第6話 登校初日
慣れない制服をどうにか着て、唯花と一緒に登校した初日早々、幸太郎は一人で三谷が作った弁当を食べていた。
初日くらいは、周りの人間も興味半分で話しかけてくるかなと思っていたが、見事に避けられていた。別に何をしたわけでもない。ただ、誰の目を見ても皆、目線を背けた。
弁当を食べ終わっても、休み時間はまだだいぶ残っている。なんだか教室にいるのも居心地が悪いので、弁当をしまうと早々に教室を出た。
どこへ行くでもなく彷徨っていると、階段の手前で案内表示があった。いくつか矢印が書いてある中で、一つだけ屋上と書いて上を指す矢印があった。
─屋上だったら、景色も見えるし人も少ないだろう─
昨日の昼に考えていた理想の学校生活が早々に崩れ去り、幸太郎は半ば裏切られたような気持ちで屋上を目指した。階段を上り、ようやく表れた屋上の扉に手をかける。だが、ドアノブを回しても扉は開かなかった。
「屋上は入れませんよ」
不意に、後ろから声がする。驚いて見ると、5階の踊り場と掃除用具箱の間に、三角座りをした唯花がこちらを見ていた。
「……驚かせないでくれよ」
幸太郎が胸をなでおろしているのを見て、唯花も反論する。
「それはこっちのセリフです。なんでこんなとこに来るんですか」
「同感だな。俺も今、同じことを考えていた」
「私は、何となくそんな気分だったからですよ」
「だとしてもここ埃っぽくないか? それに……」
唯花の手元を見ると、三谷の作った弁当があった。風呂敷は広がっていて、見たところ誰かが来たので急いで食べるのをやめたというところだろう。
「弁当も食べてたみたいだし」
「それも、私が今日ここで食べたい気分だったからです」
「そうなのか」
「そうです。と言うか、上坂さんこそ何でここにいるんですか?」
「なんだか教室に居づらくてな」
「あら、転入してきて初日は、周りの生徒に質問攻めにされるというのが相場ですよ?」
「ああ、俺もそうだろうと思っていたが……この通りだ」
幸太郎は肩をすくめて見せた。それを見て、それまで無表情だった唯花が、少しだけ笑った。
「何か変なことでも言ったんじゃないですか?」
「いや、さして変なことは言ってないが」
「今日、クラスメイトの前で喋る機会とかありました?」
「うーん、あ、朝に自己紹介はしたな」
「その時、皆変な顔してませんでしたか?」
「そう言えば、若干引いていたような」
「絶対そうだ。何言ったか、もう一度私に言ってみてください」
「なんで」
「そうすれば、何がまずかったのかがわかります。今後のために、ほら、早く」
「わかったよ。えー……」
幸太郎は朝のホームルームでやった挨拶を唯花に見せた。
初めまして。名前は上坂幸太郎。1年前まで公国のI・Cに所属していた。ついこの間まで牢獄にいたんだが、先日、スリジェの本部長に助けてもらって、今こうしてここにいる。何かと至らない点はあると思うがよろしく頼む。
いつも通りの口調で個人的には何も変なことを言っている自覚はなかったが、聞き終えた唯花は、苦いものでも食べたような顔をした。
「それは、ちょっとまずいですね」
「え、なんでだ」
「だって、皆I・Cを知ってて恐れてるって昨日私や母が教えたのに、気にすることなく喋っちゃってるじゃないですか。もしかしたら、クラスの人たちは話しかけてみようかなって考えていたかもしれないのに、自分から壁作っちゃってますよ。普通に恐怖心を持ってる子からしたら、そりゃ避けられますよ。無理もないです」
「ああ、そういうものか」
「もしかして、落ち込んでるんですか」
「いや、今更I・Cにいたからって何かを言われても動じないよ」
「とにかく、今後は表立って口に出さない方がいいですね。I・Cの方々が実際に民衆を助けていただけだったとしても、苦手意識を持っている人はたくさんいますから」
「……わかった、気を付ける」
「そして、その口調!」
唯花が声のトーンを上げて、幸太郎の顔を指さした。
「初めて会う人には基本、敬語で話した方がいいです。その方が何かと楽に過ごしていられます」
「ああ、だけど苦手なんだよな」
「だから練習するんじゃないですか。普段からどんどん話していって、今後どこかに出かけた時に、敬語で話せるぐらいにはなっておいた方が楽ですよ。絶対練習した方がいいです」
「わかったよ……わかりました」
「私と話すときはため口でいいです」
唯花はそう言って、弁当の包を結び始めた。
「もう、いいのか?」
幸太郎が包を指さして尋ねる。
「はい、もう食べ終わりましたから」
そう答えると、唯花は立ち上がってスカートに付いたほこりを掃う。屋上への扉についている窓から光が差し、二人の周りで無数の糸くずが舞っているのが見えた。
「ここ、ほんとにほこりっぽいな」
「そうですね」
「他に場所はないのか」
「はい、他は人がいるので落ち着いて食べられません」
幸太郎は何か良い案はないか考えてみたが、来て初日の学校のことは全くわからないので、一緒にご飯を食べるということしか思いつかなかった。
「よかったら、明日から一緒に食べないか?」
「え、私は嬉しいですけど。クラスの方と馴染むチャンスはまだあるかもしれませんよ? 特に休み時間は」
「いや、いいんだ。それよりも、何とかして屋上には入れないのか」
「多分、生徒だけじゃ無理です。生徒会長とかでもないと」
「その生徒会長とやらには、どこで会えるんだ?」
「3階の生徒会室です。でも、上坂さん。あんまり生徒会長とは関わらない方がいいかもですよ」
「なぜ?」
「うちの生徒会長は、立場をはっきりされる方なんです。だから、友好的か敵対的かによって今後の学生生活の自由度が大きく変わってしまいます。ましてや上坂さんは……」
「元敵国のI・Cメンバーだから?」
「……はい。前にもスリジェには公国にいた方が多く住んでいると言いましたけど、生徒会長さんは元からスリジェの人なんです。何でも親御さんが軍に所属されている方みたいで」
「それで、俺は敵対される可能性が高い、ということか」
「はい、というかほぼ間違いなく敵対されます」
「なるほどな。だけど、なんでたかが生徒会長に敵対されたくらいで、俺の生活が大きく変わるんだ?」
「聞いてないんですか?」
「何を?」
唯花は呆れたようにため息をついた。
「いいですか、うちの生徒会長には、十分な証拠があれば生徒を退学に出来る権限があるんです」
「いいのか? そんな権限を与えてしまって」
「私もそう思います。でも、「若いうちから上に立つ人物の育成並びにそれに従う精神を養う」みたいな名目で、この学校には昔から上下関係をはっきりとさせる制度が用意されているんです」
「でもそれじゃあ、上に立つ人間一人以外は、常に誰かに従う側ってことじゃないか」
「そうですね。まあ今はそんな硬い精神も無くなって、制度だけが残った形になりましたけど。ただ悪いことに、今年の生徒会長は軍人さんの娘さんですから」
「正義感が強いってことか」
「はい、軍人さんを悪く言うつもりはありませんけど。彼女は自分の正義感のもとに「悪しきものは罰す」の態度を断固としてとっているんです」
「なるほど、そりゃあ何とも窮屈だな」
「ほんとです」
「まあでも、その鬼に金棒な会長さんを味方に付ければ、なんとか屋上には入れるってことだよな」
唯花は口を半開きにして呆けた顔をした。
「いや、私の話聞いてました?」
「うん、聞いてたよ」
「じゃあなんで、そこから味方に付けるって方向に話が進んでるんですか!」
「いや、そういうことだろ」
「違います! 私は生徒会長さんと関わると碌なことがないから、気を付けるようにと言ったんです」
「ああ、だからそれを逆手にとって……」
「だから! 屋上は別にいいので、このまま落ち着いた生活をしましょうって言ってるの!」
唯花が下の階にも響くほど大きな声で叫んだので、幸太郎も「わかった」と言ってその場は治めた。
だが、屋上のカギを手に入れる方法については、声に出さずに考え続けていた。二人とも勢い任せに話していたので、息切れを起こしていた。特に唯花は、やかんの湯が漏れたように、額から汗を流していた。両者、何も言わず、次に何を言うか探りあっている中、二人の吐く息だけが反響する踊り場に、チャイムが割り込んだ。
ぱっと緊張が解けて、二人は息をつく。
「チャイム鳴ったので、いったん教室に戻りましょう」
「そうだな」
「そう言えば、今日の放課後は予定とかありますか?」
「いや特には」
「よかったら、デザート食べに行きませんか? 近くにいいお店が出来たんです」
「わかった、じゃあ放課後に」
「はい、モニュメントの前で待っててください」
二人は階段を降りて、それぞれの教室に戻った。唯花がいる1組は、3階の階段を曲がったすぐそこにあり、幸太郎とはそこで別れた。一方、幸太郎が属する3組は、そこから2部屋先の教室だった。3組に戻ると、皆は次の移動教室に合わせて準備をしていた。だが、幸太郎の姿を見るとやはり目を背けた。
入り口付近では、女子の3人組が机を囲んで喋りながら準備をしていた。そのうち一人が入り口をふさいでいるので、何か言おうかと迷っていると、机の奥にいた2人が幸太郎に気づき、焦って入り口前の一人に何かを伝えた。彼女は友人がなぜそんなに焦っているのかわからないようだったが、二人の視線を追って幸太郎を捉えると、急に顔から血の気が引き、「すみません!」と言って友人二人の後ろに隠れた。幸太郎は、何も言わず3人の前を通り過ぎた。
ここは居心地が悪いな、と改めて思った。自分の席に戻るまでも、視線は幸太郎の動きを追っていた。時たま、その視線の主を見ると皆一斉に目を背ける。幸太郎は、スリジェから用意された教科書と筆記用具を持って、足早に教室を出た。
そんなこんなで、クラスメイトとは一言も話さないまま、幸太郎の学校生活初日は放課後を迎えた。
ホームルームが終わると早々に教室を出て、玄関に向かう。途中、追いかけてきた担任に部活動の見学について提案されたが、「今日は用事があるから」と断って外に出た。
モニュメントの前に着くと、唯花はまだ来ていなかった。彼女を待ちながら入り口を見て立っていると、一人、また一人と生徒が玄関に集まって来た。どこからかトランペットの音が聞こえ始めた頃には、ほとんどの生徒が幸太郎の前を通り過ぎていた。
今日はサッカー部の声とボールを蹴る音も聞こえる。よく皆外で動き回れるなと幸太郎は思った。こんな寒い日でも彼ら彼女らは薄着で外を駆け回っている。対照的に、自分の手はかじかんできて、時々息を吹きかけながら、教科書を読んで待つことにした。
そうして閑散とした玄関の前で待つこと30分、つい先程始まった全体合奏の音を聞いていると、下駄箱の扉をピシャリと閉めて、巻いたマフラーを押さえながら、唯花が走って出てきた。
「ごめんなさい、掃除と急遽入った進路相談で遅くなってしまって」
「いいよ、全然待ってないから」
そう言いながら、幸太郎は教科書を鞄にしまい、さっきまでかじかんでいた手をポケットに突っ込んだ。だが、唯花はその手をポケットから引っ張り出す。
「やっぱり、真っ赤じゃないですか。すいませんほんとに」
唯花は謝りながら、小さく柔らかな手で幸太郎の手を優しくなでる。たまにふうっと息をかけられて、幸太郎の体はびくっと揺れた。「もういいよ」と幸太郎が止めても、唯花は手を止めなかった。だが、自分の耳を触ろうと手を伸ばしてきた時には、さすがに彼女の手を取って制止した。
「それで、どこに行くんだ?」
急に唯花が、顔を桃のように赤らめて黙り込む。
「どうした?」
「いえ……坂を下りて、海に向かって2分ほど歩いたところに、お店は……あります」
歯切れが悪くなり、声も幾分か小さくなる。
「何かあったのか?」
生徒や教師に嫌がらせでも受けたのかと心配する幸太郎に、唯花は俯いて答えた。
「いえ、その……手が」
「ん?」
幸太郎はそこで初めて、自分がずっと彼女の手を握っていることに気づいた。
「あ、悪い」
ぱっと彼女の手を放す。しばらく唯花は恥ずかしさを抑えるために俯いていたが、銃を向けられた時のように、両手を挙げて焦っている幸太郎がなんだかおかしくなって、自然と笑みがこぼれた。
「いいですよ、でも今度やるときは、あらかじめ断ってから繋いでくださいね」
「……気を付けるよ」
今度は幸太郎が黙ってしまった。だが、唯花は「もういいですから!」と幸太郎の手を取って坂を下り始めた。困惑している幸太郎が「おいっ、手っ」と言っても、唯花は「いいの!」と半ば無理やり幸太郎を引っ張った。本当は唯花も恥ずかしくて、自棄になっていた部分はあったが、幸太郎は頭の中で情報の処理が追い付かず、唯花がさっきよりも頬を染めていることに気づく余裕はなかった。
そのまま引っ張られ続けて、5分。途中、坂道で転びそうになりながらも、無事店に着いた。
「gloria」と看板に書いたその店は、石造りの建物の1階で、窓の上には白いタープが出ている。中に入ってみると、右半分は花屋さんで、左半分がカフェになっていた。
すでに店内は多くの女子高生で溢れていた。男は幸太郎しかおらず、場違いな気もしたが、唯花は楽しそうなので、恥ずかしさは我慢することにした。木の椅子に座り、メニューを開くとたくさんのスイーツが現れた。I・Cにいた頃もたまにスイーツは食べていたが、幸太郎が知らないものも多く、見ているだけで既にワクワクしていた。一方、唯花は既に頼むものが決まっているらしく、メニューを閉じた後は悩んでいる幸太郎の顔を眺めていた。
悩みに悩んでやっと幸太郎がメニューを閉じ、最終的に二人はクレープを頼んだ。唯花が頼んだのはマンゴーとアイスが溢れるほど入った期間限定のクレープだった。やり過ぎなぐらいに載せていて、生地からかなりはみ出しているそれは、もうパフェと言っても過言ではなかった。一方の幸太郎が頼んだクレープは、イチゴと生クリームがこちらもどっさりと載ったもので、クレープの端が開花した花びらのように外に向かって垂れていた。
10分と経たずに、二人の前にはクレープが運ばれてきた。届いて早々、唯花は携帯のカメラで写真を撮っていた。
「上坂さんはSNS、何かやってますか?」
「SNSってなんだ?」
「あー、そっからか」
唯花が笑いながら、携帯の画面を見せた。
「悪い、その辺がまだよくわかってなくて」
「いいです、いいです。携帯は持ってますか?」
「前は持ってたけど、今は持ってないよ」
「そっかー。今度買いに行かないとですね」
「やっぱり必要か」
「勿論ですよ。今日みたいに私が遅れるってなっても、あれば連絡できますからね」
「そうだな。近々行くか」
今回はミナミの時と違って周りに人がいるため、仮に知っていたとしても「I・C」の二文字を出せば学校の時同様、パニックになるかもしれない。そう考えて、敢えて「前」とだけ言ってみたが、唯花はその意図を組んでくれたようだった。
「それで話を戻しますけど、携帯のアプリは世界中の人と関われるものが多くて、中でもコミュニケーションに特化したものを世の中ではSNSと呼んでいます。さっき私が写真を撮っていたのは、そのSNSに投稿するためのものなんです」
「なるほど、もしかしてそのために今日ここに来たのか?」
「はい……そうです」
唯花がおずおずと答える。
「今ここのお店がSNSでも話題で……一度来てみたかったんです。ごめんなさい、言ってなくて」
テーブルの向かいで、唯花が頭を下げた。
「いや、いいよ。久しぶりにクレープも食べれるし」
「クレープ、好きなんですか?」
「うん、結構好きだよ」
「良かった」
唯花は携帯をしまって食べ始めた。店の厚意で用意されたスプーンで、今にもこぼれそうなところからそっと掬い、小さな口に運ぶ。幸太郎にとっては一口にも満たない量だったが、唯花にとっては多すぎるぐらいで、口の横にクリームを付けていた。幸太郎が、「付いてるよ」と自分の同じ部分を指さすと、唯花は焦って、鞄からティッシュを取り出して拭いた。一方の幸太郎はまだ手を付けていなかった。
「すいません、お見苦しいところを見せて」
「いいよ、前も同じような子がいて、見慣れてるから」
「んー、その方々がどんな方かは知りませんが、なんだか子ども扱いされてる感じがして嫌です」
「いや、そんなつもりはないよ」
「いいえ、私がそう感じたらそうなんです!」
唯花はそう言って顔にしわを寄せた。でもその後すぐに幸太郎が謝ってきたので、「冗談ですよ」と笑って話を続けた。
「どんな方だったんですか? その方は」
「俺より8歳も若い子だったよ」
「そんなに若い子もいるんですか? だって8歳ってこっちじゃ小学生じゃないですか」
「ああ、だけどその子も抜擢されたんだ。他に行くところもなさそうだったし」
「こんなこと言うと他人事みたいですけど、なんか可哀そう……ですね」
「まあ、捉え方次第だな。俺たちは身寄りもなかったから、寧ろありがたいと感じることもあったと思う」
「そうですか」
なんだかまた重たい空気になってきたな、と幸太郎は思った。
「それで、その子は生きてるんですか?」
「ベルトリエの話だと、どこかで生きているらしい。詳しくは聞いてないけど」
「……良かった」
唯花は気を遣ってスプーンを置いていた。幸太郎は申し訳ないとは思ったが、自分の話を真剣に聞いてくれているのがわかって嬉しくもあった。だからか、つい言わなくてもいいことを言ってしまった。
「実は、前いたところでは、その子の誕生日にだけクレープが出たんだ」
「へえ、ケーキではなく?」
「うん。いつだったか支給品の中にクレープが入っていて、皆で分けて食べていたら、その子が「ケーキよりもおいしい!」って言ったんだ。その次の年からは、その子の誕生日だけケーキではなく、皆でクレープを食べることになったんだ」
「だったら尚更、食べなきゃですね」
急に話が進んだので、幸太郎は唯花の顔を見た。
「だってさっきから一口も食べてないじゃないですか」
唯花の言う通り、幸太郎はスプーンにすら触れていなかった。
「私も一人で食べてると気まずいです。それでも食べないっていうんだったら、勿体ないので私が食べますよ?」
「ああ、食べてもいいぞ」
「……あの、上坂さんは私のこと、ちゃんと女だって認識してるんですか?」
「勿論、わかってるぞ?」
「だったら、体重にナーバスな女子が食べ過ぎるのを、無言で阻止するのが男性の役割なんじゃないですか?」
「わかったよ。俺がもらう」
「はい、最初からそうしてください」
昨日もそうだが、出会ったばかりの幸太郎に対して、唯花はとてつもないスピードで距離を縮めてきている。それは幸太郎にとって、とてもありがたいことだった。今だって、唯花のおかげでナーバスな空気が和らいだ。
理想の学校生活は初日から破綻していたが、それを差し引いても唯花といる時間が幸太郎にとってプラスになっていた。
「今日はありがとな」
不意に幸太郎が唯花に感謝を伝えた。
「何ですか急に」
「正直学校もちょっと期待してたんだ。自分にも普通の生活ができるんじゃないか、前の居場所に所属してても、今の自分は受け入れてもらえるんじゃないかって。だけど実際はクラスの全員が常に俺を敵対的な目で見ているんだ。居心地が悪いったらないよ」
唯花は黙って聞いていたが、幸太郎がまた悲観的になるのを見て、自分のクレープからアイスとマンゴーを掬い、幸太郎の前に出した。
「これは?」
戸惑っている幸太郎に、唯花は目線を逸らしながら言う。
「あーんですよ。苦しい時は甘いもの食べて忘れるのが一番です。私が食べてるの、すごく甘くて美味しいので、ほら、口開けて食べてみてください」
まだ幸太郎は困惑していたが、差し出されたスプーンはどんどんと自分に近づいてくるので、大人しく口を開けることにした。
間もなくして、冷たいマンゴーの果肉とシロップのかかったアイスクリームが入ってきた。「柔らかい、甘い、冷たい」が一列に並んで口の中を通り過ぎていく。ゆっくりと堪能して飲み込むと、目の前で唯花が笑って見ていた。
「美味しいですか?」
幸太郎は何も言わずに、数回頷いた。
「良かったです。今度は、上坂さんのを少し分けてください」
そう言うと唯花は、その小さな口を開けて目をつむった。
幸太郎は、スプーンでクレープに詰まったイチゴと生クリームをたっぷりと掬い、唯花の口に優しく入れた。イチゴたちが入ってきたのを感じると、唯花は静かに口を閉じてスプーンに付いたクリームも残さず絡めとった。
幸太郎は耳が熱くなるのを感じた。恐る恐るスプーンを抜き取ると、唯花は目を閉じたまま一つ一つの味を確かめるように咀嚼し、ゆっくりと飲み込んだ。
「これ美味しいですね」
唯花は、幸太郎の前にあるクレープを見ながら人差し指を立てた。
「もうやらないぞ」
唯花が何かを言う前に、幸太郎がくぎを打つ。
「えー、いいじゃないですか! もうひと口だけ、お願い!」
唯花は祈るように、各指を交差させて幸太郎に懇願した。幸太郎には聞き取れなかったが、彼女は小さな声で「なにとぞーなにとぞー」と唱えていた。
「ひと口!」「やらない」「ひと口!」「やらない」……のやりとりが何度か繰り返され、最終的には幸太郎が折れて、自分のクレープから少し掬って唯花の口まで運んだ。
結局、それが5回続き、気づいた頃には幸太郎のイチゴは全て唯花に食べられていた。幸太郎にとっては、別に大したことではなかったが、それよりもこの一連のやり取りを恥ずかしいと思わないのか心配になった。
だが、彼女もかなり恥ずかしかったようだ。唯花は平静を装って話してはいるが、目は縦横無尽に泳いでいた。隣の席から「めっちゃ、イチャついてるじゃん」と言われているのにも、唯花は全く気付いていなかった。
店を出る頃には、日が傾いていた。食べ終わってから恥ずかしさがさらに増したのか、唯花は早々に会計をして外に出ていた。
「ちょっと待ってくれ」
幸太郎が呼び止めると、唯花は振り向いて言った。
「私すっごく恥ずかしいことしてました」
「……今更気づいたのか」
「なんで、止めてくれなかったんですか」
夕日に照らされながら、耳まで赤くなった唯花が問い詰めてくる。
「いや、なんか止められる雰囲気じゃなかったし」
「ゔ―!」
唯花はうなり声をあげて、またスタスタと足早に帰路を進んだ。寮に着くまで、彼女は終始無言だった。幸太郎は昨日もこんな感じだったなと思いながらも、これはこれでいいかと、やけに落ち着いていた。
寮に近づくにつれて上着を羽織った通行人が増えてくる。
赤や緑の電飾が彩を加える中で、街全体がクリスマスを迎えようとしていた。
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