楓とはその後、学内では全く出会わなかった。もしかしたら四年生だったのかもしれない。大学二年の夏頃には楓のことを忘れかけていた。


 それよりも重大な、僕自身の価値観をゆるがすことが起きていた。


 サークル棟の小汚い、薄暗い廊下を浮かぬ表情で歩いていると、ショートパンツにタンクトップと、瑞々しい四肢を剥き出した楓がいた。


「あれ、くいいじくん」


 全然会わないから、あれは幻か何かだと思ってたけど、違ったようだ。ちゃんと生きてるわ。


「ちょうどいいところき来たね、おいで」

 手招きされて、僕は思考するよりも先に部屋に入り込んでいた。


「プロ野球研究会?」

「そう、プロ野球見に行く研究会」

「へえ、そんな研究会があるんだ」

「ここに所属してないからよく知らないけど、このサークル室、鍵かかってないんだよね。だから時々使わせてもらう」

 …それはイリーガルな。

「で、くいいじくんは?」

「くいいじって名前じゃないです、雪島ゆきしまだよ」

 僕はむすっと答える。

「ユキシマ? へえー、いい名前」

 ジャンプの先週号やトランプのクイーンやジャックなどが机の上に散らばっていたが、それらを楓は車のワイパーのように両腕で瑣末な物ものを端へ寄せた。いつもこうやってるのだろうか。


「かき氷たべよ?」

 巨大チロルチョコのようなジップロックのコンテナにぎっしり氷が入ってる。火打ち石のような硬く透明な氷だ。

「ここの棟の冷蔵庫の冷凍室、壊れてるみたいで」

「消化要員?」

「いかにも」

 ぴっとスプーンを天井に向け、にんまりと楓が笑った。


 コーヒーメーカーのようなスタイリッシュな機械にがりがりと氷を入れ、ボタンを押すとあっという間に細かい砂粒上の破片になった。

 白い使い捨ての皿にサラサラと透明な氷を盛り、上からオレンジ色のとろりとした蜜をかける。

「どうぞどうぞ」

「ありがとうございます」

 小さな氷の破片は舌の上でちくちく抵抗して溶けていった。甘酸っぱい蜜はあんずの味だ。

「おいしい」

「ほんとに?」

 これ、誰と食べる予定だったんだろうか。僕はタッパーに入ったまだ砕いていない氷を見つめた。

「この氷って自分で作った?」

「うん? そうだけど? ていっても製氷機に水を入れただけだけど」

 僕はその美しさをしげしげと眺めた。

「丁寧に作ったもんだ」

「え?」

「普通家で作ったら不純物で白く濁るもんなのにね」

「…わかるの?」

「まあ応用科学科にいるし。水をきちんと殺菌して、大きめのトレイに入れてゆっくり冷やして…。めんどくさ、僕には無理」


 そういや、あの時持ってたのも氷だったな…。

「ケチャップの時も氷を持ってた?」

 まだ肌寒い時期なのに、かき氷を食べようとしていたのだろうか。

「あの日のこと? そうだよ、でも今日のよりおいしくなかったけど」

「そうだろうね、あれはおいしさより速さを優先した氷だから」

 アルミの熱伝導率を利用したら早く凍る。けど、急速に凍らせたら味は落ちる。その証拠に氷は白く濁ってた。


 でも本人は製氷方法のメリットとデメリットをわかってやってる訳だから。もしかしたらだけど、それは相手に伝わらなかったんだろうか。今回の丁寧に作られた氷も相手に届かなかったのかもしれない。


「君にはわかるんだね」

「普通じゃないの?」

「普通じゃないよ、すごいことだよ」

「すごかったら部費取られたこと、今まで気が付かないなんて可笑しいよ」

「部費取られた?」

「そう、昨日まで気がつかなかった」

 最初の新歓コンパでは失敗したけど、そのあとB級クラスの地味で慎ましいサークルに属し、それなりに、楽しく過ごしていた。


 その一人沢北はブラックバイトしつつ、単位取得を低空飛行しつつ、ぶっ飛んだ行動でサークル内を盛り上げてた。ところが、沢北が部費総額10万円を着服したことが発覚。通帳を管理していたのが、沢北一人だから、沢北しかいない。本人はあっという間に自白。大騒ぎ。


 部費を盗んでもそのままでいるなんて、僕の価値観的にはかなりセンセーショナルだ。なぜお前はケロッとしている? ヘラヘラしてる?


「よくある話だね」

 楓はそう言った。しゃくしゃくとスプーンで氷を混ぜる。

「よくあるんだ」

「盗んじゃう人は盗んじゃうのよ。そのボーダーってはっきりしてる人と、そうじゃない人がいる」

「ふうん」


 舌先が冷たくなった。自分の舌の生々しい感覚が口の中に広がる。

「そういや、なんで唇にアルコールが沁みたのを楽しんで見てたの?」

「ああ、『蹴りたい背中』だなって」

「蹴りたい背中? 綿矢りさ?」

「そうそう、読んだことある?」

「ない」

「にな川っていう男子が風邪ひいて、主人公のハツが桃を片手にお見舞いに行って」

「うんうん」

「にな川が剥いた桃を食べた時、ひび割れた唇に桃の汁が沁みて」

「へえ、痛そ」

「って話」

「それだけ?」

「それだけじゃないけど」

というと、楓は僕に近づいて、ちろっと僕の唇を舐めた。

「…」

 つめたくて柔らかな舌先がひび割れてもない唇を一瞬這って、僕は眼を大きくあけて驚いた。

「…今の何?」

「っていう話だよって話」

「やめてよ、冗談でも」

 楓から距離をおこうと、体を後ろに引いた。楓はかえって僕に詰め寄る。


「ねえ、平気で乗り越えちゃう人はいるんだよ」

 近づく楓の体温を初めて感じた。驚いて楓の顔を見つめる。


 楓は何かを盗もうとしてるのだろうか。


 楓はそのまま舌先を僕の口の中に押し込んだ。つめた。

 

 僕は困惑したまま楓を突き放して、サークル室を飛び出した。



 

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