犬神使い

海石榴

第1話 犬の生首

 白い朝霧の中から、白い影がぬっと現れた。

 阿波吉野川北岸沿いの撫養むや街道を一人の山伏が歩いている。

 頭の兜巾ときん、そして結袈裟ゆいげさ鈴懸すずかけ法衣ほうえといった姿は、山伏として変わりばえしないものであるが、すれ違う人々は「ギョッ」と目をみはり、道をゆずった。

 なんと、その山伏の金剛杖には、犬の生首がぶら下げられていたのである。

 山伏は三好郡みよしごおりのとある村里に入り、聚落しゅうらくのもっとも高台にある大きな屋敷の門の前で歩をとめた。

「ごめんあれ」

 おとないを入れたが、屋敷内から返答はない。

 山伏がさらに声を張りあげようとしたとき、門の扉が少し開き、そこから家僕らしき小男が顔をのぞかせた。

「行者どの。こんな朝っぱらから何用じゃ。誦経ずきょう祈祷きとうなら、お盆やお彼岸だけでよいわ」

 ええいっ、面倒な――と思ったのか、山伏は小男の面前に、犬の生首を突き出した。

「ヒエエエーイッ」

 小男のただならぬ悲鳴に、家の者数名が「何事ならん」と飛び出してきた。さらに、火吹き竹を手にした下女や、天秤棒を用心深く構える下男も出てきて、山伏の前に人垣をつくった。

 山伏はそれらの者をゆっくりとめまわして、門内にずずっと押し入り、誦経ずきょうで鍛えた声を張りあげた。

名主みょうしゅどのはおられるか。わしは行者の円覚坊えんかくぼうと申す」

 そのとき、家僕らのうしろから声がした。

「行者どの。何かご用でございますかな」

 下男・下女の群れを掻きわけるようにして、一人の中年男が山伏の前に進み出た。長身瘦躯の落ちついた物腰、整った細面の顔立ちは、この人物こそが屋敷の主であることを示していた。

 山伏が念のために訊く。

「名主どのでござるか」

「左様。名主の甚兵衛でござる。何用ですかな」

 山伏が金剛杖にぶら下げた犬の生首を甚兵衛の前に突き出して見せた。

「犬神さまのお告げで参った。聞かれよ。ここの娘御は呪われておる。いずれ近いうちに発狂し、必ずや死に至るであろう」

「………」

 無言の甚兵衛に、山伏の円覚坊は重ねて言った。

「聞こえておるのか。ここの娘御は犬神さまに呪われておるのだ」

 甚兵衛がゆっくりと口を開いた。

「ふむ。左様か。なれど、わたしはそのようなことは信じぬたちでな」

 円覚坊は驚愕した。

 この室町中期の時代に、犬神の祟りを怖れぬ者は皆無と言っていい。祈祷や呪術、呪詛じゅその法は効験があると信じられ、山伏自体が人智を超えた霊力を持つ宗教者として、人々から畏怖いふされていた。

 なのに、この目の前の男は、なんの怖れもなく「信じぬ」と言うのだ。

 円覚坊は唇を歪め、最後の切り札を口にした。

「犬神さまを敬わぬとは、天罰が当たろうぞ。では、やむを得ぬ。この村の方々に犬神さまの祟りが憑依ひょういせぬよう、ここの娘御に近づかぬよう説いてまわるしかあるまい」

 それを聞いた瞬間、名主の甚兵衛の顔が蒼褪あおざめた。娘のお喜代は嫁入り前の大切な時期なのだ。よからぬ評判が立っては、折角まとまりかけた良縁が破談になるであろう。お喜代は隣村美馬郡みまごおりの名主の息子との縁談が進んでいた。

 甚兵衛はやむなく懐中から銭袋を取り出し、それをそのまま円覚坊に与えた。無論、これで「よしなに」という意味の銭である。

 山伏はにやりと笑って、ずしりと持ち重りをする銭袋を受け取り、言い放った。

「この屋敷には、何やら悪霊が憑りついておるようじゃ。次に来たときに、折伏しゃくぶくして進ぜよう」

 甚兵衛は山伏が去ったあと、溜息をき、下男の留蔵に「わしはよく知らぬが、実際に犬神に祟られたという人はおるのか」とたずねた。

 留蔵は「へえ」とうなずき、愕くべきことを語り出した。 

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