第2話

 しゅっしゅっとチケットを捌いているとぴしと人差し指が裂けて黒い血が滲んだ。舌で舐めるとまたも同量の血が滲む。苦い。ややも深く割いたようだ。ポケットティッシュで止血を試みるも白い繊維の隙間からまたしても血がじゅうと滲みと封筒とチケットの狭間にぽったと垂れた。急いで新しいティッシュで机を拭き、すいません、ちょっとお手洗いにと言って席を立つ。膝がずきんと傷む。

 「あのさ、ワレメさんね……ちょっと作業中のお手洗いはなるべく、さ」

 窓口担当の渋谷を横目に、僕はすいません、すいませんとへこへこ頭を下げながら早足にトイレへと向かった。

 じゃあじゃあ水で傷口を濯ぐと少量の血が固まっては、赤黒い糸筋の線となって排水溝を流れ落ちた。存外早く血が止まりそうでよかったと安堵する。ふうとまた大きな溜め息が漏れ出た。顔を上げ鏡を見る。分厚い黒のスラックスに薄手の白い半袖のYシャツがきつくベルトに締め上げられている。グリーンの紐を首にかけ、顔面は無表情。また髪が少し薄くなった気がする。

 左目の潰れたいつもの男がそこにいる。“潰れた”といってもそれは言い過ぎかもしれない。ぱっと見は綺麗に左目は収まっているように見えるだろう。よくよく眺めるとその目はあまりにも無機質で微動だにしない。乾いている。そして表面の物質に対して光の反射が鮮やかすぎることに気がつくだろう。奥行きの一切ないその目は義眼だ。僕は僕を眺める。目が合う。合うということではない。右目で左目を眺める。ぼうっとした表情の左側。どうってことはない。いつもの光景だ。

 中廊下を早足に戻ると、磯田館長がスマホをいじっているのが見えた。大体いつもスマホを触るかPCを眺めてぼーっとしている。

 「ワレメさん、必ず時間内に作業は終わらせてくださいね」

 渋谷の声は若い。僕は相手の顔を見ずに小さくはい、と返事して自席についた。光枝がまたつかつか僕のほうに歩いてきては左側に座った。「渋谷さん!ワレメじゃなくてワリメですよワリメ!全くトイレにいくのに毎回ねぇ!」電話をかけようとした渋谷が動きを止め、不機嫌そうにこちらを向いた。前の主事さんはねぇ、そんなこと。光枝が続けるので渋谷は益々不機嫌そうな表情をしながらダイヤルを押しはじめた。

 「あのさ、知ってる」

 なにがです、と僕は封詰めを再開しながら答える。今度配属される主査って美人でやり手のキャリアウーマンらしいわよ。なんでも改革推進課から来るんですって。ハコモノ行政を切り捨てる気なんじゃないかってみんなの噂よ。肩を大きく左右に揺らしながら光枝は嬉々として話す。僕はちらちら光枝を見ては、すぐにまた正面を向いた。噂話のみんなは、他の臨時社員のひとたちだ。僕はやっぱり最後にこういった話を聞く。そのへんの石っころに話しかけるぐらいの感覚で、きっと僕は見られている。人畜無害で敵とは見なされていないだけまだ相当にましなのかもしれないが。でも、普通に考えてそれって我々臨時職員の雇用がかなり脅かされるんじゃないですか、と僕は言いかけては口を噤んだ。

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