第二章(2)…… 火災跡の幻影


 行ってみなければ駄目か。

 そう思ったら、足は勝手に動いた。


 べつに真相がわからなくてもこの先、平気だと思っていた。

 知る必要もない。知ったところでなにかが変わることもない。だが、どうやら避けて通るわけにはいかないのかと覚悟が決まった。


 ひたと前を見据える。近づいてもアカネの視覚や嗅覚を借りなければ、修哉にはいつもと変わらない現実があるだけだった。


 さっき、不意に気づいてしまったのだ。川の中に引き込んで殺そうとしたのが、アカネだったとしても。


 今さら意味がない。


 子どもの頃はあれほど怖れたのに、ここ半年足らずで上回る体験を数多く重ねて、しかも、今も渦中なのにあれほどには恐ろしいと感じていない、この矛盾。

 なんであんなに怖がっていたのか、わからなくなってしまった。


 あっけなさすら感じる。やたら腹が立った。散々トラウマに振り回されたのに、こんなことってあるのか。突然、克服してしまうとは。

 理不尽にも思えた。平静を保とうとして自然と足取りが早くなる。


 ちょうどこのあたりだと思った。先ほどアカネの目を借りて見た、黒い煙のようなものが立ちのぼっていた場所。


 橋に設置された歩道を人の列と共に進み、中央へと差し掛かったとき、背後から自転車が通り過ぎていった。

 気配が近づき、風が追い抜いていく。焦げた臭いが強くなった気がした。上空で雲が太陽光を遮り、視界がすうっと暗くなる。


 脳裏に光景が閃いた。


 何故自分が川に落ちたのか、ずっと分からなかった。

 その原因をやっと思い出した。


 そうだ――あのとき。夜の闇に包まれた雨後。


 地面がまだ濡れていた。ところどころ水たまりができていて、真っ黒い鏡面と化した水面に照明が反射していた。

 明日の約束は昼すぎからだからあわてて帰らなくてもだいじょうぶだよな、とか思いつつ、水たまりを避けて歩いていた。


 時刻としては、寝静まるにはまだ早い。悪天候から回復しつつあるものの、連休の中日だからか単に偶然だったのか――、住宅街を抜けてしまうと人通りは絶えていた。橋の上に差し掛かり、アーチを描く頂点あたりまで差しかかった時。


 背後から駆け寄ってきた音を聞いた。


 振り返る間もなく腰辺りを抱えられた。突然のことに、驚いて声が出た。足が浮き、頭が橋の欄干を乗り越え、重心が下へと向いた。


 反射的に何かをつかんだ。だが、すがれるほどの強度はなく、ぷつりと手の先で途切れる、弱い反動があった。


 希望も断たれて降下する感覚が続く。


 落ちていく。時が引き延ばされて体感が遅くなる。見上げた先にあったのは、遠ざかる橋だった。

 身を乗り出した人影。背後からの光源を受け、真っ黒な人のかたちが見下ろしている。


 当時、小四になっても新入学生と間違えられた。身長は二学年下の平均に届かず、弟の和哉が兄だと勘違いされてばかりいた。体重は二十キロをやっと越えたくらいで、成人の男性ならば抱え上げるのは容易だっただろう。


 しかし――なんのために。


 どうして、あんなめに遭わなければならなかったのか。


「シュウ、どうかしたの?」

 アカネに声をかけられて、我に返る。


 現実に引き戻されて呆然とする。受け入れられる時期が来たから思い出した、とか、唐突に時期が来た、運命的だとか、適当に言い表せる言葉で済ませたくなかった。

 強制的に当時の記憶が引き出されたかのような違和感がある。背筋に重たい怖気が残った。


 あれは、と勝手に声が出た。

「誰かに……ここから落とされたんだ」


 言葉にしてはじめて、過去がようやく追いついた気分だった。そうだ、あれは――

「事故なんかじゃない、殺人未遂だ」


 アカネが声を無くして目を見張る。


 修哉はスマートフォンを手にした。 

「殺人未遂?」左側からアカネの顔が覗き込んでいる。「って……ずいぶん穏やかじゃないわね」


 移動しながら辺りを見回す。

 人の往来のある歩道で、ひとりでぶつぶつ呟いていたらさすがに目立つ。ここは場所が悪い。着電を装ったとしても、会話が物騒すぎて周囲の目が気になる。


「ねえ、シュウ、なにか思い出したの?」


 ああ、と答える。アカネが左側から覗きこんでくる。修哉は左手にスマートフォンを持ち替え、耳に当てた。


「アカネさん、もうひとつ行きたいところがあるんだけど」

「なぁに、あらたまって」


 アカネは気味悪いわね、と笑った。「邪魔しないから好きにすればいいわよ」

「じゃあ、この間仲間内で話題になった場所」 

「どこ?」

「この間、会ってみたいって言ってたでしょう、火災跡の幽霊」



 一時間ほど歩いた先に、例のアパートはあった。

 横長の敷地に、二階建ての木造、両端は少し間取りが広いようで夫婦などのふたり、もしくは幼い子どもを含めた家族向け、残りは単身者向けに見えた。


 手前と奥に階段が設置されている。出入り口は広めの通路で、脇に屋根付きの共同自転車置き場があった。自転車が三台、バイク一台が停められている。


 アカネが視線を投げ、平然と口にする。

「ねぇシュウ、いるっぽいんだけど」

「オレには視えない。けど、いるっぽいって、なに? どういうこと?」


 アカネは軽く頭を傾げた。じっくり眺めているが、どうも焦点が定まらずに視点がふらふらと流れる。


「ふたり、いえ、ひとりかしら。はっきりした人のカタチになってないのよね。なんか残り香っていうか……自我が薄まってて、ただ気配が残ってるだけって感じ。片方は居たって感じは残ってるけど……それだけ。最近になって上がっちゃったのかしらね」


 どこにいるかアカネに尋ねると、あそことあっち、と指を指す。

 駐輪場の奥、それから一階の玄関扉が居並ぶ真ん中のあたり。特に建物の中央には姿らしきものはなく、気配だけだと言う。


 修哉が見比べても、なにもおかしなものは視えない。

 アカネが小首を傾げるのが目の端に映った。


「たぶん、あまり強い思い残しがないんじゃないかしら」

「そんなのでよく幽霊騒ぎになるもんだな……」

「見た人って、この辺で煙草でも吸ってたんじゃないの?」

「……? なんで?」


 訊ねると、アカネは駐輪場の地面を指さした。


「だって、あそこに吸い殻落ちてるし。誰か部屋の中で吸うのを避けてて、このへんで吸ってるんじゃない?」


 確かにあちこちに吸い殻がポイ捨てされている。どうやらマナーのよくない者がいるらしい。


「火で死んだら、ああいうの嫌なんじゃないかなーって。嫌なことされたら、ちょっと強い反撃しても不思議もないかなってなんとなく思っただけ」


 まさかそんな理由でと思ったが、案外的を射てるのかもしれない。

 梶山は、死因が火の不始末、たしか父親の煙草だったと言っていなかったか。


 ふと目が引きつけられる。吸い殻のひとつ。きちんと火が消されていなかったのか、潰れた先からゆらゆらと燻って地面の上を漂う。


 煙だ。あの橋の中央から空へと立ちのぼっていたのと同じ、微かな刺激臭が鼻を突いた。


 細く、糸のように揺れた煙は、薄まらずに溜まった。足の先からかたどられていく。大きさは、修哉のみぞおちほどの高さ。

 渦を巻くように、淡い灰色の人影が目の前に立つ。まるでモノクロームの映像が再現されていくようだった。


 これは、子どもの身長だと感じた。なぜなら頭身が低い。まだ幼さを思わせる頭の大きさ、薄い身体、手足が細く、長い。次第に煙が濃くなり、まとまっていく。



 こちらに危害を加えそうなそぶりはなく、驚きも恐怖も、なにも感じなかった。

 たよりなげな子どもの影は、ためらいがちに手を差し出してきた。


 修哉へと伸ばされた手が下向きに握られているのがわかった。子どものかたちをした煙の顔が、こちらを見上げる。

 促されるかのように感じ、手を差し出すと手のひらになにかを落とされた。その形がきらりと光る。


「――シュウ?」


 アカネの声に、人型の煙は霧散した。

 手のひらの上にはなにもなかった。消えてしまった。


「アカネさん、今の……視ました?」

 え、とアカネが戸惑うのがわかった。「なんのこと?」


 当然、同じ光景を見ているとばかり思っていたので、アカネの反応は意外だった。


「今の、視てなかったんですか」

「見たもなにも……急に消えちゃったとしか」

「消えた?」 

「両方ともなーんにもいなくなったわよ、こっちとむこう。突然」


 アカネには見えていなかった。つまり、自分が視た煙の子ども、あれは幻影だったのか。


 しかし――、それにしてはやけに鮮明だった。もしかしたら、あの子どもの霊が発したメッセージだったのだろうか。言葉のかわりに、直接伝えたい思いを光景として受け取ったとでも考えるべきか。だから自分にしか見えなかったのか。


 情報は少ない。ほんのわずかな間になにかを渡された、それだけが記憶に残った。

 いったい、なにを伝えようとしたのだろう。


 アパートの中間あたりの扉から鍵が開けられる音がした。住人が出てくる気配と足音がする。

 見咎められたら答えられる自信がない。潮時だと判断して、修哉は敷地の出入り口に引き返した。


 修哉は行きと同等の時間をかけて、帰宅の途についた。

 昼を食いそびれ、駅周辺にある惣菜屋で腹に入れるものを購入してから戻ってきた。家が見えた頃には日差しは斜めに傾き、赤外線が混じる時刻となっていた。 


 両親は不在で、自宅のリビングには誰もおらず、買ってきたものをつまもうと準備していたところに、弟の和哉が二階の自室から下りてきた。


「なに、どっか行ってたの?」


 テーブルに置かれた食料を目にして、和哉が訊ねてくる。

 中一までは弟のほうが背が高かったのだが、いまは逆転している。ただ自己の採点を持ち上げ気味にしたとしても、容姿にいたっては和哉に軍配が上がる。見るからに好青年、初対面で他人に好かれる。しかも、高校から一途な彼女持ちである。


 相手は和哉の同級生。若干腹立たしいことに、髪が短くて活発な、可愛らしい性格の子で、すでに双方の親に紹介済みとなっている。


「ああ、ちょっと肝試ししてきた」

「肝試し? シュウ兄にしては変わった趣向だね。季節外れだし」

「オレにとっちゃ、おまえが家にいるほうが変だ」

「気を抜いてたら提出物の期限がヤバくなってたんだよ」


 そう言いながら顔をしかめる。和哉はキッチンに歩み入り、細口のケトルを取り上げて水を注ぎ、コンロの上にかけた。


「コーヒー淹れるけど、どうする? シュウ兄も要る?」

「頼むよ」


 手慣れたようすでフィルターを折り曲げ、サーバーにセットしている。


「で? どこの廃墟回ってきたの」

「違うって、そんなトコには行かねえよ。どっちかって言えば、肝試しってよりは度胸試しだし」

「度胸試し?」


 和哉の目線が泳ぐ。このへんにそんな場所あったっけ、とこぼしつつ、思案の表情を浮かべている。


 度胸試しとはどんな光景を想像するのだろうか。とっさにバンジージャンプが浮かんだ。そんなもの、どこまで行けばできるだろうか。

 近所ならば、法定速度以上で公道で車をかっ飛ばしてみるとかだが、対人でなにかありでもすれば真っ当な人生は望めなくなる。あとはちょっと遠出して、どこぞの高所の岸壁上で自撮りをする、とかだろうか。


 オレが絶対にやりそうもないことばかりだけどな。


「例の場所……昔、川に流されて流れ着いたって聞いた現場に行ってきた」

「えッ?」


 驚くような大声で反応される。和哉が固まっている。


「エエッ?」

 再度、驚かれた。


「ちょっと待って、え……いや、シュウ兄、マジで大丈夫なの?」

「いや……、オレもビックリなんだけど、平気だった」


 まじまじと顔を見つめられる。目が丸くなっている。口を半開きにした状態でなにか考えていたが、はぁっとひとつ息を吐くと、和哉が笑った。


「そっか、そりゃ驚いた。けど、よかったな」

 そう言ってから、ちょっと思い直して「いや、良かったっていうのも変か……」と戸惑い気味に苦笑する。


 言外に様々な思いを感じとったせいで、修哉もどう答えるのが正解なのかわからなくなる。


「まぁ、ガキの頃の古傷に決着つけとこうと思い立ったんだよ」

 とってつけたかのような言い訳になってしまった。この際しかたがない。


「できるんならそれに越したことはないよ」


 和哉はコーヒー豆をミルに入れ、手挽きで取っ手を回してガリガリ言わせている。音に遮られないように、大きめの声を出す。


「この間、梶山たちと会ったときにその話が出たんだ」

「そうなんだ」

「おまえ、梶山の弟にオレが事故で廃車にした話、しただろ」


 対面キッチンの向こうで、和哉が手を止め、ばつの悪そうな表情を浮かべるのが見える。


「ああ、した。でもあれは、このまえ会ったときにウチの車が変わったのを話のついでに慎に尋ねられたから、よく気づいたなと思ってつい」

 話してしまったんだ、と言い終わるや否や、再びガリガリ挽き始める。


 兄の梶山糾、弟の慎と和哉は、小学校の中学年くらいまでは幼いころからの馴染みもあって兄弟揃ってよく遊び回った。和哉と慎は、ともに兄を上回る要領の良さと体力に恵まれて、四人で行動しても学年差を気にしたことはなかったように思う。


 しかし、修哉が川の事故に遭い、持ち前の能天気さをどこかへ流してしまったかのように一転してインドア派を決め込んで以降、関係は変わってしまった。

 兄は室内で過ごすようになり、弟は外に出かける。互いが何をしているのか知らないことが増えた。


 和哉はポットで沸騰した湯に気づいてコンロの火を消してから、先ほどよりも力を込めて豆を挽き終えると、手際よくフィルターに粉を落としてならした。


「慎から聞いたって、梶山に言われたんだよ。オレは十年くらいの周期で事故に遭ってるから気をつけろってな」

「そんなの偶然だろ」

「ああ、オレもそう思う。だけど」


 いい加減、いつまでも周囲に気を使わせるのは終わりにしたい。そのためにも、真実をはっきりさせたい。そう思った。


「あのさ、カズ……オレさ、思い出したんだよ」

「なにを?」

「あの日、どうして川に落ちたのか」


 あれは、事故じゃなかった。


「誰かに投げ込まれたんだ」


 重たい告白を聞いたはずなのに、反応が返ってこない。

 修哉は和哉を見上げた。台所でフィルターにならした豆の粉末に湯を回しかけていたのに、手を止め、ただ呆然としている。


 修哉は和哉の名を呼んだ。はっとして、こちらを見る。


「ああ、ごめん。ちょっと待って」


 コーヒーサーバーからふたつのカップに注ぎ分けて、和哉は片方をこちらに差し出した。テーブルの手前に自分の分を置き、一旦部屋に戻って引き出しを探っている音が聞こえた。


 待っている間、惣菜のパックを開けてつまみはじめたところに、和哉が二階から下りてきた、神妙な顔で椅子を引いて正面に座った。


「実はね、僕もずっと気になってた。覚えてるかな」

「……なにを?」


「あの晩、兄貴が先に家に帰っただろ。僕は無事に帰ったものだと思い込んでた。なのに帰ってこないって母さんたちが騒いでたの、泊まってた先で朝になって起きたときに知ってさ。行方不明になってたシュウ兄が見つかって、すでに病院に担ぎ込まれてて、僕を迎えに行くのが無理だから半日預かっててもらいたいとうちの親に頼まれたって言われたんだ。だから僕は親が来るのを待ってた」


 それでね、と言い、すこし間が空く。すうっと息を吸い、和哉は続けた。


「午後になって父さんが迎えに来て、車で現場近くを通ったんだ。シュウ兄が見つかったのはあそこだ、と教えてもらった。まだ事故か事件か分からなかったから、警察だと思うけど調べてる人がいたよ。だからどの辺で見つかったのか、場所は分かってた」


 コーヒーのカップを取り上げて口をつける。


「水が引いたのを見計らって、ひとりで見に行ったんだよ」

 記憶を探る、遠い目をしていた。


「あの川、ふだんは水量少ないだろ? 場所によっては中州みたいになってて雑草茂ってるところもあるし。水際でなんか光ってるものを見つけてさ、気になって川辺に下りて拾いにいったんだ。で、シュウ兄がまだ入院してるときに見せたんだよ。もうすぐ退院できるって言われた頃。覚えてる?」

「え……、いや」


 正直なところ、入院中のことはあまり覚えていない。和哉が見舞いに来たのはぼんやり覚えているが、どんな会話をしたのかはさっぱりだった。


 思い出そうとすると怖いものに襲われる気がする。疲れていたし、寝ていれば考えずにすむ。眠れるかぎり眠った。あまりにこわくて、眠れないと訴えれば眠くなる薬が出た。訊ねられても覚えていない、忘れたと言っていれば、大人たちは放っておいてくれる。


 記憶に残っているのは、断片的な病室内の光景とそのときに感じたなんとも表現しづらい焦りだけだ。一体なにに焦れていたんだろう。今となってはわからない。


「これなんだけど」


 十センチに満たない四角いビニール袋を取り出し、和哉がテーブルの上に置く。上部がスライド式で、押さえると密閉出来るようになっている。


 中に、ちぎれたストラップと金具、直径一センチほどのドーナツ型のビーズの下に、高さ三センチ、直径二センチほどの、三分の一が斜めに欠けた俵型のガラス玉がぶら下がる。ビーズの色は蛍光を帯びた黄色。俵型のガラス玉には、真芯に棒を通したように穴が一本貫通していて、そこに紐を通してあった。


 中央は青と藍色の色ガラスで巻かれ、外側の透明なガラスのなかにたくさんの白い細い紐が波を描いている。だがその先が欠け、これがなにを表現しているのかはわからない。


「兄貴に見せたら、知らない、要らない、興味ないから捨てていいって言ったから、どうしようかと思ったんだけど……なんか気になって保管してたんだよ」

「全然覚えてないな」

「そうだろうね」


 和哉は屈託のない笑顔を見せた。好青年の顔だ。


「あのさ、気になったのには理由があるんだ」

 ビニール袋を指さして言う。「これさ、見せてもらったことがあるんだよ。同じものを持ってたやつがいたんだ」


 え、と声が出た。


「ぜんぶ手作りなんだって。こんな細工をするなんてすごいなと思ったから、よく覚えてる」


 ビニール袋を和哉が指先でつつく。修哉も手を伸ばした。


「そいつ、須藤侑永って言うんだけどね、このガラス玉はそいつの親戚のおばちゃんがいちから作ったものを、ストラップにしてもらったんだって。嬉しそうに言ってたよ。ガラス棒を融かして模様を作って、引き延ばしながら細いパーツにして、バーナーの炎で融かしながらつぶしたり伸ばしたりしてガラス玉に封じ込めるんだって。このビーズは外国の珍しいガラス玉を取り寄せたとかで」


 眺めると、内側からほのかに蛍光色を放っているのがわかった。似たような色の既視感を覚える。


 同時にふいに閃くものがあった。


 先ほど訪れたアパートの光景が脳裏に広がる。

 建物の影となり、明るいのに薄暗い自転車置き場の、ひんやりした空気を感じる。停められた自転車の後輪、泥よけに取り付けられた反射板がやけに赤い色を放つ。


 地面に散らばる煙草の吸い殻。吸い先から立ちのぼり、細い煙がたなびく。


 子どものかたちをした煙ができあがる。その輪郭はゆらゆらと風にたなびくように揺られて、ぼやけては元に戻る。はかなく、重さのない身体でたたずんでいる。

 差し出された灰色の手。


 煙のにおい。焼け焦げた――


「夕方になると発光するように見えるんだよ。ふわっと浮き上がるような不思議な黄緑色でね、こっちの大きいほうは海の中で泳ぐ、ちいさなクラゲの細工がすごく細かくて……本物を閉じ込めてるみたいでさ。見せてもらってたみんなが、いいなあって言ってた」


 目の前で透かすようにして見る。欠けた先がなんだったのかがわかった。このたくさんの細い紐状のものはクラゲの触手か。


 和哉の口振りは懐かしげだった。


 アパート裏の駐輪場で、修哉が差し出した手のひら。その上に、まさに転がり落ちてきた、あの感触が甦った。

 きらり、と光った形跡が今ここに、この手の上にある。


 そう、あれだ。風呂の温浴剤。あとは栄養ドリンクのビタミン剤の色。もしくは、夜祭りで売られたりする腕輪――折ると発光し、黄緑の光を放つサイリウムの色。


「侑永はね、家の火事で亡くなったんだ」

「えっ」


 思わず声が出たが、予測はついていた。だが、ようやく手がかりとなるものを得たと思えば、ふたたび和哉の口から火事の話を聞くことになるとは。


 自分の身内が、意外な接点を持っていたことにも驚く。


「カズはそいつのことをなんで知ってるんだ?」


「慎が同じクラスでさ、侑永と仲がよかったんだよ」

 よく一緒に遊んだよ、と声が沈む。知らないところで和哉が心を痛めていたのに初めて気づいた。


 修哉は、和哉に告げた。

「カズ、……今日、オレあの場所に行って思い出したんだ」

「……なにを?」

「あの日のこと」


 和哉は気づかいの視線を修哉に向け、見つめたままなにも言わない。修哉は続けた。


「橋を渡ってる時に背後から抱え上げられたんだ。あっという間に川に放り込まれた。断片的だけど、感触が――落とされる瞬間に、相手の持ち物をつかんで、引きちぎった手応えがあった。ちょうどこんな細いヒモ……ストラップだった気がする」


 ほんのわずかな間が空いた。和哉の目が見開かれて、小さく息を飲むのがわかった。


 動揺を抑えきれない声で、和哉が言った。

「実は――侑永には、年の離れた兄がいるんだ」


 胸の中央で、大きく心臓が跳ねた。急激に体温が下がっていくように思えた。そいつが――オレを殺そうとした犯人か。


「あのさ……僕、母さんに言ったことがあるんだよ。もしかしたらシュウ兄をあんな目に遭わせたのは須藤の兄ちゃんかもしれないって」


 だけどさ、と和哉は視線をテーブルの上に落とした。


「確証もないし、あんなことやった理由もわからないし、シュウ兄が入院した頃って、須藤の家は侑永と父親が死んでものすごく大変だった時期なんだ。だから……僕は、自分が同じ立場に置かれたらどうだろうと考えてしまった。侑永は兄ちゃんが大好きでさ、侑永の兄ちゃんは物静かで口数少ない感じだったけど、侑永をかわいがってた。あそこの両親は共働きで夜まで家を空けていたから、公園で遊んでると夕方に部活帰りの侑永の兄ちゃんが来て、いつも一緒に帰ってったんだよ」


 よく覚えてる、と言って息を継いだ。


「何故かはわからないけど……いろんなことがあって、侑永の兄ちゃんが悪いことをしてもおかしくない精神状態に追い詰められてたのかもしれないって考えたりもしたよ。だからといって、あんなことをしていいわけがない。誰にも知られないまま何もなかったことになって時間が過ぎて、やったことが忘れられてしまう。それでもいいのかとか悩んで……でも、シュウ兄は落水事故の詳細は覚えてなかったし」


 子どもの時期、しかも男児が好奇心から突拍子もないことをしでかすのは珍しくない。経験値のなさから危険に思い至らず、興味があればすぐに行動してしまう。増水する川に近づいて、不運にも流された。そんな事故の一例なのだろう、と大人は考えた。


 大抵は、たまたま大事にいたらず生き残る。修哉の場合もそうだと皆が納得してしまった。


「父さんや母さんもあんまり触れないようにしてたから、なんとなく言い出しづらかったんだ。いろいろ考えて、僕が母さんに話せたのは事件からだいぶ時間が経ってた。その頃には須藤さんちはどこかに引っ越してた」


 一気に喋り続けて、口調がだんだんと小さくなっていく。


「どうしようもなかったんだ」


 ずっと抱え込んでいた、心の底に沈む思いを和哉は表へ出そうとしているように見えた。うなだれていて、表情がうかがえない。


「母さんも、収まらない気持ちはあるだろうけど、シュウは無事だったんだからもう終わりにしましょうって」


 口を閉じると、椅子の上ですっかり縮こまってしまった。

 そのようすが小さな子どもに戻ってしまったようで、少しばかり心が痛んだ。いつしか怒りが引っ込んで、やっと苦笑を浮かべる。


「そっか、わかった」

「シュウ兄……」

 ごめんよ、と何故か和哉が謝罪を口にする。


「なんだよ、カズが謝ることじゃないだろ」

「だって……僕は知ってたのに、ずっと言わずにいたんだ」

「オレに気を遣って、だろ。いいよ、気にしてない」

「本当?」

「ああ」


 和哉の内心を探るような視線から目を逸らす。ガラス玉の入った袋を目の前に透かしてみる。


 透明なビニールに挟まれて、切れた細い紐が半円を描いている。銀色の筒型の金具に紺色の丸打紐が留められ、編まれた先の片方が解け、ドーナツ型のビーズと欠けたガラス細工の玉はようやくぶらさがっている状態だった。


 あとすこし解けたら、それぞれが外れて分解してしまいそうだった。


「これ、そんなに珍しいのか? その……疑うわけじゃないが、たしかにおまえが見たのと同じものなのかわからないだろ? ほんのり光ってはいるが、そこら辺にありそうな気がするけど」


「今はこういう製品は珍しくないけど、ふつうはアクリルだったり、プラスチック製だと思う。これは海外で作られたガラスのパーツなんだって言ってた。アンティークらしいよ」


 へえ、と唸り、小袋越しに親指と人差し指でつまんで眺める。


「それ、シュウ兄に渡しとく」

「いいのか」


 うん、と和哉は頷いた。


「要らないと思うなら、シュウ兄が処分するといいよ」



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