アパートの鍵をかけて、外に出た。

 エアコンがきいていた部屋とは違って、すごく暑かった。白い帽子を、深くかぶり直した。

 途中で、いつものスーパーに寄った。てきとうに食材を買った。

 猫の柄のエコバッグから、ネギの先が飛びでている。少し歩いて、バス停でバスを待った。


 家を出てから、四十分くらいで着いた。もう何度も通っているから、迷ったりはしない。

 白い壁と、薄いオレンジ色の屋根。わたしたちのアパートよりもずっと家賃が高そうな、メゾネットタイプの部屋だ。

 チャイムを押すと、すぐにドアが開いた。

さとるさん。こんにちは」

「紗恵ちゃん。どうしたの?」

「べつに。どうしてるかなって、思っただけ」

「紗希とデートしてから、まっすぐ帰ってきたよ」

 玄関に入ると、急に涼しくなった。全身にかいた汗が、ひやっとしたなにかに変わっていく。

「暑かった? 顔が真っ赤だ」

「うん。あつかった」

 額に感じる汗を、指先で拭った。

 紗希ちゃんと違って、わたしにはお化粧をする習慣がない。精密機械の部品を作る工場で働いているから、仕事中は頭にキャップをつけるし、マスクも外せない。仕事が終わってから、女子更衣室にある横長の鏡の前で、お化粧をしてから帰る人が多い。でも、わたしはしない。

 お化粧をしないままで帰ろうとすると、男の人に愛されるためにはメイクをしないといけないと言ってくる人がいる。男の人のためにしないといけないらしい。女の子なんだからとか、メイクするのは楽しいとか言ってくる人もいる。余計なお世話だと思う。

 そういう人たちには、そういう人たちの考えがあるのだろう。だけど、わたしにも、わたしの考えがあった。

 本当に必要だと思ったり、したいと思うまでは、しない。気弱に見られることが多いけれど、実はわたしは、そうとう頑固だ。


「冷蔵庫、借りていい?」

「いいよ」

 フローリングの床に屈みこむと、少しくらっとした。ふらつくわたしのすぐ近くで、悟さんが中腰になった。

「大丈夫?」

「う、うん。夕ごはん、食べた?」

「まだ」

 ネギやお肉を冷蔵庫に入れた。手を引かれて、広い部屋に向かう。

 わたしにソファーを勧めて、悟さんはわたしの足元の床にあぐらをかいて座った。

 真剣な顔をしていた。

「どうしたの……?」

「もう、紗希とは別れようと思ってる」

「……えっ」

「紗恵ちゃんに頼まれたから、続けてきたけど。もともと、俺が告白したのは紗恵ちゃんで、紗恵ちゃんが俺とつき合ってたのに。

 どうして紗希とつき合ってほしいなんて、俺に言ったの?」

「それは……。紗希ちゃんに、言ってなかったから。あなたと……あの、つき合ってるって」

「今からでも言ってほしい。難しい?」

「うん……。わたし、知らなかったの。紗希ちゃんが、あなたを好きだったって。

 あなたに告白された時に、わたし、すごく嬉しかった。そういうことを、人から、言われたことがなかったから。でも……。好きだったから、つき合ったんじゃなくて、ただ嬉しかったから、つき合ったのかも……しれない」

「それで? そのことと、俺が紗希とつき合うことと、何の関係があるの?」

「それは、だって……。紗希ちゃんの方が、あなたを好きな気がしたの。だから、あなたも……」

「俺は、紗恵ちゃんを嫌いになったりはしないよ。むしろ、前よりも好きになった」

「え、えぇ?」

「自分の気持ちを正直に話してくれる。誠実な人だと思ってる」

「うーん? そうかなあ? わたし、ひどい女だよ」

「それは認めるけど」

 そうだ。ひどい女だ。お化粧もしないで、部屋着のようなノースリーブのワンピースで、なんの約束もせずに、ふらっと来たりする。

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