幕間 森の中①




 暗闇の森の中で男は身動きができなかった。


 髪を掴まれ後ろに引かれ喉を晒している。その喉元に鋭い刃物が突きつけられている。そのひんやりとした感触が夢ではなく現実だと教えてくれている。

 深く呼吸をすれば刃が喉の皮膚を裂くかもしれない、その思いで呼吸が浅くなる。声を出せばやすやすとそれは喉を突き破るだろう。

 冷や汗がつつとこめかみから流れ落ちた。


 その短刀を突きつけているものが背後にいるはずなのだが背後から人の気配はない。ただ闇から腕が出て刃物を自分に突きつけているような錯覚に陥る。殺意さえないそれが短刀一本で自分を拘束している。その事実がさらに恐怖を煽った。


 細かく震えて正面を見据えていれば、森の闇からがさりとローブ姿が現れる。これは今まで監視していた女の同行者だ。

 目元に包帯を巻くその少年は危なげなくその男に歩み寄った。そして男の前に屈み込み、躊躇いなく目元の包帯を額に押し上げゆっくりと瞼を上げた。


 男はその少年に見つめられて目を瞠る。

 月光の中で浮かび上がる美貌とその漆黒の目から放たれる圧が半端なかった。黒い刃の、鋭利な短刀のようにその双眸は正面の男を見据えていた。


「こんばんは、おじさん。いい月夜だね。でも満月の夜の偵察はもっと気をつけなくっちゃ。」


 包帯を頭から外す表情は笑顔だ。しかし目はやはり笑っていない。それとわかる圧をかけている。


「わかってるんだけどさ、一応確認ね。誰を監視してたの?」


 声変わり前の優しい口調。だが語られる言葉は尋問。少年から発せられる圧が拒絶を許さない。

 男は声を出そうとするが喉元のナイフが皮膚にうっすらと刺さる。血こそ出なかったが薄皮が裂けた感覚に息を呑む。


「ああ、ごめんごめん、忘れてた。短刀外せないんだった。じゃあイエスならゆっくり一回瞬き、ノーなら素早く二回瞬きしてね。狙っていたのは僕?」


 素早く二回瞬き。


「‥‥じゃあやっぱり彼女かな?」


 ゆっくり一回瞬き。


「ふぅん、そうなんだ。素直に答えてくれて助かるよ。答えてくれなかったら色々面倒なことになってたし。僕は荒事は苦手なんだよね。」


 正面の少年は笑い顔を貼り付け目を細めている。短刀は微動だにせず喉元に当てられたままだ。緩い汗がうなじから背の襟元に滴った。


 監視の中で遠目でも包帯をしている少年が監視対象の側にいるのはわかっていた。表情が乏しいと思っていたが、包帯がなければこの少年はこれほどに表情豊かなのだと男は身を震わせた。主に恐怖にであるが。


「依頼者の名前を知ってる?」


 少年は男に静かに囁く。


 素早く二回瞬き。

 これは本当に知らない。


 女を尾行し監視する。それだけで週で半年分の稼ぎが手に入る。そう酒場で誘われて女と子供の跡をつけた。話を持ってきた男は報告があると言ってこの場にいない。間が悪かったのか一人の時を狙われたのか。

 いずれにせよ詳しい事情は知らないのだ。


「もう一度聞く。依頼者の名前を知ってる?」


 少年は躊躇いなく喉元の短刀に人差し指をかける。軽く押されただけで短刀は喉の肉を薄く裂いた。血が滲みつつと喉を伝った。その恐怖でこめかみを汗が再び流れ落ちる。


 カクカク震えながら素早く二回瞬き。

 少年は目を細め笑みを纏う。


「依頼者の顔は?性別でもいいよ。知ってる?」


 素早く二回瞬き。


 その様子に少年は短刀から指を離し小首をかしげ軽い声をあげる。


「そうなんだ。じゃあ答え合わせしようかな。」


 腰のバッグから茶色い小瓶を取り出した。それを男の目の前に掲げて見せる。


「これは自白剤。結構高い薬だからきちんと残さず飲んでね。上手に飲める?口を開けてくれると助かるな。飲まないという選択肢はお勧めしないよ。」


 少年は瓶の蓋を開け自分の手の甲に一雫垂らしそれを目の前で舐めて見せる。


「ほらね、毒じゃない。きちんと飲んで話してくれれば命は助けてあげるよ。答え合わせがあっていればね。おじさんは話がわかるいい人みたいだから。」


 神々しい美貌が凍てつく冷気を放ちながら微笑んで見下ろしてくる。その微笑みは美しいを通り越して凄みに近い。その視線だけで凍りついてしまいそうだ。

 少年の見た目の歳からは考えられないその圧に、静かな恐怖に抗えるわけがない。 


 この抗えないものをなんと呼べば良いだろうか。

 

 喉元の短刀の角度が変わる。少し顎を動かせるようになった。息苦しさから男は大きな息をついた。喉の短刀で皮膚を裂かれないよう、のけぞるように顔を上に向かせながら口をゆっくり開けた。


 その様子に少年は静かに笑みを深めた。


「ありがとう。すぐ済むから。答えが合ってるといいね。」

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