第六章(6)…… 夜の会談


 誰かが笑っている。


 耳を疑う。アカネとグレを探すが、グレは消え去り、アカネは怪訝な顔でこちらを見ている。

 含み笑いが次第に大きくなる。どこかから聞こえる。修哉とアカネの視線が同時に一点へと向く。


 笑っているのは、須藤務だった。

 壁にもたれた須藤務がうなだれたまま、笑い続ける。笑うと身体が細かく震えるが、床に垂らした両腕からは力が抜けきっている。


「やっとくたばったか、あのクソ野郎」

 喉を押さえられた影響か、務が先ほどより低く、かすれた声を出した。

「さっきのデカい音、あいつ下で事故ったんだろう」


「——残念だけど」

 修哉は、アカネから聞いた情報をそのまま口にした。

「期待してるみたいだから言うけど、誰も死んでない。あの運転手も無事だよ」


 務は顔を上げもせずに前髪の合間から、暗い色の瞳で修哉を見上げる。

「なんでそんなことがわかる、まるで見てきたみたいに――」

 わずかに考え込み、気づいたのか「ああ、仲間がいるのか」と発した。


 当たらずとも遠からずだと思った。連絡を取り合っているのは間違いない。やりかたはとても想像つかないだろうが。


「速度も出てなかったし、出庫しようとしてた車に追突しただけだ」

「最後のチャンスだったのに、仕留め損ねた」

 小さく舌打ちをする。くそっ、と毒づいた。そして薄い笑みで唇を歪める。

「これで終いとか、とことんツキがないな」


 修哉は腹の底でぐるりととぐろを巻くように疼く、黒い感情を意識した。千加が散々抱えていたものと同じ感覚。


「いったいおまえ、どこの誰だ。いきなり現れやがって全部ブチ壊しやがって」

 須藤が不機嫌な口調で言う。「気味の悪い奴だ、どうも気にくわん」

「それはこっちのセリフだ」


 修哉が言い返すと、須藤が醜悪なものを見る目を向けてきた。

 かまわず修哉は続けた。


「あんたのせいで、オレの人生は変わっちまった。どうしてくれるんだよ」

「——はァ? おまえ、なにを言ってる」

「ずいぶんお気楽なもんだよな、十年前にやったことを忘れたか」


 まるで目の前に幽霊が立っている。須藤の表情はそんなふうに映った。

 そうか、須藤務にとってオレは死んだも同然なのか。なかったことにして思い返すこともないんだ。


「そんなことがあったか」

 まるで他人事のように話す。


 詰めていた息を緩め、須藤は大きく呼吸をした。口の中で、十年か、とつぶやく。


 十年。体感はそれぞれだろうが、過ぎてみれば長いようで短い。そうと感じるのは、人類共通の感想に違いない。


 いまや、修哉と須藤務との身長は逆転した。あの時、橋の上で抱えられた相手は、とても大きく思えた。恐ろしかった。巨人に襲われたのだと思った。


 なのに、実際はさほどでもなかったのだ。

 十年でお互いが変わった。成長期を迎え、面影を無くすほど変わる者もいる。務が、修哉の顔に覚えがないのも当然かもしれない。

 相手が誰でもよかったのなら尚更だ。須藤は、修哉の顔を見ようともしていなかったのか。


 須藤が、ぼんやりとした口調で訊ねる。

「居場所をよく見つけたな。どうやって探り当てたんだ」

「あんたにあの川に放り込まれた時、オレはあんたが鞄につけてたストラップをつかんだんだよ」

 須藤は、ストラップという言葉だけに反応した。

「そうか、あのストラップ、どこで無くしたのかと気にかけてたが……おまえが持ってたのか」


 修哉は、須藤の言葉に心がささくれ立つの感じた。

 あんなことをしておいて、まったく反省の色が感じられない。須藤のひとつひとつの言い草に苛立つ。


「あれ、あんたの弟の形見だろ? どういう風の吹き回しだ? 鞄につけて持ち歩いてるなんて、ずいぶんと感傷的なんだな。それともあれは戦利品か? 嬉々として持ち歩いてたのか」

「なんであれが侑永のものだって知ってる」

「オレの弟が昔、あんたの弟と遊んでたんで覚えてたんだよ」

「おまえ、侑永の知り合いだったのか」


「オレの弟がな。ほかにも知ってるやつが友人にいる。子どもだった頃の記憶を聞いて何があったのかを知った。これが手がかりだと気づくのにずいぶん時間かかっちまったけど」


 ふっと須藤は鼻先で笑った。

「たしかに遅いな。なんで十年も経って、今ごろ動く気になったんだ」


「オレが最近まで忘れてたからだ。あんたのせいで——」

 川で溺れて死にかかって以降、怖れるものが増えた。昔の思い出——特に小学校高学年から中学卒業までの記憶は、風化にまかせて触れないようにしてきた。


 あまりに嫌な経験がありすぎる。忘れられるなら忘れていたい。反抗期もあって親に知られたくなかった。とは言え、隠そうとしても和哉や梶山から普段の行いは漏れ伝わっていただろうから、なにかと気を使われていたとは思う。


「ウチの家族は昔話をしなくなったからな。やっと話せるようになって、弟がガラス玉の持ち主を教えてくれたんだ。侑永はストラップを気に入って大切にしてたってな。使われてるビーズが特殊なガラスだと聞いていて、紫外線で蛍光するのを覚えてた。同じものだって気づいて製作者を調べた。作ったのは親族だって聞いてたからな、そう難しくはなかったよ」

「そうか」

 なるほどな、と納得したようだった。


「本家の須藤を探し当てたのか。あの連中は人好きで、話し好きだからな。それで、うまいこと俺の所在を聞き出したって訳か」

「そうだ」

「そりゃご苦労なこった、だが、なんだってこんなところまで追いかけてくる気になったんだよ」


「あんたの部屋でメモを見た」

 須藤が驚いた。

「いったい、どうやって部屋に入った? 大家が手を貸すとも思えないし、おまえ泥棒か? それとも鍵開けのプロかなにかなのか」

「そんなんじゃない。だが方法は教えられない」

「へえ」


 須藤はやけに強気の表情を浮かべた。「やはり気味が悪いな、おまえ」


 修哉は答えなかった。これはアカネさんの協力があってこその力だ。オレ自身にはなんの能力もない。

 気味が悪い? 当然だろう。こんなの普通じゃない。分かってる。でも、どう思われようがかまうものか。


「——で?」

 須藤は青白い顔に薄笑いを浮かべた。「何しに来た? 何をどうしようってんだ。まさか十年越しに、どんな恨みを晴らすつもりなんだ? ずいぶんとまた執念深いこったな」

「執念深い?」

「そりゃそうだろう、五体満足、家族に囲まれて無事に生きてきて、見た目も——」須藤は修哉の頭からつま先までを眺めた。

「育ちも悪くない、生活も特に困ってなさそうだ」


 顔をしかめる。身体に力が入らないのか、両手は下げたままだった。冷笑を浮かべる。

「おまえ一体、人生になんの不満があるってんだよ。十年前になにがあったか知らんが、ずっと毒されてるなんて頭が相当イカレてるか、よっぽどヒマなのか」


 押さえられない強い怒りが、修哉の中に湧きあがる。誰のせいだと思ってる。なんでこんなことを言われなきゃならないんだ。


 目の前にいるのは弟を見殺しにした兄。だが、予想していた冷酷無比な人物像とはだいぶ違うように思う。

 勝手に怪物のような怖れを抱いていたが、こうしてみると普通の人間と変わらない。


 ましてや真相を知れば、家に火をつけた張本人は須藤の母親だ。あの女は、母親でありながら身勝手だった。

 須藤務が火をつけて、父親と弟を焼死させたわけではなかった。弟の所在を偽っただけだ。手を下したわけではない。


 でも。こいつなんだ、オレをこんなふうにしたのは。


 弟と父親は火災で死んで、浮かばれずに死んだ場所に囚われている。母親もろくな死にかたをせず、あのざまだ。家族全員がまともじゃない。


「オレは別に復讐がしたいわけじゃない、今さらそんなことをしてなんになる」

 へえ、と須藤は意外そうな声を出した。

「じゃあ何しに来た」

「理由を聞きたい、それだけだよ」

「理由? なんの理由だ?」


 はは、と須藤務は乾いた笑いをたてた。「そんなもの聞いてどうなる」


「おまえはそれだけのことをしたんだから、オレには聞く権利があるだろ」

「権利ときたか」

 偉そうに、と嘲笑う。「そんなもの知ったところでどうなるってんだ。何かが変わるってのか、え?」


 須藤の口調が高慢に変わる。弱かった目つきに底意地の悪さが宿る。顔を伏せたまま、修哉を睨め上げる。

「理由なんざ、自分で適当に想像しときゃすむだろうが。たまたま目についた、誰かが腹立つことをして虫の居所が悪かった、それかおまえの態度が悪かったとか、そんな程度に決まってる。大した理由なんてあるものか」


 バーカ、と乾いた声で言い放つ。

「恵まれた境遇で育ったやつが、なに不幸ぶってんだ。おめでたいんだよ、教えてやる道理はねえ」


 瞬時に血液が沸騰するように感じた。なんだ、この男の妙に不確かな価値観は。人の死をなんとも思っていないような、生きている実感がないような感じがする。


 気づいたら腰を曲げ、須藤に顔をつきつけるようにして胸ぐらをつかんでいた。血が上って冷静でいられない。


 感情のままに痛めつけてしまえば気分は晴れる。きっと。


 須藤が修哉の腕力で吊り上げられて膝立ちになっている。


「はは、面白え、次はなにをする? 殴んのか?」


 息が詰まって苦しそうに顔を歪めるが、一方で期待している表情が浮く。須藤の語りは止まらない。

「生きてりゃじゅうぶんだろうが。いったい、それ以上になんの文句があるってんだ」


 おまえがそれを言うのか。

 須藤をつかんだ右手が怒りで小刻みに震える。重さに疲れ、手を離したいのにできない。


「そりゃあんたにとってはそうだろうよ。あんたがあの時、弟が家にいないと偽ったせいで母親が家に火をつけて父親と弟が死に、母親と暮らすようになって手に負えなくなったら風呂場で溺死してくれて、晴れてひとり、自由になれたってんだからな。いつも比較されてた弟が死んでさぞかし気がすんだか? 母親がみっともなく男に棄てられて、挙げ句の果てに溺れ死んで、気分は晴れたか? ずいぶんとうまいこといったもんだよな」


 須藤が目を剥いたのを見て、修哉はより勢いづく。「あんたの父親がとっとと母親と離婚してたら、こんなことにならずに済んだんじゃないのかよ」


 おめでとう、と笑って言い放つ。「全部まとめて死んでくれて、さぞ満足か。死んだほうは無駄死にで、さぞや無念だろうよ」


「——なんだと?」

「すげえよな、ひとりも成仏できずに亡者と化して、母親は」

 おまえに取り憑いて、と言おうとしたができなかった。須藤が「うるせえ!」と怒鳴ったからだ。


「黙れ! てめえになにがわかる!」

 ふざけんな、と言った剣幕で唾が飛んだ。「よくもめでたいなんて言ってくれたな! よく知りもしないガキに何がわかる!」


 そこまで喚いて、荒い息を吐く。「わかるものか……俺がどんな気持ちでやり過ごしてきたか……!」

「わかるさ、オレは知ってるからな」

「いいや、わかるわけがない」


 おまえはわかってない、と須藤が真顔で言った。


「手放すのは簡単だ。絶対にうまくいかない地獄のような場所に落ちるのがわかってて手を離したりしたら、ぜったいに後悔すると思ってた。家族を守り切るつもりだった。どんなに嫌われようとかまわないと思ってた。なのに」


 まくしたてた末に須藤は声を抑えた。

「千加は——ことごとく道を誤った」


 須藤が声を立てて嗤う。そして言った。


「千加があの男に出会いさえしなければ、こんなことにならなかった。あの野郎が野垂れ死にしてくれるのをずっと願ってたよ。心の中で何度殺したことか」


 目の前の明るさが半分になったような気がした。この感覚——、注視するもの、生きている者だけが光っている。


「だが、ああいうのに限ってしぶといんだ」


 須藤務はぼんやりと明るい。アカネが言っていた。生きている者は生命力に満ちて、身体の周囲に防御の障壁を巡らせている。

「俺は、離れずに一緒にいれば、いつか気づいてくれると思った。家族として、元のようにやっていけると信じていた。結局、俺も間違った。やりなおせるはずがない」


 須藤は小さく息を吐いて、「はじまってもいなかったんだからな」と苦く苦しげな笑みを浮かべた。


「千加にとって俺は、人生をうまく乗り切っていくための事象の一部でしかなくて、使い終わったら捨てるものでしかなかった。身の回りにあるモノと同じ、動くカタチでしかない。途中でもうどうにもならないと気づいた。疲れ切ってしまった。手に負えない。どうせ投げ出すくらいなら、最初から関わらなきゃよかったんだ。俺も考えが甘かった。結局、逃がしてしまった。もう終わりだ」


 目の前の男はそれが薄く、あきらかに生きる気力に欠けている。

「俺はいつもうまくやれない自分を許せない」


「——あんた、誰だ」


 思わず訊ねていた。会話に違和感があった。

 ゆっくりと向けられた目線が、修哉をとらえる。ふいに修哉は、自分が相手を違えていたのだと知った。


 相手の両眼に、人とは違うなにかを視た。

 そのなにかと、確かに目が合った。


 修哉は目を細めた。須藤の輪郭がぞわぞわと揺れてぶれる。身体のきわが黒い。なんだ、あれは。

 須藤務ではないものが重なっている。もう、ひとり。


「火事場跡に建ったアパート」


 頭のなかに言葉が響いた。アカネの声がする。

 ふと、気づいた。溶剤が焼け焦げるような、この臭い。嗅いだ覚えがある。アカネはなぜか終始、線香の匂いと言った。

 死者のにおい。火災跡に建ったアパートの周辺でも同じ臭いがした。侑永と、父親の清司がいたらしき場所。


 線香をあげる場所と言えば、仏壇か墓場くらいだろうか。


 子どもの自分が、川に投げ込まれた現場。あの橋の上でも、この臭気が漂った。


 舗道のむこうから、こちらへと続くのを嗅いだ。修哉が過去の記憶を呼び覚ました、橋のちょうど中央で煙が滞留していた。修哉が背後から抱え上げられ、すくわれて投げ込まれた場所。


 無気力な動作で、あの橋を渡っていく光景が脳裏に浮かんだ。勝手に映像が流れる。淡い色彩の風景。からからに干からびた生物の死体を見たような感覚が伝わる。


 あの場で立ち止まり、務はなにを思ったのだろう。


 たとえば。須藤務は、墓参りの帰りだったのかもしれない。前か後かはわからないが、昔を懐かしみ、自分の家があった場所に立ち寄ることもあり得ると思った。


「あそこにいたのに、場所を移した」


 再び、アカネの声が聞こえた。

 においの出どころがあるはずだ、と思い、見回す。


 走り去った車のあとに、ぽつんと煙草の吸い殻が転がる。あの運転手——中野が、務を待っているあいだに投げ捨てたものだろうか、細い煙の筋が立ちのぼり、薄まらずにゆらゆらと漂う。

 風もないのに、煙草の煙はつむじ風のように渦を巻いた。淡い煙が、子どもの姿を作る。ふわりとたなびいて、細い足が現れる。


「だから、気配が薄まってた」


 歩いて、こちらに近づく。足音は聞こえない。

 最近になって上がっちゃったのかしらね、とアカネが言ったのを思い出す。上がったんじゃない、移動したんだ。


——務に。


 煙でかたどられた子どもが歩み寄り、須藤と修哉の間に立ち止まった。

 はかない存在に視える。風が吹けば吹き飛ばされて消えてしまいそうだった。

 修哉は、侑永を視ていた。本当に、きれいな顔をした少年だと思った。


 生きていれば、背が伸び、声も変わり、中野譲りの容姿で、さぞかし人の目を惹く青年になっていただろうに。


 千加があれほどまでに溺愛したのも解らなくはない。

 須藤は修哉を見て、つられたかのように、その目線の先へと顔を向けた。


 人間である以上、どうにもならないほどの愛憎を抱くことはある。理不尽でも態度を変えてしまう。

 どんなに理性で抑えようとしても、気にくわないものはどうしようもない。ひいきをしてしまうこともある。たとえそれが血を分けた者であっても。


 侑永が須藤の腕に手を伸ばす。唇が動いた。


 五音の言葉を口にした。

 最初の口の形は、お。

 一拍そのままを維持し、口内で舌が軽く上顎を打つ。


 続いて、初めと同じ一音を発した。

 口が開いて、あ、と母音となり、そのあとかすかに顎が動いた。


 侑永は、お、とー、さ、ん、と無音の声で呼びかけた。

 そうだったのか、と思った。


 梶山と訪れた二階建てのアパート。一階は青灰色、二階は白いサイディングの壁。あそこの駐車場で務が背負う異形を見送り、逃げ出そうとした時に現れた、もうひとりの侑永ではない煙の人物。


 あの時、修哉の前に立ち塞がるように現れた煙の男は、成人の体つきをしていた。自らの指で、あそこにいる、と務を差し示した。

 その正体。炎に焦げた苦しみの記憶を訴えた。取り戻せない過ちへの後悔とともに、裏切られた悲しみと救いを求める懇願が真に迫ってきた。


 助けてほしいって一体、誰を?

 どうしてオレに——?


 結局、なにをしてほしくて現れたのか、まだわからずにいる。

 渦巻く煙。薄いガラスの内側に閉じ込めたかのように、身体の輪郭ははっきりしている。侑永は、うかがうようにその顔をそっと見上げ、務を見つめた。


 手を添える。侑永に触れられて、一時の間、務の顔が空白になる。

 みるみる表情が晴れていく。務の姿をした者は、目をまたたいて夢から醒めたかのように「そうか」と言った。


 唐突に理解した、いや、忘れていたのを思い出した。生前の執着が強すぎて、本来の目的を見失いかけていた。

 やっと着地点を見出した。そんな安堵すら感じる声で言った。


「そうか、そうだよな、……済んだのか。もうこれで——」


 務の表情が緩み、目線が向けられる。その先に侑永がいる。

 侑永は務の腕に右手を添えている。空いている反対の手を、こちらに差し出した。


 口もとが動いて、さきほどと違う四音を発する。

 一音目は口をわずかにすぼませて、お。

 続いて下唇を開き、口を横に広げた。母音の、え、の形。

 あ、の形、最後に口をやや閉めて広げ、い、の発音になった。

 ああ、と理解した。でも、なにを「おねがい」されたのか解らなかった。


 須藤千加は、中野と行ってしまった。彼らを置いて、今度こそ戻らぬ道を選んだ。

 修哉は思った。ここに、まだ残ってる。


 オレのなかに、千加と同化したときに覗いた記憶が、確かに千加だったかけらが残されている。歪んだかたちではあったけれど、確かに千加は侑永に愛情を向けていた。意地でも愛していた。この世でたったふたつの、大切なものだったからだ。


 ひとつが失われて狂ってしまった。すがるものがひとつになって、それを失うまいとして、さらに狂った。


 侑永の手が修哉の右腕に触れようとする。修哉は手のひらを上に向け、その手を受けようとした。

 侑永に触れようとしても通り抜けてしまう。そして、なにも感じない。


 鈍色にびいろの侑永の顔が——長い睫毛が影を落とす、暗い灰色の目が見上げている。


 もはや生きてはいない。過去の幻影に向ける愛情はない。死んでいる者に対する関心は、とうに失われている。

 千加には、侑永が生きていなければ意味がなかったのか。当然ではある。だが、よけいにこの者たちを哀れに思う。


 自分の、心が痛むのを感じる。


 彼らにも心残りがあって、ここにいる。本当に未練を断ち切れるのか、見極めようとしても修哉にはわからなかった。


 煙の亡霊たちは、その場から消え去っていく。侑永にとって、務は家族だった。父親である須藤清司にしても、思いは同じだった。


 あの父親は、家族を守り切りたかった、と言った。

 消える。消えていく。風に吹かれて、煙が淡く、薄くなる。


 消滅の間際に口が動いているのを視た。侑永はきれいな眉の線を寄せていた。切なげで、泣いているような表情を浮かべている。

 侑永は、消え去る最後まで務の顔を見つめていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る