第一章(2)…… 居酒屋の中年男

 修哉は立ち上がった。

 え、なに、と井上が見上げる。


「ごめん、ちょっとトイレ」


 スマートフォンを手に移動する。上がりかまちを降り、用意されていた下足を引っかけて、急ぎ足で店の出入り口に戻る。

 店外には出ずに、通路を左に折れてカウンターと四人席が並ぶ奥へと進む。


 すれ違うと肩がぶつかる幅の通路の先に、扉がふたつ並ぶ。突き当たりにもうひとつの扉があった。扉のやや上部、目の位置に金属プレートがあり、スタッフルームの英文字が入っている。

 手前の扉には男性、奥の扉には女性のマークが一目でわかる位置にある。扉を引いて中に入った。


 店内は木調で内装に工夫がうかがえたが、ここは白が基調でごく平凡に映った。入って右に洗面台がふたつ、その奥に個室がふたつ。対壁に設置された、人ひとりが隠れるほどの衝立の向こうに小便器が並ぶ。


 ちょうど無人だったようだ。

 洗面台の前に片手をついて、うつむき、ひとつ溜息を漏らす。


「頼むよ、アカネさん」

 ああいうの困るんだ、とこぼす。

「ただでさえ最近、オレがいると妙な現象が起こるって陰口叩かれてんだからさ」


 真上から逆さの女の顔が下りてきて、修哉を覗き込む。


「ごめんって言ったでしょ、隣にいたから思わず触っちゃったのよ」

「約束しましたよね、絶対に回りにちょっかい出さないって」


 だぁって、と不満げに口を尖らす。ちょっと鼻にかかる、明るく澄んだ声。

「あれは不可抗力でしょ。あんな話聞いちゃったら、どんな感じのお仲間が近所にいるのか気になるじゃない」


「なに言ってんですか」再び、溜息を吐く。

「しょっちゅう出くわしてて珍しくもないでしょう。そもそも、アカネさんはオレにくっついてるんだから、ひとりで見に行くことはできないじゃないですか」


「一緒に行けばいいじゃない」

「厭ですよ、冗談じゃない。なんで好きこのんで、わざわざ面倒に首突っ込まにゃならないんです?」


 ええー、とむくれる。

「いざとなったら、ほら、上げちゃえばいいんだし」


 その言葉に、修哉はさらにうんざりした顔をする。

「やですよ……その気もないくせになに言ってんですか。それにアレ、後がすげえ大変なんですからね」


 アカネさんはいいかもしれないけど、下手すりゃオレは深刻な傷手を負う。

 ふいにトイレの個室から物音がした。え、と顔を上げる。


 瞬時に考えた。誰か、いたのか――、聞かれた?


 他人には、アカネの声は聞こえない。修哉ひとりの話し声のみ。相手もおらずにひとりでしゃべっているように思われる。

 誤魔化すのに慣れた手つきでスマートフォンを左手で取り上げ、耳に当てる。


 アカネは修哉の背後に移動していた。鏡には写らないので、なにをしているのかはわからない。


「――シュウ」


 離れたところから声がした。左耳だけがアカネの声をとらえる。聞こえる、のは正確ではない。この声はおそらく鼓膜を通らない。直接、耳の奥に彼女の声が届く。

 ただ、アカネが遠ざかるとそのぶん声が聞こえにくくなる。小声に聞こえる。


「なんですか、アカネさん」

 振り返ると小便器の対面に設置された、奥のほうの個室の扉が目に入った。おかしなことに、人が動く衣擦れも聞こえず、生きた者の気配を感じない。


 閉じているはずの扉が、不快なきしみを響かせる。

 開く、――ゆっくりと。


 こちら側へと十センチほどの幅を空け、ゆうらりと前後して止まった。

 扉の白い塗装面から唐突に現れる。突き抜けて出てくる。


 見えるのは妙に焦点が定まらない、ぼやけた姿だった。特に足元が霞んでいる。

 地面から離れ、浮く姿。


 瞬時に、さっきの、と察した。


 座敷が連なる通路に、ぼんやり突っ立っていた紺のエプロンを着けた中年の店員。疲れ切ったようすの、暗い顔。張りがなく、だらんと垂れた頬の皮膚。

 ぞっとするような肌の色だった。生気を失った灰色。修哉は目の前にいるものについて、情報がひとつに繋がるのを覚えた。あの腕の、――畳の上に転がっていた――あの虫みたいに蠢く手の持ち主だ。そして、やはり向こう側が半ば透けて見える。


 あの手は、梶山に消されたものと思っていた。どうやら違ったらしい。


 なぜか、霊は強い生命力に当てられるのを嫌がる。アカネ曰く、生者は自然と強力な防壁を持っているもの、らしい。だから知らずのうちに霊のほうが退散するので、おたがいに関わり合わないのがふつうだった。


 いろいろ視てきたなかでも、ひときわ尋常でない活力――霊にとっては破壊力――に満ちているのが梶山だった。先日のバイト帰りに偶然、梶山が道の片隅に吹き溜まった霊の群れに突っ込んで行って、無自覚に蹴散らしているのを視た。


 日々、視える霊の対応に苦慮している修哉にとって、こいつ祓い屋の資質まであるのかと思わず妬ましくなるほどだった。


 もしかして、この中年の霊は梶山の気配を察し、自ら退散したのか。そして、座敷席からひとり離れた隙を狙い、またオレをかまいに現れた。


 頭上の照明が、闇夜の雷のごとく激しく明滅する。

 うわ、と無意識のうちに声が出た。


 分厚い目蓋に覆われた半目の状態で睨めつけられる。どろんと流れ落ちそうな濁った瞳を見たとたん、生気を奪われるかのような感覚があった。凍る怖気が足元から駆け上がる。


 どこからか硬い壁を金属の爪で引っ掻く音がする。


 背筋を凍らせるキ、キ、キと断続する高音域が一筋、空間に響く。神経を逆撫で、心を軋ませる音。

 頭の後ろで髪が逆立ち、引き攣れるように感じた。


 わずかに吸い上げた息が肺に入らない。心臓が猛打をはじめる。

 店員の霊――、相手から激しい欲求が伝わる。


 こいつには視えている、と知ったとたん、奪おうとする。入り込もうとする。

 肉体を、生命を欲しがる。


 壁を、天井を、地面を掻き毟る音が一斉に鳴る。幾重にも、空間を揺るがし、素肌がびりびりと振動する。


「……なにしてくれてんのよ」


 場にそぐわない、明るく、しかし静かな怒りを秘めた声が左耳に響く。周囲の騒音にかき消されず、明瞭に聞こえる。

 左横の存在が、心強く思えた。細身の水色ワンピース姿が目の端に映る。

 この異常事態に対抗できる、修哉にとって唯一の味方。対等に張り合えるのは彼女だけだった。


「コレは、あたしの!」

 あ、た、し、の、よ、と一音ずつ区切りをつけ、強調する。


 弾けるような憤りが、語気に孕んだ。

 重力を無視し、わっと逆立つ長い髪を視野の外側でとらえる。


「だから、勝手に触んじゃないわよ!」


 修哉の背後から内臓に突き抜ける感触があった。

 射抜かれたかのように熱を帯び、身体が硬直する。動けない。


 身体の内を握られる。


 心臓を摑まれて、身体の芯が痺れ、急激に体温が奪われる。自分のなかにあった温度が、意志を持って一気に解き放たれる。


 電気に触れたかのように目の前が瞬き、光が失われて暗転した。

 なにも見えない。


 受け身も取れず無防備なまま、音だけが聞こえる。


 正面で、分厚い金属を甚大な力で押し潰すような強烈な音が立つ。続いて左右から回り込み、不快な鳴動が狭い空間で幾重にも反響する。


 思考力を奪われる。頭の中に白い霧が立ちこめていくようだった。

 ただ身をすくめ、耐えるしかなかった。


 圧縮され、限界までにひしゃげる低音は急激に音階を上げていく。

 ひときわ音域が高まるにつれ空気が共振を起こし、肌を、肉を、内臓を、心臓を激しく震わす。


 高音から可聴の域を越える。ふいに無音の震えが途絶えた。


 美しく、透明に澄んだ音域が訪れ、場の空気が変わる。大気を尖らせてなおも攻撃を続けようとする空間を、音律が裏から表に返し、包み込んで小さく縮めて平らかに落ち着けていった。


 服を着ているのに透過して、清冽な冷気が肌を撫でる。静電気に似た感触。真正面から背後へと抜け、刺激で身震いが起こる。


 奇怪な現象をすべて消し戻し、やがて微かな名残りと化す。

 きれいな金属音を放って弾け――、


 四散して、ついに霧消する。


 我に返り、おそるおそる目を開いたときには、正常が映った。


「――え」


 間の抜けた声が転げ出た。拍子抜け、まさにその言葉の意味を噛みしめる。

 あんなに凄まじい破壊の音がしたのに、周囲は無傷のまま、そこに在った。

 換気扇のモーターと風切り音がかすかに響いている。


「なによ、今回はほとんど戻したから、なんともないでしょ」

「……もどした」


 腰に両手を添え、アカネがあきれ顔でこちらを見やり、なにまだ呆けてんのよ、と言う。

 頭に霞みがかかっている。


「あれ――って、……やっぱりさっきオレが視た霊?」


 左右に数回、頭を振って血の巡りを戻す。次第に思考が冴えてくるのを感じた。

 そうねぇ、とアカネが左頬に手を当てて考え込む。

「あの場所で、憂さ晴らしに自殺でもしちゃったのかもよ。ブラックな仕事量で病んじゃったとか、職場イジメにあったとか」


 アカネの思いつきは不穏だ。まさか、死人が出た場所を客に使わせるものだろうか。


「それじゃ死後も店に縛られてうろついてるの、おかしくない? いまだに仕事こなしてるつもりっぽかったし」

「じゃ勤務中に、ふつうに発作起こして病院で息絶えでもしたんじゃない? 本人は気づいてなくて、まだ働いてるつもりなのよ。よくわかんないけど」


 ふつうって、何だ。


「過労死……かな」

 アカネは、知ーらない、とそっけない。


 霊同士であっても、互いの死に様など関心がないらしい。

 強く握りしめていた左手を緩める。気づかないうちにスマホを壊してしまいそうだ。


「あんなの大したことないわよ、雑魚よ雑魚」

 ちょっと撫でてやっただけだけど意外に効いたわね、と満足げにアカネが胸を張る。


 緩く波を描く明るい色の髪が、彼女の肩の上でふわりと揺れる。重力が意味をもたない世界の住人らしく、アカネも宙にふわふわと漂っている。


「アカネさん、アレを上げたの?」

「んなわけないでしょ」


 アカネが腕を組んで答える。なんであたしが、と言い、呼吸もしていないのに溜め息をついた。

「縁もゆかりもない土地縛りの雑魚を上げてやらなきゃなんないのよ」と顔をしかめる。


「徳を積めば、すぐに上がれるんじゃありませんでしたっけ」

 全然違う、とアカネは不服を隠さずに言い放った。

「執着を解消すれば、って言ったのよ。いくらシュウが今の状況に不満があるとしても、そんな都合良くはいかないんだからね」


 おあいにくさま、と強めに発声して顔をしかめ、べ、と舌を出す。

 オレはべつに、アカネさんに上がりを期待してるわけじゃないんだけどなと思った。


 アカネがいるから視えるようになったのか、視えるから霊にちょっかい出されてしまうのか。このへんがはっきりしてからでないと、アカネに成仏されるのはとてもまずい。

 もし、アカネがいなくなったら。この先もさっきのような霊障が続けば、視えるだけでなんの能力も持たず、無力な修哉は対抗の手立てを失ってしまう。


 あんなのに集られて延々とむさぼられ続けたら――早晩、間違いなくオレはあの世行きだ。修哉は確信していた。いまも逸るような予感がある。


「じゃあ、アレはどこへ行ったわけ?」


 さあね、と小首を傾げる。

「そのへんでちっちゃくなってるんじゃない? 吹き溜まった恩讐みたいな、たとえば」

 うーんと、悪意の固まり? と疑問を投げかけて首を傾げる。

「いや違うかな、些細な恨みとかー、あ、くっだらない愚痴だって餌になるんだからね」


 舞台に上がって演技でもしているかのように、わざとらしく人差し指を立て、ひらひら漂わす。


「人間の薄ら暗い部分をかき集めて、やっとあんたに視えるくらいになったとこを」

 ふっ、と勢いよく息を吹いて、「こーんな感じであたしが吹っ飛ばしてやったから、ま、しばらく大人しくしてるんじゃない?」


「いなくなったわけじゃないのか……」

 なんだ、あんなにも仰々しい抗戦だったわりに、当座をしのいだだけなのか。

 またこの店に来る機会には、あのおっさんの成長ぶりを観察しなきゃなんねえのかよ、と思うと憂鬱になる。


「あたしのだって指導してやったから、懲りて二度とシュウに近づいたりしないわよ」

「さっきからオレ、物扱いされてますけど」


 オレはモノじゃないですからね、違いますからね、とアカネに念を押す。修哉の訴えにきょとんとした表情を見せる。


 やだ、と右手をひらりと倒し、

「なぁに言ってるの、モノだなんて。そんなわけないじゃない、あたしとシュウは一心同体でしょ?」


 一心同体ときた。

 まあいいけどね、と胸にしまう。思わず長い嘆息が漏れた。


 腑に落ちないのを察したのか、アカネは眉をひそめて言った。

「あたしだって今日は気を遣ったのよ。だからそんなに疲れなかったでしょ」


 あ、そういえば。

 いつもならこんな目に遭うたびに、倦怠と疲労で動けなくなるのだが、平気だった。ふつうに立っていられる。


「雑魚だったから、なるべく絞ったのよ。それでも余ったから戻しといた」

 えっ、と声が出た。

「あれって、自由に出し入れできるようなもんなの?」


 できるわよ、とあっさり断言されて唖然とする。

「シュウの元気は多めにもらっといたほうがあたしは調子が良いけど、ちょいちょい回りに影響与えちゃうから、最低限にしといたほうがいいみたいだってわかったわ」


 聞くなり、渋いものをかじったような気分になった。もしかして、しょっちゅうオレからかすめ取ってんのか。


「そういやあ、さっきの音……はじめて聞いたけど、アレ何なんですか? やたらすげえ音がしてたけど」

「負け犬の遠吠え」

「は?」


 アカネは小首を傾げた。「虚勢を張る」

「……」

 理解できずに黙っていると、わざとらしく反対側に首を傾け、

「カラ威張りをする」

「意味分かりませんけど」

「それじゃなければ、往生際が悪い、かな」


 ええ、と眉を寄せる。わけがわからない。


「悲鳴よ」

 ひ、め、い、と人差し指を立てて強調し、楽しそうに言う。


 引っ掻く音が消えて、金属の固まりをひねり潰すような、聞くに堪えない音質。あれが霊の悲鳴か。


「やたらぎゃあぎゃあうるさいから、潰しちゃったのよね」

 うふ、と鼻にかかる笑みを浮かべるのを見て、おっかねえなと肝が冷える。


 その時、背後の扉が手荒く開いた。若い男の声が響く。


「――シュウ!」


 勢いよく飛び込んできたのは梶山だった。不意打ちすぎて、本気で驚いた。飛び上がって、うわっと声が出た。

 息を飲み、視線がかち合った。しばし、無言で見合う。


「あ……悪い、大丈夫か?」

 先に口を開いたのは梶山だった。


「え、あ、――ああ」


 まじまじと梶山の顔を眺める。なんでそんなに泡食ってるんだと思った。

 修哉の表情を読んだのか、梶山が口を開いた。

「なかなか戻ってこないから、具合悪いのかと思って」


 真剣な眼差しに、気がかりの色が見えた。ちらりとスマートフォンの画面に目をやる。二十分近くが経過していた。

 さすがに驚いた。こんなに時間が経っていたとは。


「ごめん、電話かかってきちゃってさ。ちょっと話し込んでたら時間忘れてたみたいだ」


 ごまかしながらも申し訳ない気持ちが起こる。

 一杯引っかけて中座したまま戻ってこなければ、心配になって様子を見にもくるだろう。

 しかし二十分間、ここには誰も入ってこなかった。あれだけ客がいて、そんなことがあるのか。そう思ってたら、梶山が言った。


「なんか最初ドアが動かなくてさ、焦ったよ。鍵かかってるのかと思ったけど、ここそんな仕様じゃないはずだし。どうしようかと考えてながら押してたら、急に軽くなって開いたから」


 鍵がないのに、引っ張っても動かない。梶山の言葉に、修哉は冷や汗をかいた。

 こんな怪現象も、オレの身の回りではふつうに起こる。


「なあシュウ」と梶山が神妙になって、こちらの顔色を窺う。

「さっきの火事の話が嫌で席外したのか」


「え? なんで?」

 そんなことを訊くんだ、と思った。


「なんかおまえ、変だったから。さっきの話題にぜんぜん絡んでこなかったし」

「いや、べつに……」


 オレは火事を知らないから。

 そう言おうとして違和感があった。いや、違う。火事はあった。記憶にあるんだ。

 今のいままで、忘れていた。


 どうして――?


 急激に平衡感覚が失われるようで、目の前がぐらりと傾いだ。なんで、忘れていたんだろう。


「シュウ、おまえ……あの頃は大変だったから」

 梶山の声を聞きながら、記憶が巻き戻るような感覚があった。


 陰鬱な気配が落ちる。暗い夜の、雨の音。濡れたアスファルトの匂いがする。

 車の走行音がする。足元から渦巻いて立ちのぼる、聞きたくもない雑音。


「……昔を思い出して、聞いていられなくなったんじゃないのか」

 頭の中がざわつく。


「いや、……そんなことはないよ」

 うわの空なのに、無意識のうちに言葉を返している。


 凍てついた氷が融けて地表が出てきたかのように、忘れていた記憶が頭をもたげる。

 今はもう、ずいぶんと折り合いをつけられるようになったと思っていたのに。

 火を消すには、水が必要だ。火災ならば大量の水が要る。

 流れる濁流が嫌いだ。暗い夜の、雨で増水した川が駄目だ。

 眺めていると地獄の淵を覗き込んでいる気分になる。畏怖があふれてまとわりつき、引きずり込もうとする。


 下方に恐ろしい表情が見える。手を伸ばしてきて、足首をつかみ、すくわれる。倒れて動けなくなっているところを、闇が波のように近づいてきて肌を舐め、飲み込まれる。

 真っ暗で苦しい。心臓が早くなって、爆発しそうになって、死にそうになる。空気を吸い込んでも呼吸ができない。自分が崩れていく。


 ありえないとわかっていても、幾度も夢に見た。


 過去に何度も失態を重ねた。他人から見れば、どうということもない濁流を怖れるあまりに。


 だから、当然と言えばそうなのかもしれない。だから梶山は心配したんだ。


 急激に自覚する。他人が死んだ火災よりも、よほど重大だ。そう、あの出来事。

 梶山はそれを知ってるからこそ気にしてくれる。ガキのころからずっと、幼なじみとして近くにいて、なにが起こったかを知っているからだ。


 梶山は修哉を眺め、喉に引っかかったものを飲み込むか、吐き出すか迷っているような表情をしていた。

「シュウ、また事故に遭ったんだってな」


 え、と声が出た。予測しなかった問いに、意表を突かれた。

「なんで――それを?」


「聞いたんだよ、弟から。去年の秋にまた死にかけたって話、カズから聞いたって」

「あいつ……なんでオレのことしゃべり回ってんだよ」

「兄貴を心配してんだよ、当然だろ」


 カズ、とは修哉の弟、和哉のことだ。

 梶山とは幼稚園で二年間、同じクラスになって仲よくなった。修哉と梶山が卒園の年級に、和哉は兄弟枠で幼稚園に入園してきて、その一年後に梶山ただしの弟であるしんと出会った。


 小学生のうちは兄弟四人でよく遊び回った。だが和哉としんは学年がひとつ違うから、いまだに家庭の事情を話すほどの親交が続いているとは知らなかった。


「他言しないでくれってカズに釘刺されたらしいけどな」と梶山は続ける。

「おまえに今日会うって話をしたら、しんのやつ、思い出したように言い出しやがったんだ」


 聞いてびっくりしたよ、なんで話してくれなかったんだ、と傷ついたような顔をされて、ようやく相手の心情に思い至った。

 興味や好奇心ではなく、心から気にかけているのだと。だが気を使って、他の友人の耳に入らない今だから尋ねている。


「事故にあったのは去年の秋だし、そこそこ命の危険は感じたけど……」

 修哉は軽く肩をすくめ、小さく息を吐いた。

「武勇伝で言い回るって、他人からすりゃイタイ奴だろ。自慢するような話じゃない」

「そうかな」

「面白ネタっていうより自虐ネタだろ、こんなの。聞かせたところで同情を買うだけだし。だから話さなかったんだよ」


 修哉の説明に、「ずいぶんと他人行儀だな」と梶山の態度がしおれた。


「あのな」

 修哉は梶山の足元へと目を向けて言った。顔を見たら本当のことを言いたくなる。

「おまえに話すと大げさになるから言わなかったんだよ」


 半分は本心。だが、半分は違う。

 修哉は思った。アカネさんが視えるようになった日から、勝手の違う新しい世界に取り込まれてしまったんだ。霊との共存を強いられながら、ふつうの大学生のふりをして日々を送るのに精一杯で、本当に他に気を回す余裕も時間もなくて、だから――。


「だけどホントおまえ、間が悪いよな。免許取ってすぐに、もらい事故なんてさ」

 梶山の顔は不安げに見えた。滅入りそうな空気を変えようと、わざと修哉は明るい声を出す。


「そうでもないだろ、車は大破で逝ったけどこっちは無傷だったんだ。おかげで中古車は新車になったし、むしろラッキーだったんだって」


 そう言いながらも内心では違うことを考える。運がいいとは思えない。命を拾ったかわりに、とんでもないオマケがついてきたからだ。


「まだ運転あきらめてないのか」

「あたりまえだろ、そのために免許取ったんだ」

「意外にメンタル強えな」

 梶山は笑った。修哉は胸を張って答えた。

「そもそもオレの運転で事故ったわけじゃねえし」


 誓って安全運転だった。オレは、悪くない。むこうが勝手に突っ込んできたんだ。


「九年……いや、十年近くになるか」

 梶山の言葉に、目線を向ける。

「なにが?」

「おまえの大殺界の周期」

「え?」


 なんだよ、大殺界って、と問いかける。梶山は困ったような表情になった。


「定期的に来るんじゃないの? そういう悪い運気」

「なんだよ、オレの運気って。おまえ占い師にでもなるつもり――」


 修哉が軽口を叩く途中に、冗談じゃなくて、と梶山が口を挟んだ。

「マジで気をつけろよ」


 真顔で梶山に念を押される。占いやらまじないやらを信じてるかどうかは別として、本気で心配しているのだけは伝わってきた。


「まあ二度あることは三度あるっていうから、なるべく気をつけるようにするよ」


 十年後のことはわからないが、とりあえず今は無事だ。死なないように守ってくれる味方もいる。


 でも、と疑問を抱く。本当にそうだろうか。

 左の肩に置かれた細い指が、視野の外側に見える。いま、どのような表情でいるのかはわからない。


 誰にも見えない女。オレはあの日から幽霊に取り憑かれている。

 修哉はあえて明るく言葉を返した。


「大丈夫だって。おまえも言ったとおり、俺は強運なんだ」

 心配してくれてありがとな、と梶山の肩を軽く二度、叩いた。



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