第26話 魔術

 ティアに会うべく、アルウはアマルナの廃都にむかって旅に出た。

 留守中の工房のことはメンナに委ね、母のことはムテムイアに頼んだ。アルウはティアをあの狂信的な集団から助け出すつもりだった。もし仮に彼女を連れ出すことに成功しても、テーベに戻れないことぐらい承知していた。ところが、反対するだろうと思っていた母親が、むしろそうすることを望んでいた。

「ティアちゃんは必ず目が醒めて、おまえに着いてきてくれるわ」

 母の言葉は願いでもあり祈りでもあった。

「ティアちゃんは余程の理由があったのよ。あなたを愛する気持ちに変わりはないはずよ」

 そう言って母はアルウの背中を押してくれた。

「これからはあなたが幸せを掴む番よ。もう家族のことは心配いらないから」

「母さん」

 アルウは涙が零れそうになるのを我慢した。

「さあ、早く行くの」

 母も涙を堪えているようだった。

「行ってきます」

 玄関の外まで出てきて母はいつまでも手を振って見送ってくれた。ほんとにいつまでもいつまでも。その姿が目に焼き付いて離れなかった。 

 アルウが乗った船は、追い風に乗ってナイルを滑るように航行した。ナイルには漁をするパピルス製の小さな船や戦争捕虜を幾人も乗せた中型船、油の壺、象牙、ダチョウの卵、豹の毛皮など沢山の商品を積んだ商船や、巨大なオベリスク運搬船など、様々な船が行き交っていた。

 母なるナイル、ここで父と遊び、ティアと出会った。楽しかったことも、辛かったことも、なにもかもがこのナイルのように穏やかに深く静かに流れゆく。

 アルウは以前より良く見えるようになった目で、流れゆくナイルの景色を眺めた。

 北に向かう船は予想以上に速く、暫くすると船はアビドスに近い港に着いた。 

「もうアビドスなのか」

 船が港に接岸すると沢山の人が船を乗り降りし、忙しなく荷物の積み降ろしをした。アルウの船の隣に接岸した中型船の甲板では檻に入れられたヒヒが逃げ出し大騒ぎになっていた。その船のマストのロープには沢山の鳥たちが心地よさそうに横に並び、その船から少し離れたところには水位を測るナイロメーターが見えた。

「セバヌフェルさん、元気にしてるかな。まだ挨拶もお礼もしてなかったな……」

 セティ一世神殿の牢に閉じ込められたとき、彼女から水やパンの差し入れをしてもらったことを思いだし、アルウは申し訳ない気持ちになった。 

 数分後、船が港をゆっくり離れた。

「次はいよいよアマルナか」

 アマルナに着いてすぐにティアを見つけることができるのだろうか。彼女を無事に教団から連れ出すことが出来るのだろうか。船がアマルナに近づくにつれ彼の不安は膨らんだ。

 そのころティアは狂信的なアテン教の最高指導者ルカウのマインド・コントロールと黒魔術で、ますます自分を見失っていた。

「王女を操ることなどたやすいことだ」

 ルカウは自信満々だった。

「師よ、まだ油断はできません。ラモーゼらの動きが気になります」

 一番弟子のハイが忠告した。

「ラモーゼの連中なら心配いらん」

「師よどうしてそう言い切れるのですか?」

「王女が我が手中にあるかぎり我々には刃向かえん」

 ルカウは自信たっぷりに返事をした。

「早いところラモーゼの奴らを始末しましょう」

 弟子の一人が進言した。

「まだ早い。ラモーゼ達にはまだ働いてもらわねばならん」

 ルカウはアテン革命を起こしエジプト王朝を倒すという野望があった。そのためにはラモーゼ達の協力が不可欠だと思っていた。

 ティアは自分がマインドコントロールされているとは思いもせず、エジプトの真の平和、世界の永遠の平和には唯一神アテンによる宗教革命が必要なのだと信じ込んでいた。また、それがアクナテン王の遺志でもあると。こうしてティアがアテン革命という過激なイデオロギーに傾倒すればするほど、ラモーゼたち古参の家臣団との溝が深まり、深まれば深まるほどルカウの思う壺だった。

「ティア様の目を醒まさせねば」

 ラモーゼたち古参の家臣団は焦った。だが打開策は見つからず無駄に時が過ぎようとしていた。そんな時、アルウを乗せた船がアマルナに着いた。

「アマルナ!」

 船頭の声が甲板に響く。

「着いた」

 広い甲板の上の手すりに掴まり、アルウは酷くさびれた町の風景を見た。.

「捨てられた都……」

 船から降りたアルウは地図を広げ廃墟となった神殿を目指して馬を走らせた。地図は母とムテムイアが記憶を頼りに描いてくれたものだ。

 しばらくすると広大な都市の廃墟が目に飛び込んできた。

「これがアクナテンの都か」

 その都市はかつてティアの曾祖父にあたる第十八王朝の王アクナテンが建てた都だった。アケトアテンとも呼ばれるこの大都市は、正確な設計に基づいて建設された古代エジプトで最初の計画都市であり、これほど完璧に設計施行された都市はその後も建設されなかった。

「信じられない。エジプトにこんなに素晴らしい都があったなんて」

 今では瓦礫の山すら砂に埋もれるほど無残な姿となったアケトアテンだが、かつて人々が夢と希望に満ちあふれ幸せな毎日を暮らしていた、賑やかで明るい波動が伝わってきた。

「なぜアクナテンは一神教にこだわったんだ? なぜアクナテンの宗教革命は失敗したんだ? なぜこの都は捨てられたんだ?」

 廃墟となった大アテン神殿に立ちアルウは呟いた。

「それはアクナテンが王様でありつづけたからだ」

 その時、神殿に男の声が響いた。

「誰だ!」

「モーゼだ」

「モーゼ……」

「君もこの廃都に関心があるようだね」

 モーゼが微笑んだ。

「余計なお世話だ」

 アルウは妙にこの男が言動が引っかかる。

「これは失礼した」

 モーゼは軽くあたまを掻いた。

「あなたこそなぜこんな廃墟に」

「神に導かれた」

「神に?」

「王子がいたぞ!」

 その時、武装した数人のアテン教徒が声を張り上げ二人を取り囲んだ。

「王子だと」

 アルウは驚きモーゼを見た。

「モーゼ、覚悟しろ!」

 アテン教徒が剣を振り下ろそうとした時、

「おやめなさい!」

 武装したアテン教徒らの背後から少女の姿が現れた。

「ティア」

 それは紛れもなく彼女だった。

「アル……」

 ティアはわざとアルウから目をそらし、武装したアテン教徒に、

「王子に手出しをしてはいけません」

 そう言って彼らに剣を収めさせようとした。

 ところが興奮した武装教徒達は、

「こいつらを血祭りにしてアテン神に捧げよう!」

 頭上高く剣を突き上げ気勢をあげた。

「彼らは狂信的なアテン教徒の一派だ」

 モーゼはそう呟くや彼らを睨んだ。

「ティア!」

 アルウが声をあげた瞬間、

「黙れ!」

 アテン教徒の一人がアルウに斬りかかろうとした。

「やめろ! お前達は無抵抗の人間を相手に何をしているんだ!」

 ラモーゼ率いる数名の兵士が、気勢を上げる武装教徒らの間に割って入り制止した。

「こいつは王子です。捕らえて、見せしめに首を刎ねましょう」

「おおう!」

 武装アテン教徒らは気勢を上げた。

「貴様らは丸腰の人間を殺そうとして恥ずかしくないのか! アテン神は愛と平和の神だということを忘れたのか! お前達はアテン神に背くつもりか!」

 ラモーゼの激しい叱責に武装教徒らは一瞬にして沈黙した。

「王子様、ここはあなたが来るようなところではありません。すぐにここをお発ち下さい」

 ラモーゼは振り返りそう言うと、家臣と武装教徒らを引き連れ立ち去ろうとした。

「ティア!」

 アルウは無言で立ち去る彼女を呼び止めた。だが、ティアは振り向きもせず姿を消した。

「ティア、待って!」

 アルウが彼女を追いかけようとすると、モーゼが彼の腕を掴み制止した。

「邪魔をするな!」

 激高するアルウを抑え、

「彼女はマインドコントロールされているようだ。そのうえ……」

 モーゼは今は彼らを刺激しない方が良いと思った。

「その上何だ!」

「魔術をかけられている」

「魔術」

「おそらく黒魔術を」

「いったい何のために!」

「わからん、だが邪悪な妖気があの娘を包み込んでいた」

「なぜだ!」

 アルウは俯いた。

「君はあの娘を愛しているんだね」

「……」

「もし差し支えなければ教えて欲しい。彼女はいったい何者なんだ」

「何者……」

「なぜアテン教徒らがあの娘を特別視しているのか。なぜあの娘が黒魔術をかけられるほど執着されているのか。その理由が知りたい」

「知ってどうする」

「君はあの娘を救い出したいんだろう」

「あんたには関係ないことだ」

「関係あるさ」

「なぜ!」

「君は妹ネフェルタリの恩人だからさ」

 モーゼは微笑みながらアルウを見つめた。

 ネフェルタリの事故のことは王様の家族とその周囲の極一部の人達しか知り得ない情報だったので、アルウもようやくモーゼが本当に王子であると悟った。

「王子様」

 そう言ってアルウは跪こうとした。

 するとモーゼはアルウを制止し、

「僕らは友人だ」

 そう言って彼の手を両手で握りしめた。

 握手を交わした二人は微笑み、瓦礫の中から座りやすそうな大きめの石を見つけ、並んで腰掛けた。

 神殿の周囲は見渡す限り荒れ果て、あちこちに倒れた大きな石柱や、壊された王の石像の残骸がころがり、中央にはひび割れた巨大な梁や、陥没した大理石の床、焼け焦げた石の柱の無残な姿が見え隠れしていた。

「かつて神殿だったこの場所は、どれだけ多くの人々の夢と希望で光り輝いていたのか」

 アルウが呟いた。

「人々の幸せそうな笑顔や笑い声が聞こえてくるようだ。だが失望と悲しみも」

 モーゼは静かに目を伏せた。

 二人の目の前に広がる荒れ果てた拝殿の大広間に、今も変わらず太陽が降り注いでいた。

 ようやくモーゼに心を許したアルウはティアとのことを彼に話し始めた。 

「僕とティアは結婚を約束していた。ところが突然、彼女は婚約を破棄して姿を消した」

「なぜ」

「アテン教で世界を平和にすると言って」

「アテン教で? なぜ彼女がそんなことを」

「ティアはアクナテン直系の王族だからだよ」

 アルウは躊躇いながら重い口を開いた。

「そうだったのか! だから奴らは革命の大義に彼女を利用しているのか」

「僕はティアを連れ戻しに来たんだ。彼女をあの狂信的な集団から救い出す」

「それは危険すぎる」

「モーゼ、もう僕にはかまわないで欲しい。僕を邪魔しないでくれ」

「アルウ、僕は君を助けたい」

「え?」

「心の奥底では彼女も君に救い出して欲しいと願っているはずだ。ただ、彼女の真の心は魔術とマインドコントロールによって封印されている」

「どうすればそれを解ける」

「此処からできるだけ遠くに彼女を連れ出すんだ」

「なぜ」

「まず黒魔術を切らねばならないからだ」

「どこで? どうやって?」

「オシレイオンだ。あそこならオシリスに守られる」

「今すぐティアを助け、オシレイオンに連れて行く」

「焦っても無駄だ!」

「僕はティアに魔術をかけている奴を探し出し殺す。そうするしか彼女を助け出せない」

 アルウは立ち上がり憤った。

「先に動けば奴に気づかれてこちらが魔術で殺られる」

 モーゼはアルウの腕を掴んで説得した。

「なぜそう言い切れる」

「わたしにも人間の愛の波動や憎悪の波動を感じる能力があるんだ。奴は既に君のティアに対する愛の感情や、彼らに対する憎しみの感情を察知している」

「じゃ、どうすればいいんだ!」

 アルウはモーゼの手を振り払い、地べたに両手をついて激しく地面を叩いた。

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