女と男

「健忘症か?」

 デスクの上で何度も手を握っては開く動作を繰り返していた俺に、隣の同僚が声を掛けた。

 健忘症?

 今日、特にミスをした記憶はない。何かを忘れていたこともなかったはずだ。わざわざ同僚に心配されるほど、ぼうっとして見えるのだろうか。

 俺はモニターに映った自分の顔を見る。いつもと同じ顔だ。昨日も、一昨日も、こんな顔だった。これが、俺の顔だ。なぜこの顔が俺の顔なのかは知らない。昔から、そう思って生きてきただけだ。

「気をつけろよ。俺のダチもなってたからな。手首のストレッチが効くらしい」

「それを言うなら健忘症じゃなくて腱鞘炎だろう」

 同僚は三秒ほど俺の目を見つめて、不敵に笑って仕事に戻った。

「おまえも気をつけろよ、健忘症」

「うるせえ」

 モニターに映った俺が、液晶の向こうで誰かと会話する。

 俺は左手で、右の手首を握る。そのまま手のひらに指を滑らせ、厚い皮膚と、その下にある骨の感触を確かめる。

 俺の手だ。間違いなく、自分の物だ。しかし、これは俺が動かしているのではないと言う。いや、動かしているのは俺だが、こうして考えている俺ではない。ここで考えている俺は、勝手に動く俺の手を、透明な壁を挟んで眺めながら、自分が動かしているように仮想的に追体験しているだけだ。

 ……馬鹿馬鹿しい。

 あれから何度も考えてみたが、やはり信じられたものではない。俺はマウスに手を乗せ、画面上のカーソルを動かす。そのまま、カーソルの軌跡で「ば・か・ば・か・し・い」と描く。

 今、マウスを動かしたのは誰か。たまたま画面に「ばかばかしい」となぞるために分岐した世界があって、それを俺が選んだだけだというのか? なぜそんなふざけた分岐が存在する必要がある? 馬鹿馬鹿しいと考えたのは俺だ。俺の意識だ。だから、俺の意識なしにそんな世界が発生するはずはない。俺の意識が遅れて追いかけているのではない。まず俺の意思があって、それから体が動いているはずだ。

 ……本当にそうか?

 女は、全ての生き物が自律して動いていると言った。それなら、この世界の三次元的な俺もまた、何かを考え、判断しながら生きているはずだ。そして、この世界に生きている三次元の俺は、当然アプリのことを知っている。それなら、女のことも知っているはずだし、女から世界についての気狂いじみた話も聞いているはずだ。そして、俺の意識とは無関係に、その話を「馬鹿馬鹿しい」と思うかもしれない……。

 意思決定。それはどこから始まるのだろう。

 漠然と、何か重要なことを判断する時が、女の言う意思決定のタイミングなのだと思っていた。けれど、生きるということは細かく分割された判断の連続に他ならない。そう考えると、俺は四六時中ひっきりなしに意思決定をしていることになる。

 さっき画面に文字をなぞった俺は、どこでその判断を下したのか。なぞり始める直前がその瞬間だったのか。それとも、マウスに手を乗せた時か。馬鹿馬鹿しいと、心の中で思った時か。

 漫画の例え話に戻るなら、画面に文字をなぞるコマの前に、「馬鹿馬鹿しい」というモノローグが描かれたコマがあったはずだ。どちらのコマの時点で、俺はこの漫画を選んだのだろう。もしモノローグを選ぶための意思決定があるとしたら、それは意思決定のための意思決定だ。だが、そんなものがあってはいけない。それを許してしまえば、意思決定のための意思決定のための意思決定が必要になり、合わせ鏡のようにどこまでも続いてしまう。あるいは亀に追いつけないアキレスのように無限に収束し続け、たった一つの意思でさえも永遠に決定することができない。

 馬鹿馬鹿しいと思ったのは、誰だ?

 本当に、この俺自身だったのか。俺の思考は、俺の物なのだろうか。


 女はきっと、またこう言うだろう。

「そんなことで悩むのは、あんただけよ」と。

 女は今、どこにいるだろう。この疑問に答えられるのは、どの世界を探しても、おまえしかいない。その理不尽で強烈な力で、もがくほどに絡みつく異次元の糸を、残らずちぎり取ってはくれないか。


 とりとめのない思考を断ち切るように、電話が鳴った。

 社用のスマホだ。相手の名前は表示されていない。警戒しつつ通話ボタンを押す。

「もしもし、仕事中に、ごめんね」

 ざらついた回線の向こうで、男の声がした。俺はせわしく部屋を出る。

「何か用か?」

「あれから、特に変わりない?」

「ああ。例の男も見ていない」

「そっか。まあ、あんたにとっちゃ、それが一番だね」

 ファミレスで会った男だ。まだあのチョコレート男は見つかっていないようだ。

「やられた子がね、こないだ見たらしいんだ。駅の辺りでね。俺も取り込み中でさ、仲間も近くにいなかったから、惜しかったけど、とりあえず避けろって言ったよ。尾行しろ、なんて言えないからさ」

 男は前と変わらず軽薄な口ぶりで話し続ける。

「やっぱり、写真もないし、素性もわからないから、俺としても動きづらいんだよね。顔を知ってるのも、その子と、あんただけだし。まあ、なんにせよ、まだその辺うろうろしてるみたいだからさ」

「わざわざ忠告のために電話したわけじゃないんだろう」

「はは。まあね。何と言うか、俺みたいなのは、一回舐められたらおしまいなんだ。散らかしたら、ちゃんと後片付けしないと。だから、もし見かけたら、頼むよ。できれば、尾行して家でも見つけてくれたらベストだね」

 男は笑いながら、冗談、冗談、と言った。きっと、目つきは少しも笑っていないのだろう。

 俺には、もう関係のない話だ。男に義理立てする必要は微塵もない。頭の中に現れた茶色い顔を、俺は無理やり払い除けた。


 デスクに戻るや否や、同僚が小声で「女か?」と聞いてきた。

「違うよ」

「嘘つくなよ。友達多い子か?」

「いかつい男の子の友達でもいいか?」

「最高だね」

 同僚はそう言うと、思い付いたように言葉を続ける。

「ところで、そろそろあいつのケツ拭きも終わるんじゃないか?」

「もうだいたい終わったよ。あとは愛人としけこんでるところにトラックで突っ込むだけだ」

「愛人は置いとけよ。俺がもらうから」

「人間の形してれば何でもいいんだな、おまえは」

「ドーナツの形でじゅうぶんだろ。ま、あらかた片付いたんなら、たまには行こうぜ」

 同僚は口の前で猪口をくいっと傾ける、時代遅れのジェスチャーをした。この男のこういう野暮ったさは、嫌いではない。

「そうだな」

 前の上司がぶちまけていった象の糞のような大量の残務処理も、ようやく終わりが見えてきたところだ。それに、このところややこしいことばかりが起こりすぎた。難しい問題は全て忘れて、誰かと気楽に飲むのも悪くない。

 俺は久しぶりに晴れやかな気分で、糞掃除の仕上げに取り掛かった。


 いつもは一人で歩く道も、誰かと歩くと違うものが見える。もっとも、今回は「違う店が見える」と言った方がいい。一人だとまず選ばない店も、二人だと急に身近な選択肢として擦り寄ってくる。小洒落た店、高い店、店員の呼び込みがやかましい店、どんな店でも一度は俎上に載せて吟味される。同僚は真剣なのか何も考えていないのか判断がつきかねる、神妙な表情で歩いている。

 隣を歩くのが、あの女だったらどうだろう。いつもと違う店が見えるだろうか。いや、きっといつもの店も見えないはずだ。店なんて一つも目に入らないくらい、とんでもない話に目を白黒させながら、いつのまにか飲み屋街も歩き過ぎ、やがて暗い公園のベンチに辿り着いて缶ビールでも飲むのだろう。

「唐揚げが世界一うまい店がいいな」

 せっかく広がった選択肢を竹の筒で覗きながら、同僚が言った。

「唐揚げなんてだいたいどこでもうまいだろう」

「世界一うまい唐揚げがあるんだよ」

「あるならその店でいい」

「なくなったよ。地元の中華料理屋で、親父が夜逃げしたんだよ。熱帯魚が好きな親父でさ、店の中にもアロワナとかの水槽があって、まあ生け簀にしか見えなかったけどな、魚の世話のために借金してたらしい。ヤクザみたいな奴が借金のカタにアロワナを持って行こうとして、店の前で水槽を割っちまって、逃げたアロワナを必死に捕まえようとする光景がドジョウすくいみたいだったって、近所のおっさんが言ってたよ」

 心の底からどうでもいい話を聞きながら、何も考えない心地よさに浸っていた。川のそばの中華料理屋、確かあそこの唐揚げもうまかった。もしかしたら、夜逃げした親父がこそこそと新しい店を始めたのがあの店なのか、などと、俺自身くだらない空想に耽っていた、その時だった。


 予感がしたわけではない。

 きっと、心のどこかで、探していたのだ。

 濡れたように滑らかなネオンの光、鮮やかな原色に縁取られた雑踏の向こうに、女が立っていた。

 あの女だ。

 幻覚だろうか。じっと立ち止まって俺を見ていたようだが、見失ってしまった。

「すまん、ちょっと待っててくれ」

「なんだ、女か?」

「いや」

「女だろ」

「すまん。やっぱり、飲むの今度でもいいか?」

「そうやって何回も謝るのは、女だよ」

「悪い」

「行ってこい。帰ってくるなよ」

 俺は別れもそこそこに、慌てて人混みへと踏み込んだ。女の立っていた路地を探すが、誰もいない。

 見間違いだったか?

 特徴のない顔だし、服装も違っていたから、別人かもしれない。女のことを考え過ぎて幻を見たのだとしたら、俺もいよいよだ。

 同僚に詫びてもう一度合流させてもらおう、そう思ってスマホを取り出した時、

「相変わらず辛気臭い顔してるわね」

 振り向くと、赤いネオンに照らされた女の顔があった。

「連れの男が待ってるんでしょ、時間は取らせないから」

「いや、あいつは大丈夫だ。今度友達を紹介してやってくれ」

「何の話?」

「なんでもないよ」

 女は困惑したように間を開けたが、表情は変わらなかった。

「で、何の用だ?」

 感情の昂りを押し殺し、淡々と尋ねる。

「そう。簡単な引き継ぎと、アフターサービスよ」

「引き継ぎ? アプリは最近起動してないから何も話すことはないぞ」

「問題なしと受け取っておくわ」

「とりあえず、店にでも入らないか? 何か食いたいし」

 下手糞な言い訳を捻り出すが、女は冷たく答える。

「用件さえ伝えたらさっさと消えるわ」

「急いでるのか」

「ちょっと、また、忙しくなってきたのよ」

 何かトラブルがあったのか。それとも、うまくいっていないようだった不幸集めの仕事が、好転し始めたのか。俺は山勘で後者の線に乗ってみる。

「よかったじゃないか」

「まあね。人間の言葉で言えば、栄転ね」

 どうやら当たったらしい。

「不幸集めは終わったのか?」

「そう、だからこれが最後のアフターサービスよ」

 へえ、まあ、よかったな、などと意味のない文句を並べながら、俺は動揺が漏れ出すのを抑えるのに必死だった。

 最後。

 これが最後?

 まだ何も片付いていない。女からすれば、アプリをインストールさせて、然るべきアフターフォローをして、滞りなく仕事は完了したかもしれない。次に何の仕事をするかは知らないが、引き継ぎが済めば、晴れて不幸集めの部署からもおさらばだ。

 だが、俺は違う。まだ解決していない疑問だらけだし、それに、この女の影が胸裏に居座ったままで、手を振ってお別れ、というわけにはいかない。

「最後って、どういうことだ」

「もう直接このアプリには関わらないのよ。新しい担当からは、また連絡があると思う」

「また悪魔が来るのか?」

「わたしみたいに人間の姿をしてるかどうかは、わからないわ。人間の世界に溶け込んでるのは少数派だから」

「人間の姿をしてない奴が突然部屋に現れたら、冷静に対応できる自信はないぞ」

「そういう意味じゃなくて、電話とか、メッセージとか、そういう形になるかもしれないってこと」

 そうじゃない。

 どうでもいいんだ、そんなことは。

 大事なのは、そこじゃないんだ。

「どうしたって、おまえは、いなくなるってことか」

「わからないことは、新しい担当に聞いて。ただ、わたしみたいになんでもかんでも開けっ広げに答えてはくれないと思うけど」

「だったら、これまで通り、おまえが答えてくれたらいいじゃないか」

「元々いなかったのよ。わたしは、あんたの世界に。それが、元通りになるだけ」

 元通り、退屈な日常に戻る。

 きっと、俺はやっていけるだろう。やがては女のことも忘れて、アプリも削除する。変わらないものを受け入れるのは得意なはずだ。今までもずっとそうしてきた。


「あなたは、龍と馬、どっちに似てると思う?」


 この世界が、俺の世界だ。

 代わり映えのしない日々を選んだのは、俺だったんじゃないか。同じような仕事、同じような食い物、同じような顔に囲まれて、何を諦めたのかも思い出せないまま生きる。


「仲間外れなのに、誰よりも独創的なの」


 今からでも遅くはない。どこか適当に検索した世界で、新しい生活を送ることだってできる。家族、仕事、金、名誉、根気よく探せば見つかるはずだ。簡単だ。ボタンを押せばいい。それで、俺は完全に別の俺に生まれ変わる。


「そう。だから、龍に似ていて欲しい」


 何も持っていない。

 何も成し遂げられない。

 目の前には、いつも色のない靄がある。

 振り返っても、色のない靄がある。

 俺はただ、抜け出したかった。

 この靄を吹き飛ばす、猛烈な何かを求めていた。


 それは暴力的に羽ばたく、悪魔の翼だったかもしれない。

 薄暗い路地、冷たいアスファルトから浮かび上がる爪先。虚空から見下ろすその姿に、俺は決して手に入れることのできない二枚の翼を見たのだ。

 あの時俺に宿ったもの、それは恐れではなく、憧憬だった。


「人間に……!」

 俺は叫ぼうとした。

 だが、その先は、言えなかった。

 女は、細い指を一本立て、俺の唇に当てた。それだけで、俺の言葉は封じられた。魔法だろうか。魔法のせいにしたかった。俺はそれ以上、何も喋ることができなかった。悪魔の姿を求めながら、人間として生きて欲しいなんて、どうして言えるだろう?

「人間に似せようと頑張ってみたけど、やっぱり、やりすぎはよくないわね」

 女はそっと指を離す。そして一歩後ずさる。

「お互いのために、ね」

 そう言うと、女はくるりと向きを変え、闇の中に消えた。

 俺は動けなかった。

 知覚できない遠く離れた世界、ここではないどこかの世界から、見えない手が伸びてきて俺を押さえつける。その手の実体は、俺の触れられない場所にある。もがいても、もがいても、両手は虚しく空を掻くだけだ。


 女はいなくなった。現れた時と同じくらい、突然、身勝手に消えてしまった。

 みんな、何かを残して去っていく。女の残したものを、俺は拾い集めて、またこの日常を進めなければいけない。けれど、今は、何も考えたくない。面倒なことを忘れるために酒を飲みに来たら、本当に、面倒なことも、そうでないことも、あっという間になくなってしまった。

 俺はスマホを取り出した。赤いアイコンに指をのせようとして、躊躇する。起動したところで、このアプリで何ができる? 女はきっと増殖する世界の外にいる存在だ。別の世界に行ったところで見つからないだろう。この緊急用のボタンだって、もう知らない誰かに繋がっているかもしれない。もし女を呼び出せたとしても、何を話せばいいと言うのか。

 俺はスマホを仕舞った。空腹も麻痺したように感じないし、店に入る気も失せてしまった。今更同僚に合流する気分でもない。このまま駅に向かって、家の近くのコンビニでビールでも買って帰るくらいしか思いつくことはない。

 そう思って歩き出した俺の肩を、何かが強く抱きしめた。女が、戻ってきたのか。ほんの一瞬、そう思った自分の愚かさを呪うまで、数秒もかからなかった。

「久しぶりだね、お兄さん」

 黒いフードを深く被り、半分だけ覗いた黒い顔が、笑っていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る