第七章(1)…… 夜の階段 2


 なんとか膝立ちになって身を起こす。見れば、務の身体が小刻みに震えていた。そして、小さな声で訴えてくる。


「どうして、放っておいてくれなかった」


 答えようがない。言葉に詰まっていると、アカネが背後から言った。


「冗談でしょ、そんなことをしようもんなら、こっちがあんたの父親に祟られるわよ」


 修哉は、ちらとアカネを振り返った。肩をすくめている。


 修哉は軽く目を閉じ、息を吸い、大きく吐いた。観念するしかない。どう思われてもかまうものか。


「そんなことしたら、あんたの親父さんに祟られるってさ」

 須藤は顔を上げ、こちらに目を向けた。泣いている。 

「……なんだって……?」


 アカネが耳元でささやくのを、そのまま務に伝える。

「なんせ必死に、あんたをこの世に繋ぎ留めてたから」


 ふと、頭にひらめく考えがあった。

 ああ、そうか。そうだったのか。

「あんた、……本当は、母親の葬式後に自殺しようと考えたのか」


 見上げていた顔が呆けて緩んだ。

「なぜ、それを——」

 そう言って、務は声を失った。


「あんたが昔住んでた家、火災があった後に新しくアパートが建ったけど、幽霊が出るって噂になってるのを知ってるか」

「……幽霊……?」

 修哉はどう切り出すべきか迷い、頭の後ろをガシガシ掻いた。

「ああ、そうだよ、幽霊。仲間内で話題になったんだ。オレも気になって見に行った」


 信じてもらえるかわかんないけど、と前置きして続ける。

「そしたら、侑永らしき姿を見た。あんたのことを心配してるみたいだった。そこで、なにかを手渡される幻影を見た」


 あの場所にいた煙の少年。小さな手を差し出され、渡されたガラスのかけら。

「オレがあんたに川へ落とされる間際、あんたの持ち物をつかんで……それが、」

 願いをこめられて確かに託された。


 おねがい、さがして。

 さがせるのは、知ってるひとだけだから。きっと、そう言われたんだと思う。


「あのストラップのかけらだった」

 まるでとりとめのない話だ。狂人の戯言に聞こえる。修哉はしゃべりながらも、ちっとも伝わらないだろうな、と思っていた。


 そうだ。

 侑永から渡された、ガラスのかけら。忘れていた記憶。最初から関わり合いがあったのに、引き離されて、それぞれの胸の内にしまいこまれていた。


 証拠の絆は、ずいぶん前から自分の家に保管されていた。気づかれぬままに、再び発見されるまで眠り続けていた。


「あそこには最近までもうひとりの気配が残ってた。あの時には、あんたについて行ってたんだな」

 修哉は務に伝えた。

「親父さんは、きっとあんたを心配したんだ」


 せめて憑いて、憎しみであっても執着で繋ぎ止めて生き長らえさせることができる。


 だが、相容れない両親が同時に居座ったせいで、両者が互いの執着で干渉しあい、目的を見失ってしまった。不安定な彼らは、正気を維持するのが存外難しいらしい。身を以て知った。思いも寄らぬ誤算だったのだろうが、当事者の立場となればいい迷惑でしかない。


 そこへたまたま、修哉がふらりと過去を確かめようと舞い戻った。


 アカネは言った。まるであなたは闇夜の灯台のように輝いて見える、と。きっと他の霊たちも同じように感じたのかもしれない。


 いや、結局は仲間内の昔話をきっかけに、自ら引き寄せられたと言ってもいい。

 修哉が現れたのをチャンスとばかりに、侑永がすがりついてきた。


 打開の策を講じる、稀少な生者として見込まれ、巻き込まれてしまったわけだ。これもまた、いい迷惑だ。

 それでも。


「親父さんなりにあんたを救おうとしたのかも」


 本当に不器用だ。だから、こんな結末になったんだ。そう思ったが、もはや文句をつけたい相手は去ってしまった。

「母親もいなくなって、あんたの呪縛はなくなっただろ。もう自由だよ」


 務は頭を上げた。

「不思議なことを言うんだな……死んだ人間がまるで生きてるみたいに」


 困惑する。肯定すれば正気を疑われるし、否定すれば虚言を続けることになる。どっちに転んでもまともに取り合ってもらえそうもない。わかっている。

 いまは黙って、否定も肯定もせずにいるしかない。


「いったい、どこまで知ってる?」

「信じるかどうかわかんないけど」と修哉が言うと、務は「信じるよ」と返してきた。


「全部」

「全部か」

 修哉を見上げていた務は、目を伏せた。力なくうつむいていく。

「侑永のことも?」

「ああ」


「誰に聞いた」

「本人」

「本人……?」

「聞いたというのはちょっと違うけど。なんて言うか……説明しづらいな」


 でも、と修哉は務の胸の辺りを指さした。

「あんたにも心当たりはあるんじゃないか」

「……」


 間が空いた。務は、嘘だろ、とつぶやいた。両手で顔を覆う。


「でも俺は侑永と父を死なせた。恨まれててもおかしくない。だから、ずっと後悔し続けてた。俺なんかよりずっといい人生が、侑永にはあったはずなのに」


 修哉は、務を見下ろしていた。心が騒いだ。 


 このままだと死んでしまう。不器用な父親は、なんとか自分の息子を死なせないように繋ぎ止めようとしたのだろう。


 なんでこんなにも悲痛な顔をしているんだろう。


 在宅を偽ったせいで、弟が死んだから。訊ねてみる。

「火事があった日、母親から電話があっただろ。疑問に思ってたんだ。どうして侑永は家にいたんだよ」


「あの日、」と務は応じた。「侑永は約束が駄目になって家に帰ってきてたんだ」


 母親が前もって約束を交わし、侑永は友人宅に泊まる予定になっていた。だが、当日にその家の妹が発熱したらしい、と務は語った。

 夕方には高熱で体調が悪化したために急遽、泊まりの約束が中止になってしまった。


「侑永は自分で家族に伝えるからと言って、友人宅から家に帰ってきたんだ」

 約束がだめになっても、意外にも侑永は楽しそうだった。

「好きな番組をたくさん見ることができるし、ゆっくり兄ちゃんと話もできる。そう言った。いつもと変わらない夜になると言うのに、機嫌がよくて文句も言わなかった」


 いつも侑永は楽しそうだった。周りに気を使い、自分から楽しいと思えることを探すのが上手だった、と話す。

「俺とは思考の巡らせかたが違うんだなといつも思ってた」

 うらやましかったよ、と漏らし、つらそうに笑った。


 母親から確認の電話がかかってきたときも、いろいろ怒らせちゃうし、急いで仕事から帰ってくるかもしれないから言わないで、と懇願されたから、しかたなく承諾した。


 あの屈託のない笑顔を見て、喜んでくれるのが嬉しかった。そう務は続けた。

「あのとき、侑永の頼みを聞きさえしなければ。母親の怒りを買っても、きちんと伝えてさえいれば、あんなことにはならなかった。だけど……その日は無事に済んでも、いつかは同じことになっていたかもしれないと自分を納得させてきた」


 俺だけが死ぬか、父親だけが死んで自分と侑永が生き残るか。

 全員生き残って、単に離婚で決着し、いまも全員それなりの生活を送れていたかもしれない。

 どんなにか、すこしはましな生活が未来にあったのだろうか。

 いつも考えた、と須藤が話す。


「ずっと後悔してる」

 その目から涙があふれる。表情が歪む。

「父さんと侑永の葬式が終わってしばらくした頃だった。一時的に移り住んだアパートにあの男が訪ねてきたんだ」


「あの男?」

「さっきの白い車の運転手、あのクズ男。あいつは中野と名乗った。本名なのか、偽名かは知らない」


 静かな語り口に聞こえる。だが修哉には、務が必死に感情を抑え込もうとしているように感じた。


「母さんは中野と話をしたがった。家族を亡くしたばかりだと言うのに、やけに奴と親しげなのが気になった。必死に聞き耳を立てたよ。けど、俺に聞かれるとまずいと思ったらしくて、ふたりで外に出かけて行ったんだ」


 そりゃそうだよな、と務が自嘲する。「あんな話、俺に聞かせられるわけがない」


 あとをつけたんだ。そう言った。

「人気の無い場所で言い合いしてたよ。顔見知りもいない土地だったし、油断してたんだろうな。ふたりとも俺がつけてるなんて思いもしなかったらしくて、気づきもしなかった。離れたところから母さんと中野が話しているのを聞いた。あの時、初めて知ったんだ」


 俺と、侑永の父親が違うってこと。思いもよらなかった。

 母さんにとって、父さんと俺は邪魔な存在だったということも。

 そんなこと知りたくなかった。


「火をつける細工をしたってことを母さんは中野に訴えてた。あなたのためにやったんだって、真剣な顔で言うんだ。殺すつもりはなかった、離婚できればよかった。だから、侑永が死ぬとは思わなかったってね。俺は信じられなかった。殺人の告白を、さぞ正義のようにまくしたててるって、マジで意味がわからないだろ。俺たちは家族なのに、母さんの中では俺と父さんは死んでもよかったんだ。おまけに悲しむこともない。そんなのっておかしいじゃないか」


 家族の秘密。真実を知ってしまった。

 離婚を言い出しても、父さんは母さんと別れるつもりはないと言ったらしい。


 母さんはずっと、中野と絶対に一緒になりたいと考えていた。不可能だと思えば思うほど、反対されればされるほど、激しく願い、恋い焦がれ、だんだんと狂っていったんだ。


「中野は確かに言ったのかもしれない。侑永と三人だったら一緒になってもいいって、その場しのぎの甘い言葉を囁いたのかも知れない。でも、あの男は息をするように嘘をつく。自分に都合がいいなら、こっぴどく裏切ることになろうが相手の気持ちなど一切気にしない。人の心を持ってないんだ」


 そんな男の言葉を真に受けて、実行に移すほうもどうかと思うけどな、と力なく笑う。


「邪魔だから、思いどおりにするために勝手に人を傷つけてもいいという思考が信じられなかった。考えれば考えるほど頭がおかしくなりそうだった」


 いらない人間。消えてくれと望まれる人間。

「母親にとって、要らない俺が生き残った」


 中野はあっさり手のひらを返した、と務が溜め息交じりに言った。片手を力なく掲げ、くるりと裏返してみせる。

 要らないほうの息子と暮らす気は毛頭ない。男のために手を下したのに、なにひとつ思い通りにはならず、失ったものを後悔してももう遅い。


 務の顔には、裏切られても耐え続けた表情があった。

 気持ちを飲み込んで、支え続けた者の顔。感情を呼吸に融かしてただ放出し続ける。柔らかい感受性を保ち続けていたら、とても生きていけない。


 当時はまだ中学生だった。片親、しかも母親が生きていて、男児だった務には差し伸べられる手はなかった。どこにも逃げられない務に、さらに母親は追い打ちをかけた。


 表で、母親は務のせいで家族が死んだと言い張り、非難し続けた。自分がやったくせに平然と罪をなすりつける。でも自分があの時、事実を告げていれば侑永は死なずに済んだかもしれない。


 あまりの理不尽にどう処理していいかわからなかった。


「俺にも限界があったんだよ。あの家にはいたくなかった。悪いことをすれば警察が捕まえてくれると思った。そうすれば、母さんは俺をきっと見限る。離れられて暮らせる、もっとましな生活が戻ってくると思ったんだ。自分のことしか考えてなかった。浅はかだった。馬鹿だった」


 ずっと考えていた。どうすればいいだろうか。

 墓に行った。死んだ家族には許してほしかった。


 雨の中、家に帰りたくなかった。どうせ誰も探してはくれない。消えてしまえれば楽だろうなと思った。

 雨に叩かれ、ずぶ濡れで歩いているうちに夜になった。寒くて、いろいろ考えすぎて、もうどうでもよくなった。水を吸って重たい服と靴を引きずり、水たまりができた道を歩いていた。


 侑永とそっくりの背丈の少年が歩いているのが視界に入った。

 足元を気にして、水たまりをよけて跳ねていた。やけに楽しげに見えた。


 俺はこんなにもどうしようない世界のどん底にいるのに。

 もし、侑永が存在しなければ、こんなことにならなかったかもしれない。弟さえ、いなければ。こんな苦しい思いはしなくてすんだ。


 なんでまだ、ここに現れるんだ。俺が母さんに嘘を報告して、見殺し同然にしたからか。俺を恨んでいるのか。まだ苦しめたいのか。


 走り寄っていた。


 顔は見なかった。見れるわけがない。

 すくい上げて、橋から落とした。大雨のあとで川は増水していた。水量は多く、子どもの姿は暴れる黒い水面にあっという間に飲まれて見えなくなった。


 犯罪者になった。人を殺した。

 そう思った。夜の道を駆けて帰った。


 当然、翌日から熱を出して寝込んだ。うなされても誰も構いはしなかった。放置されてこのまま死ぬんだと思った。当然の報いだ。あんなことをしたんだから。


 予想に反して数日で回復し、びくびくして日々を過ごした。誰かやってくるんじゃないかと思った。

 しかし結局、事件は表に出ることなく終わった。ニュースを調べてもなにも出てこなかった。


 なにごともなく、変わらぬ日々が続く。拍子抜けすると同時に、もはや助けは来ず、ここからは抜け出せないのだと悟った。


「父親と弟が亡くなって、生き残った俺に対し、ずっと母親は俺に言い続けた。俺がちゃんと見てなかったからあんな火事になったんだ、もっと早く気づいてたら侑永は助かったのにって言うんだ」


 おまえが死ねばよかったのに、と何度も詰られた。

 あるときは後悔をしながら泣いて謝り、優しくなったかと思うと、翌日からは信じられないほどにひどい言葉を投げつけてくる。


 そのうち、逃げる気力は失せていった。母親を見捨てればいいのにできなかった。絡め取られるように判断力を失った。母親は絶え間なく面倒を起こす。騒ぎに怒る近所の住人に謝って回った。


 中野がたまにやってくると、へりくだって機嫌を伺う母親の姿に失望した。

 母親の面倒を見るだけが自分の役割となった。無感情に日々を過ごすのが当たり前となった。


 若い頃の容姿が衰えるのを、母親は酷く恐れた。自分の殻にこもり、やがて妄想に熟んで腐り、現実に我慢できなくなって正気を失った。酒と睡眠薬に溺れ、母親はついに壊れきって一線を越えた。


 あの日、風呂場で溺死しているのを見つけた。

 そこまで一気に告白して、務は大きく息を吐いた。

 抑え気味な口調になる。


「帰ってきたら、母親は静かに風呂水のなかに沈んでいた。老いた女が死んでいたんだ。なにも感じなかった」


 まるで狂気の毒に浸かって全身がふやけて、白い肉の塊にしか見えなかった、と務はこぼした。


「ただ、ほっとした自分がいて、その気持ちが……怖かった。もう疲れたんだよ。俺の気持ちはとっくに死んでた。だから母親の葬式を終えたら終わりにしようと思ってた」


 もうなにも残ってない。残しておきたいものもない。

 なにをしていいかわからない。

 ぜんぶ要らない。思い出なんていらない。


 なにもない薄暗い部屋で、務がぼんやりと過ごしている姿が浮かぶ。棄てれば過去は消える。気分がすこしだけ楽になる。


 修哉はやっと腑に落ちた。そうか、そういうことだったのか。

「だから部屋の中があんなに片付いてたのか」


 務はちょっと驚いた目をしてから弱く笑った。

「そうか、見たのか」

「ああ、相棒が見せてくれたから」

 へえ、と務が興味深そうな顔をする。

「そいつ、すごいな」

「ああ、明音さんはすごいんだ、いつも俺の手助けをしてくれる」


 務は目を見張った。理解が追いつかないような表情。


「あんたには信じてもらえないと思うけど」

 いいんだ別に、と修哉はつぶやく。わかってもらえなくてもいい。視えないものを信じてもらうのは難しいから。


 目の端に黒いうねりが近づくのが見えた。周囲を取り巻く。背後から記憶が忍び寄る。

 ふいに思い出す、あの濁流の中ですがりついてきた女――白く浮かび上がったアカネの顔。


 目の前にいる須藤務の顔が、記憶の黒い渦に飲み込まれる。融けて、重なる。

 あの時の務が、立ちすくんだまま橋の欄干を両手でつかみ、身を乗り出して黒い影が見下ろす。背後から差す照明で、輪郭だけが白く浮かび上がる。


 あの日、あの夜。

 橋の上から落ちる瞬間、上空に夜空が見えた。


 修哉は動揺した。ふいに記憶の底から、得体のしれない感覚が襲ってくる。

 着水したとたん、そこは真っ黒くて上下左右がまったくわからない場所。息が出来ず、とてつもなく嫌な泥の味をしこたま飲み込み、顔を水の上に出し、喘ごうとも逃れるすべはなく目も鼻も痛い。鼻腔がズンと痛んで、なんともいえない鋭いにおいが突き抜ける。


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