、何年ぶりに言われただろう。


「あの」


 蛇口を閉め、金剛寺先輩がこちらを向く。


「今日から、よろしくお願いします、先輩」


 さっき食べたばかりの玉子焼きの味を思い出したら、最初と真反対の言葉が口から出たけど、もう、訂正しなければという気にもならない。


「よろしく」


 金剛寺先輩はまたあの玉子焼きみたいな笑顔で微笑んだ。

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