12話  若紫の愁い

 もともとはライバルだったし、これからも貸したり借りたり、きっとそうやって腐れ縁が続いていく――。


 美優はそう言ったし、俺も彼女の言うことが腑に落ちた。

 ほんのひと時であれ、美優に心惹かれたのが嘘のように、俺の心は静かだった。


 俺はたぶん、ミコトとこうして出会えただけで満足だった。

 あこがれて、同じ地平から同じ景色を見たかった。それが叶ったようで、あたたかい気持ちになったのだと思う。


 だから、これはたぶん、恋とは違う。恋がなんなのかは、わからないけれど。


 そのあとは、女子たちが去ってからもしばらく、露天風呂にとどまってしまった。

 熱い湯につかったまま、頭だけ妙に冷えて、俺はじっと星空に吸い込まれていく湯気を見上げながら、考え事を続けた。

 これだけ長湯をしたのは初めてだったが……俺は意外と風呂好きな人間なのかもしれないな。


 湯上がりの、急にぼんやりする頭で廊下を歩いていると、向かいから浴衣に身を包んだ少女が歩いてくる。


 近づいてみると、それは美優その人だった。


「おっ……」


 俺たちは、互いを認知するとやにわにほうけてしまう。


 それからなんてことはなかったように、近くの休憩スペースのソファに収まった。


「あいつらは?」と、俺はたずねる。


「トランプしてるよ。私は、ちょっと抜けてきた」


 手を団扇うちわにしながら、美優は言う。

 湯上がりなのを知っているから、こいつものぼせ気味なのであろうことはわかった。


 美優は淡い赤紫の浴衣を着ていた。確か、これは若紫色わかむらさきいろというのだ。ミコトの小説で、花の色をそう形容していたのを覚えている。

 ミコトは、それを恋のときめきの色なのだと言っていた。


 浴衣の合わせ目はややもはだけていて、団扇にした手にあおられ、恋の色の合間に白い肌がちらついた。

 あれほど湯の中で静かにしたはずの心が、にわかに沸き立ってきそうだった。


「君ものぼせたみたいだね?」


 気がつくと、美優は横目に小悪魔な笑みでじっとりと俺を見据えていた。

 あの場で俺が聞き耳立てていたであろうことも、見抜いている表情だった。


「まあな……」


 すっかりやられた気分で、俺は噴き出してしまう。

 こいつには、何がどうあっても敵わない。


「男の子なのだから、仕方ない」


 美優は勝ち誇ったような表情で、妙ちくりんに鷹揚つけて言う。


「文学少女様が……なんとまあ、はしたない」


 俺はやっと笑いが収まって、ささやかながらの仕返しを試みる。


「女は、はしたないくらいがあでやかなのよ」と、もはや十代のそれとは思えない切り返しで、俺は完封されてしまう。


「変わったよな、お前」


 せめてものお返しに、そう言ってみる。


「かもね」と、こいつは否定しない。


「私もちゃんと、普通の女子高生、できるみたいだもんね?」


 勝ち誇ったような調子だけは、控える気がないようだ。


「そうやって変わっていけば、そのうちに……ほら、魔女の宅急便でも言ってた」


「急に、書きたくなる?」


「そう、それ」


「そうなるかもしれないよねえ」


 美優は、不意に吐息のように言って。

 あれほどたわむれていたのに、その横顔には急に、憂いの色が訪れていた。


「君は、人は変わり続けるのが美しいと思う?」


 そんなことをたずねてくる。


「どうだろうな……」


 俺は答えをためらう。

 大人はきっと、子どもの成長を喜ぶものだ。

 けれども、当事者にしてみれば、ご都合主義にもほどがある。


「変わることで否定されてしまう気持ちもあるんだよ。なのに、人はそれを幼さだなんて呼ぶ」


 なんと浅はかで傲慢なのだろう。

 淡々と述べているようで、美優はそんな怒りさえ伝えようとしていた。

 けれども、俺がそれを理解したときには、困ったような笑みを浮かべて、


「私は恵まれてるんだ。それでもなんとかなってるから」


 この状況ではまるで俺が責められているようだったから、あえて自分が折れてみせる。


「中学生の頃は本当に誰も彼も拒絶しちゃってたし、普通だったらたぶん、いじめられて引きこもりか、そうじゃなくても大人になるまでのどこかで社会不適応か。でも、かろうじて私にはミコトがいる。私の書くもの、流行るようなジャンルでもないのにさ。ラッキーだよね。このまま書けるようになれば、この道で生きていけるかもしれない。高校生のうちからその可能性を持っていられるなんてね」


 美優は本当に、それが恵まれているのだと思っている口調で言うのだった。

 確かに、もちろんそれはその通りなのかもしれない。でも、そんなのは大人だから納得できることではないのか? 俺たちのような年齢で、そんな風に思えてしまって良いのだろうか?


「君にもえらそうなこと言っちゃったからね。言えるだけのとこは、見せなくちゃだよね」


 美優はひと通り言い終えると、すっと立ち上がる。

 座ったままの俺を見つめ、それはたぶん、「戻ろうか?」と言っていた。


 俺は黙ってそれに従う。

 美優は、俺の少し先を歩いた。


 おかげで俺も冷静になっていた。けれどもそれは、さびしさでもあった。

 俺はたぶん、弱音のひとつでも言ってほしかった。まだまだ青春が足りない。そんな情けない横顔を見せてほしかった。そうすれば、俺が情けない下心で抱きかけたモヤモヤも、本当に恋心へと変わっていたのかもしれないのだから。


 けれども、美優の後ろ姿はあまりに遠かった。

 届かないままではいたくないのに、俺には想像も及ばないようなずっと先を歩いている。


 なぜそんなにも早熟でいられるのだろう?

 あるいはそのワケを知ることができれば、俺もこいつの背中に追いつく方法が見つかるのだろうか?


 ミコトが恋の色と呼んだ背中を見つめながら、俺は果てしなく、そんな重い思索しさくに沈んでいた。

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