第八章(3)…… クチナシ


 一ヶ月のあいだに一度だけ、須藤務が十年前に修哉を川に投げ込んだという証言から警察から事情を聞かれた。


 だが、修哉は門崎明音については黙っていた。

 アカネが話さないでいいから、と言い張ったからだ。


「どうして黙っとくんです? アカネさんのご家族だって心象が変わるかもしれないのに」

「もういいのよ」


 アカネはさらりと言ってのけた。

「それにあたしが死んだ理由が知れたら、またあの子を追い詰めかねないでしょ」


 アカネは、須藤務のことを、あの子、と呼ぶ。彼女からすれば、修哉だけでなく同年代前後まとめて皆が子ども扱いになるらしい。


「真実が正解ってわけじゃないのよ」


 季節が移り、春から初夏の気候に変わる。

 気温はすでに暑く、日中は半袖を着るようになった。斜めだった太陽光が真上から照りつける。日に当たる肌に紫外線が刺さってくるようで、暑いと言うよりも焼けて痛い。


 周辺の緑は濃くなって生い茂り、その上の空の青は輝いて高い。丸い雲がふたつ、白く浮いている。


 日差しを反射して、ぴかぴか光って目がつらいくらいの黒灰色の墓石の上にアカネが腰掛けている。不謹慎な姿だとは思う。でも、これが本人の墓でもあるから、他人がとやかく言う筋合いはない。


「あたし、親がけっこう歳になってからの子だったの」


 アカネが墓石の側面を覗き込む。戒名と命日、俗名と行年が彫り込まれている。明音の左隣にふたつの戒名が並ぶ。男女の行年は八十五と七十五だった。


「あと残ってる家族は、歳の離れた兄だけ。あたしが学生のときに結婚して、子どもが三人いるの。あたしは弟妹が欲しかったんだけど、親がけっこうな歳だったからもう無理で。だから、兄のところに子どもが生まれて、弟と妹ができたみたいで嬉しかったのよね」


 その影響もあったのかな、とアカネは笑った。


「あたし、保育士やってたの。子どもが大好きだったから。仕事はけっこうね、シュウも知ってるとおり大変だったけど」

 それでも小さい子の面倒見るのはとっても楽しかったわ、と声を弾ませる。


「日々すこしずつ成長して、ちょっとずつできることが変わって、せんせいせんせいって笑ってにぎやかで、みんなてをつないで、公園までくっついて連れて行って遊び回って」

 アカネは遠くを見やりながら、両脚をゆらゆらと上下に揺らしている。空の色と同じ、水色のワンピース姿。回りから浮き上がるような華やかな雰囲気を放って視える。


「アカネさん、オレより二十も年上だったんだ」

「やだシュウ、女性にそういう繊細な話題を振るのはよくないわよ。それにこれは数え年だから、死んだ時あたしまだ二十代だったんだから」

「ぎりっぎりですよね、ってかオレはそっち興味ないです」

「いやな子ね」


 冗談とわかっていて笑う。


「ねえアカネさん、オレさ、もしかしてアカネさんをこの世に縛ってたりする?」

 アカネは目をしばたたかせて、きょとんとした表情をしている。

「えっと……なんですって?」


「アカネさんの思い残しってなんなんです? アカネさんが亡くなった理由はわかったし、オレの件も決着したし、本当ならもう上がっていても不思議じゃないんじゃ……」

 オレが縛ってるから。だから成仏できない。声にならなかった。


「あのね、シュウ」

 ふいっと横を向く。口を尖らせている。

「あたし、確かに自分の死因と理由をはっきりさせたかったけど、それは自分が子どもを守る立場にあって、自分の内にある正義感があんなことをするやつを許せなかったから」


 でもそれは目的じゃないから、と横目でこちらへと視線を流す。発する語気が荒くなった。


「あなたがあたしを縛ってるですって? 思い上がらないで。そんなもんであたしをどうこうできると思ってる? みくびられたものね」


 そこまで言って、ふわりと柔らかな笑みを浮かべる。

「大体、あなたがそんなふうに変な気を回すから、本当のこともずっと言えずじまいだったのよ。あたしはね、自分の死んだ歳までシュウが生き延びられるか、見届けるためにいるのよ」


 顔をしかめて、んべ、と舌を出してみせる。

「だから、早く成仏させようとしたって上がってあげないんだから」


 アカネは墓石の上で腕を組んだ。


 早く彼女つくって結婚でもすることね、そうしたらさすがに邪魔もできないから消えてあげる。アカネが涼しい顔で、そう宣言する。


 アカネの指示に従いながら、修哉は墓回りをきれいにした。

 山の上段に位置した場所のせいで、後ろは生け垣となっている。


 その向こうは公園で、なにかの樹木が白い花を咲かせているのが見えた。


 甘く香る。あ、と思った。アカネさんから時折匂うのと同じ。


 視線を向けていると、アカネが言った。

「あれはクチナシの花」


 へえ、と答えて、しばし眺める。八重の花。花弁がたくさん重なる、バラの花に似た白い花だった。大きめの樹木にいくつも咲いた花が、周囲に良い香りを漂わせている。


「あたし、あの香りが好きなの。梅雨の時期に咲く花だから」


 気持ちを癒やしてくれるから。

 修哉は、持参した花を供えて線香に火をつけた。


「自分がここにいるのに、なんかへんな感じね」


 そう言って、すこし困った顔をして笑う。手を合わせて、目を閉じ、ふたたび開けるとそこにアカネがいる。


 修哉も苦笑した。

「まあ、そうでしょうね」


 まさか自分の墓に墓参りをする者を、実際に目撃するとは思いもしないだろう。この矛盾はなんとも言いがたい。


 このあいだ、アカネは話してくれた。あの晩のこと。

 地元で学生時代の友人の結婚式に出て、帰ってきたらとてつもなく気分が落ち込んでしまったこと。その半月ほど前に、結婚を意識した相手から別れを告げられたこと。


「すでに別の相手がいて、子どもができてしまったからって、一方的よ、話し合いにもなんないんだもの」


 非道いわよね、と言って、わざとらしく溜め息を漏らした。


「もうね、結婚式帰りでなんか自分だけみじめに思えちゃって、やけ酒飲んで忘れようと思ったの。でね、ちょっと深酒しちゃって公園で酔い覚まししてたらなんかもうむしゃくしゃしちゃってSNSにガーッと書き込みして、ふざけんな、みんな死んじゃえとか息巻いて河川敷歩いてたら、偶然、見ちゃったわけ」


 だれかが橋の上で争ってる。

 なにをしてるんだろうと思う間もなく、落水するのを見てしまった。酔った頭では冷静になれなかった。


「ばかよねえ、あたし学生時代に水泳部でね、そこそこ早くて入賞したりしてたのよ。だから自信あったのね。でも所詮、きれいな溜め水って静止した水じゃない? あんな押し流される濁流にふつうの人間が逆らえるわけがないのよね。だいたい、学生卒業してから何年経ってるんだ、って話。いくら子ども相手の仕事をしてたと言っても、使う筋力が違うわよ」


 あとね、とアカネは人差し指を空に向けて言った。

「あたし、思ったより酔っ払ってた!」

 あとはもうシュウも知ってるとおり。あっさり言い放って、アカネはただ明るく笑った。


「さて、おふたかた、そろそろ帰りませんか」

 背後からグレが声をかけてくる。


 あ、そうだ、と修哉は訊きたかったことを思い出した。

「ねえグレさん、オレ訊きたかったんだけど」

「なんです?」

「グレさんさ、あの駐車場で中野になんかやったよね? 逃走してる最中にあんなに取り乱すって、一体どんな脅かしかたをしたのかと思って」


 不自然なほどグレの動きが止まる。グレはちらりとアカネに視線を向けた。


「得意な方法で脅かしてやったのよね」

 ね、グレ、とアカネが同意を求める。はあ、とグレは気の抜けた返答をした。

「ええ、まあ。私は轢死なので。バラけたまま、上から降ってやったんですよ。なんとしても停車させたかったんで。頭だけで膝の上に乗ってやったら、意外に反応がデカくてですね。まさか、あんなふうにハンドルから両手を離すとは思ってませんでした」


 必死にこらえていたアカネが吹き出して笑う。

「いやよねぇ、なにも大の大人が漏らしてまで驚かなくてもいいのにねえ」

 首の後ろに手をやり、グレが照れたように笑う。

「あんなにうまくいくとは思いませんで、ちょっと」と言いかけて、いや、と改める。「あれはかなり、気分がよかったですね」


 おもいきり修哉は渋面になった。やだ、こいつら怖い。


「そういや、グレさんってあの時、血が出てなかったけど」

「あの時? ですか?」

「駅のホームでアカネさんにぶっ飛ばされて、線路の上に散らされたとき」


「ああ、あれですか」

 合点がいったらしく、上向けた手のひらにぽんと拳を乗せて叩く。


「なんで流血なしなんです? 単なる再現でしょう?」


 グレはいやに眉を寄せて言った。「そんなに気になりますか?」

「いや……なんか違和感があってさ」


「あれは単に、私が血を見るのがいやなだけです」

「——は?」

「いやでしょう、そりゃ。血を見るのはぞっとします」


「……え……っと、あぁ、そうですか……」

 そんな理由だったのか。ってか、最初は血塗れだったじゃないか。


 元ヤクザのくせに、血が嫌いってどういうことだよ。


「我慢できるのと嫌いは別問題ですよ、修哉さん」

 心の内を読まれたかのように、もっともらしくグレが力説する。


 修哉は上を向いた。ぐっと目を閉じた。やっぱりこいつら、よくわからない。


 そっけなくアカネがグレに返した。

「次回はグレの墓参りかしら」

「私は死んだ以前のことを覚えてませんので、墓の探しようがありませんよ。それより、さっきから向こうで寺の坊主がこっちをチラチラ見てるのが気になってしかたがないんですがね」

「あー、それオレも気になってた」


 修哉も同意する。落ち着かないようすでグレが寺のほうを伺う。


「祓われてもつまらんですし、早く退散しましょう」

「っていうか、グレ、あなたもうそろそろ上がるときじゃないの? 思い残しもないはずでしょ」

 しらけた口調でアカネが言う。墓石の上からふわりと漂い、修哉の左肩に落ち着く。


「冗談じゃないですよ、まだじゅうぶん未練はあります」

「え? なんで?」

「兄さん、痩せすぎなんですよ。もうちっと食って鍛えて筋肉つけてください。モヤシかアスパラガスみたいな細っこい体型だから、いざとなったときに困るんですよ」


「ええ、——オレ?」

 まさか、予想外の流れ弾がこっちへ飛んでくるとは思わなかった。


 たしかに須藤務の投身自殺を未遂に終えてほっとしたのもつかの間、早々にガチガチの筋肉痛に襲われながら家にたどり着き、翌日から高熱を出した。

 灼熱に浮かされ、激痛でまったく動けず、丸一日は熟睡することもできなかった。結局、丸々三日間寝込むことになった。


 あんな極限の事態が二度も三度も起こるとは思えないんだけど。それにいくらなんでも、グレみたいな体型になるのはちょっと……と、明白な不満を顔に示す。


「美味い店を知ってるんです、そこへ行きましょうや兄さん」


 え? と思った。

 もしかしてアカネさんだけでなく、グレさんも記憶が戻ってるんじゃない?



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