第34話 乱暴

 ……。


 …………。


 ………………あれ? まだ?


 やがて訪れるだろう苦痛に怯えて固く目を閉じていたけれど、どういうわけかいつまで待ってもセンパイの追撃がやって来ない。


 まさか、尻餅ついて動けないボクを放っておいてやっぱり惣引そうびきの方に標的を戻してしまったのか?


 それはまずい! と、ハッとして目を開けたものの、センパイはちゃんと目の前でボクを見下ろしていた。


 見下ろしてはいたけれど、どうにも様子がおかしい。


 明らかに何事か動揺している表情だった。


 雑念を振り払うみたいに大きく頭を振ってセンパイは鋭くボクを睨め付けてくる。けれど、すぐにふいっと自ら視線を外し、眉間に深々と皺を刻み強く目を閉じ何事か思案する。

 意を決したみたいに、改めてボクに凄むために睨みを効かせようとするけれど、やっぱりどうにもうまくいかずに視線を逸らしてしまう。


 いったい何がそうさせるのか、絵に描いたみたいに挙動不審になっているセンパイを見上げながら、いったんボクは自分の置かれている状況を確認してみた。


 尻餅をついたままへたり込んで、ファスナー部分が壊れて引きちぎれ、ジャージの前が開きっぱなしで中に着ていたTシャツが露わになり、お尻の痛みに涙ぐんだ瞳でセンパイを上目遣いに見上げている状況だ。


 ……え?


 いやいや、ちょっと待って?


 まさかとは思うけど、センパイ……、なんか葛藤してない?


 ボクの見た目がどんなだろうと容赦しないとか、小物の悪役が口にするテンプレみたいなこと言ってたくせに、半端な道徳感で自分でもよくわからない迷いが生じてる顔だ。チャラいくせに妙なところで男気があるんだな。


 ――て、ちーがーうーだーろっ!?


 このハゲ……てはいなかったな、割とふさふさだった。


 そんなことより、とんでもなくボクの見た目意識しちゃってるしっ!?


 何と何が心の中でせめぎ合って葛藤してるの? そんなの絶対おかしいよっ!?


 なんとか必死に立ち上がろうと上体を屈めると、Tシャツの襟ぐりからチラリと覗いたのだろうボクの胸元から、センパイは瞬時に視線を逸らすファインプレイ。ただし、ちょっぴり頬を赤らめてるのは減点だな。


 え、いや待って待って、なにその反応? 何に照れてるの? 何が見えそうだったの?


 いくらボクの胸板が薄いとはいえ、見えて問題になるなんてことないはずだよ?


 ……問題、ない、よね?


 いや、違う違う、そうじゃ、そうじゃない。


「な……、な……」


 センパイ? 一番最初にボクは男だってちゃんと言ったよね? 先輩もきちんと納得した上で容赦しないって言ったよね? だから、今そのリアクションは明らかにおかしいよね?


「何を変な意識してるんだよっ!?」


 露わになったTシャツを隠そうとジャージの前を掻き合わせるものの、よりにもよってファスナーが壊れていて両手で押さえるしかない。恨めしくセンパイを睨み返すとさらに頬を赤らめて視線を逸らしてしまう。


 うん、もういい、わかった。もう客観的に言うよ。


 崩れるようにぺたんと座り込んだ美少女が、胸元を掻き合わせて隠しながら、潤んだ瞳で睨み付けているみたいに見えてるんだね。そうに違いないね。


 センパイの性癖なんて知るはずもないけれど、世の男性にとってはご褒美なのかな?


 ここまでの数々の暴言よりも、その反応が地味に一番傷付くんだけど……。


「あなたたち何やってるのっ!!」


 そんな本来とはかけ離れた、おかしな緊迫感に包まれはじめたボクたちのいる校舎裏に、高く響く刺すような金切り声が響き渡った。


 この清掃活動が始まっていったい何度目になるのか、ちっとも言うことを聞かずに無断で持ち場を離れるボクたちのことを、あちこち探して歩くのがもはや日課みたいになってたに違いない岡林おかばやし先生の声だった。


 本当に重ね重ね申し訳ない。

 岡林先生、ノイローゼみたいになって心を病む前に積極的にリフレッシュ休暇とか取ってくださいね……?


 けれど、偶然にしろ先生が駆け付けてくれたことには、良い点と悪い点があった。


 良い点はもちろん、この緊迫した状況をこれ以上悪化させないで済むって点。岡林先生はこう見えても生徒指導担当だから、センパイがどんなに頭が悪かったとしてもこれ以上暴れることは出来ないだろう。


 悪い点は、ここで惣引がまた問題を起こしたと判断されてしまうと、あの父親に宣言された通りに問答無用で地元に強制連行されるって点だ。


 ほらやっぱり、昨日ボクが予言したとおりに、きっちり翌日には問題を起こしたでしょ?


 ………………しょうがない。


 ボク自身の意思でアイツを助けるって飛び出したんだ。


 これは、ボクとセンパイの諍いで惣引は無関係ってことにするのが得策だろうし、むしろそれしかない。


 ここまでまったく、欠片も良いとこ無しだったんだ。これくらいしないとあまりにカッコ悪すぎるし、――何より男が廃るじゃないか。


「先生、じつはこの先輩に――」

「乱暴されたんよっ!!」


 ええええええええええっ!? なんで人の台詞を遮って割り込んでくるの!?


 いや、乱暴はされたよ確かに、間違いなくね。


 でもその乱暴っていうのは、こう、男同士の腕力と腕力が激しくぶつかり合う的な意味合いの方だからね? 腕力と腕力ぜんぜんぶつかってはいなかったけどね?


 法廷で敏腕弁護士が異議を唱えるみたいに、ビシッとセンパイを指差し示すアイツの表情は悲壮感たっぷりだ。


 そしてやはりちょっぴり方言っぽかったけど、今のは聞き取れた。いや、聞き取れたから良いって話じゃまったくないけど。


 コイツ、感情が高ぶって落ち着きをなくすと方言が隠せなくなる系なんだな。いまに限ってはすんごい迷惑だよ……。


 惣引の無駄に強い訛りのイントネーションにわかりやすいほど面食らった岡林先生が、指し示されたセンパイから着衣の乱れたボクに順繰り視線を移し、一呼吸の間にはっきりと見てわかるほどにわなわなと体を震わせながら総毛立たせる。


「あ、あなたっ! ……こ、ここ、こんなっ、はっ、ははっ、破廉恥な……っ!!」


 ほらぁ! やっぱりそうなっただろー!


 はい、勘違いですー! そっちの意味の乱暴じゃありませんー!!


 あと先生? 言葉の意味合いの誤解は仕方ないとしても、この状況に破廉恥な要素は微塵もありませんよ? 何一つ淫らなものとか出てませんし? 仮に出てたとしてもボク男ですし?


 そんなボクの心の声を聞き取ってくれたのか、ぺたりと尻餅をついたまま破れたジャージの前を掻き合わせて押さえつける姿に、心を痛めると同時に憐れむような視線を寄越す岡林先生。


 ダメだ、わかってはいたけれど、まったく心の声を聞き取ってなんてくれてない……。


 それも束の間、岡林先生はキリッと表情を厳しくして、立ち尽くすセンパイにツカツカと歩み寄る。


 それはまさに、これから女の敵を糾弾するための強い覚悟と意思を滲ませているように見えた。ボクは男なんだけれど……。


「ちょっと待ってください先生、乱暴なんてしてませんよ。誤解ですよ」


 当然ながら、センパイがこのまま黙ってお縄についてくれるはずなどあるわけがない。すんなりと両手を挙げて無抵抗を示しながら、


「僕は彼女にちょっと話しかけただけだったのに、スマホを壊されるし、いきなり組み付かれるしで、むしろ乱暴されたのこっちの方ですよ?」


 淀みなく的確に、まるっきり嘘ではない事実を掻い摘まんで説明してみせる。


 一人称まで僕だなんて瞬時に変えて、困り果てたと言わんばかりに肩を竦める。

 しかも、あの鼻にかかったような間延びした喋り方から打って変わって、優等生然としてきちんと歯切れ良く喋っている。

 あのチャラい態度はやっぱりわざとやってたんだな。自らを誠実に見せるにはどうすればいいかをよく理解している。


「ほら見てくださいよこれ、このヒビ。彼女にやられたんです、ひどいでしょう?」


 さらに、叩き落とされたスマホの画面にどれだけの傷を付けられたか示して見せつける。


 どれほどのヒビが入っているのかボクからは見えなかったけど、そんなのアイツが叩き落としたせいで入ったかどうかなんて証拠がない! 叩き落とされる前から元々ヒビが入っていたのかもしれないじゃないか! チャラいやつのスマホの画面は大概割れてるんだよ! 完全に偏見だけど!


「……惣引さん、本当なのかしら?」


 スマホを確認して向き直った岡林先生の問いに、惣引は唇を噛んで立ち尽くすしか出来ないでいた。


 元々入っていたヒビかどうかがわからないのと同じで、アイツのせいで入ったヒビではないと証明する手段もない。

 こうなってしまっては、どっちがやった、やってないの不毛な水掛け論が始まるだけだ。


 高校入試の時より遙かに頭をフル回転させて何か打開策を考え出そうとするけれど、おそらく何を言ったところで反論から水掛け論になってしまい、そうなってしまってはとにかくこっちの分が悪い。


 センパイはそこまでわかった上で、この展開に誘導したのだ。


 その場しのぎで取り繕う言葉の一つさえ浮かばない。


 今度ばっかりは本当にヤバい……。


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